野村喜和夫「正午 パロディ中原中也」ほか(「現代詩手帖」2013年01月号)
野村喜和夫「正午 パロディ中原中也」は文字通り中原中也「正午」のパロディである。
「サイレン」が「サイレンス」にかわる。この音の洪水であふれている現代にはサイレンよりもサイレンスがはっきりと聞こえる。
昔、私は野村喜和夫の詩が嫌いだった。私が野村のことばになれていなかっただけなのかもしれないが、ことばが「頭」から出てくるようで、それにつまずいていた。私にはつまずいてその詩が好きになる場合と、つまずいてその詩が嫌いになる場合があるが、野村のことばは嫌いになる方だった。どこから変わったのかわからないけれど、私はいまは野村のことばがとても好きである。
理由はとても簡単で、ことばにリズムがあるからだ。ここに書かれていることばはパロディなので野村独自のものではないといえるかもしれないけれど、中原中也のリズムを借りているだけということかもしれないけれど、それがとても肉体的だ。肉体で追いかけるのにむりを感じない。むしろ、肉体をうまい具合に誘ってくれる感じがする。ああ、そうか、中原のリズムを現代に取り込むとこういう感じになるのか……。
「こういう感じ」では、ちょっと感想としていいかげんなのだけれど。
むりして(わざと?)言いなおすと、中也は「サイレン」と書いた。野村は「サイレンス」と書いた。野村のことばは中也のことばよりも少し長い。音が多い。ただし、この音の多さはとても微妙だ。
昔の人なら「サイレンス」を5音節と数えるかもしれない。でも、いまはだれも5音節に発音しないと思う。「ン」の音の問題ではなく、最後の「ス」。この「ス」を母音をはっきりと音にして声にする人は少ないだろう。ほとんどのひとが子音だけで発音してしまうだろう。文字の情報量ほど音の情報量は増えていないのである。
そして、その増えた音の情報は、中也の時代といまの時代を比較した場合、もっと微妙な問題を含む。音の情報量は増えていないと私は書いたのだけれど、実は、逆のいい方もできる。昔は子音だけの音などなかった。日本語は子音+母音が原則である。そこに子音だけの音があらわれると、それを聞き取るため肉体はちょっと苦労しないといけない。すぐには子音だけの音を聞き取れない。--これは、昔の人から言わせると「ことば」が持っている「音」の情報がはるかに増えたということである。それを聞き取るには自分の肉体の中に音を聞き取るための情報を蓄えないといけない。情報量を増やさないといけない。
でも、いまは違う。いつごろからかはっきりしないけれど、私たちは子音だけの音になれてしまっている。映画が日本語の中にたくさん入ってきて、それが根付いたということかもしれない。まあ、そういう環境で私たちの肉体は(耳は)必然的に変化してしまっていて、「サイレン」が「サイレンス」にかわっても、肉体が違和感を感じない。違和感を感じないで、それを受け取ってしまう。
この、不思議な「境界線」のようなものを、野村のことばはすっーと乗り越えたというか、つかんだのだと思う。つかんでいるように、私には感じられる。長々と書いているけれど、こういうことは「感覚の意見」なので、当てにならないし、(あるいは逆に当てになるかもしれないけれど)、ほかに言いようがないのだが……。
ええっと。
「サイレンス」に似たことばに「サイレント」がある。「サイレント映画」というときの「サイレント」。サイレンス(名詞)サイレント(形容詞)と違うのだから、野村の書いている「サイレンス」を「サイレント」と書き換えることはできないのだけれど、
もし、
と1行目が始まってたらどうなっていただろうか。英語ではサイレンスもサイレントも最後の音は子音だけなのだが、日本語の場合は違うね。
これは、耳と発音の両方の問題なので、個人差があるかもしれないが、私の場合は、日本語の文脈の中で「サイレント」と言った場合、「ト」には「お」の音がはっきり残る。「サイレンス」の場合「ス」に「う」の音は残らない。英語の発音で「サイレント」と言う人が、
という行を朗読したとき、私はたぶんそれを「サイレン」と聞き間違えるだろう。そうすると、それは「パロディ」にはならない。
こういう違いを、野村の肉体は識別していると思う。
あ、書こうとしていることにてかなかたどりつけないなあ。私の感じていることは、どこか間違えているのかもしれないが、まあ、強引につづけると。
詩を私は音読はしない。音読はしないけれど、詩を読むとき、のどや耳をつかっているような気がする。活字を眼でおっているだけなのに、のどが乾くし、耳がうるさいなあと拒絶反応を起こすことがある。で、のどが乾くのはいいのだが、耳がうるさいなあ、と感じると私の場合、読書をつづけられない。むりをしないと読めない。昔の野村の詩はうるさかった。でも最近は違う。耳に非常によくなじむ。「頭」のことばではなく、「肉体」のことばになっているのだと思う。
で。
「朝鮮女 現代語訳中原中也」を読むと、その「肉体」の感じ、現代の肉体の感じを野村がしっかり生きていることがわかる。--と、私には感じられる。
これを野村はどう現代語訳するかというと、
うーん。これはすごいなあ。1行目が、まさに「肉体」のことば。このリズムは「肉体」でことばを動かさないとこうはならない。中也のことばは肉体的だけれど、その中也でさえ野村ほど「肉体的」ではない--とはいっても、これは「現代」からの感想だから、当てにならないかもしれないけれど。
どこが、すごいか。
中也は「朝鮮女の服の紐」と言っている。主語(テーマ?)は「紐」。ところが野村は主語を「紐」ではなく「朝鮮」にしてしまう。「朝鮮のひとだな」と「服の紐」と切り離して「朝鮮のひと」だけでひとつの文章にしている。句読点がないから、ちょっとあいまいなのだが、句読点なんて「肉体」にはない。あくまで「頭」で何かを整理するときのためのものだからなくていいのだが……。
ああ、そうなのか。
「朝鮮女の服の紐」と中也は書いているが、関心は「紐」なんかではない。「おんな」でもない。中也の「肉体」は「朝鮮」に反応している。その「肉体」の反応をそのまま「肉体」で引き継いで「朝鮮のひとだな」と引き受けてしまう。
この「肉体」と「意識」のより直接的な結びつき。この呼吸。
中也が突然目の前にあらわれたかのように、私はびっくりしてしまった。そうか、中也の「肉体」はこういうものだったのか。現代に呼び戻すとこうなるのか。
私ははじめて中也がわかったような気がした。
野村の「肉体」と、野村の「ことばの肉体」がぴったり重なって、とても自然に動いている。最近の詩を読むと、そういう感じが非常に強い。だから、とても野村の詩が最近は好きである。どれを読んでもおもしろく感じてしまう。
野村喜和夫「正午 パロディ中原中也」は文字通り中原中也「正午」のパロディである。
ああ、十二時のサイレンスだ、サイレンスだサイレンスだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
老人たちの永い生、ぷらりぷらり手を振って
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きな病院のまっさらな、ひるがえるひるがえる回転扉
空では雲がもふもふ笑って、地にはさざ波
銀色のさざ波のように、なおも欲望の流れに乗って
ああ、十二時のサイレンスだ、サイレンスだサイレンスだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
胆石破砕室を抜け、青汁スタンドを抜け
自身きらきらしいまでの抜け殻となって
大きな病院のまっさらな、ひるがえるひるがえる回転扉
空吹く風にサイレンスは、皺より皺よって舞い上がりゆくかな
「サイレン」が「サイレンス」にかわる。この音の洪水であふれている現代にはサイレンよりもサイレンスがはっきりと聞こえる。
昔、私は野村喜和夫の詩が嫌いだった。私が野村のことばになれていなかっただけなのかもしれないが、ことばが「頭」から出てくるようで、それにつまずいていた。私にはつまずいてその詩が好きになる場合と、つまずいてその詩が嫌いになる場合があるが、野村のことばは嫌いになる方だった。どこから変わったのかわからないけれど、私はいまは野村のことばがとても好きである。
理由はとても簡単で、ことばにリズムがあるからだ。ここに書かれていることばはパロディなので野村独自のものではないといえるかもしれないけれど、中原中也のリズムを借りているだけということかもしれないけれど、それがとても肉体的だ。肉体で追いかけるのにむりを感じない。むしろ、肉体をうまい具合に誘ってくれる感じがする。ああ、そうか、中原のリズムを現代に取り込むとこういう感じになるのか……。
「こういう感じ」では、ちょっと感想としていいかげんなのだけれど。
むりして(わざと?)言いなおすと、中也は「サイレン」と書いた。野村は「サイレンス」と書いた。野村のことばは中也のことばよりも少し長い。音が多い。ただし、この音の多さはとても微妙だ。
昔の人なら「サイレンス」を5音節と数えるかもしれない。でも、いまはだれも5音節に発音しないと思う。「ン」の音の問題ではなく、最後の「ス」。この「ス」を母音をはっきりと音にして声にする人は少ないだろう。ほとんどのひとが子音だけで発音してしまうだろう。文字の情報量ほど音の情報量は増えていないのである。
そして、その増えた音の情報は、中也の時代といまの時代を比較した場合、もっと微妙な問題を含む。音の情報量は増えていないと私は書いたのだけれど、実は、逆のいい方もできる。昔は子音だけの音などなかった。日本語は子音+母音が原則である。そこに子音だけの音があらわれると、それを聞き取るため肉体はちょっと苦労しないといけない。すぐには子音だけの音を聞き取れない。--これは、昔の人から言わせると「ことば」が持っている「音」の情報がはるかに増えたということである。それを聞き取るには自分の肉体の中に音を聞き取るための情報を蓄えないといけない。情報量を増やさないといけない。
でも、いまは違う。いつごろからかはっきりしないけれど、私たちは子音だけの音になれてしまっている。映画が日本語の中にたくさん入ってきて、それが根付いたということかもしれない。まあ、そういう環境で私たちの肉体は(耳は)必然的に変化してしまっていて、「サイレン」が「サイレンス」にかわっても、肉体が違和感を感じない。違和感を感じないで、それを受け取ってしまう。
この、不思議な「境界線」のようなものを、野村のことばはすっーと乗り越えたというか、つかんだのだと思う。つかんでいるように、私には感じられる。長々と書いているけれど、こういうことは「感覚の意見」なので、当てにならないし、(あるいは逆に当てになるかもしれないけれど)、ほかに言いようがないのだが……。
ええっと。
「サイレンス」に似たことばに「サイレント」がある。「サイレント映画」というときの「サイレント」。サイレンス(名詞)サイレント(形容詞)と違うのだから、野村の書いている「サイレンス」を「サイレント」と書き換えることはできないのだけれど、
もし、
ああ、十二時のサイレントだ、サイレントだサイレントだ
と1行目が始まってたらどうなっていただろうか。英語ではサイレンスもサイレントも最後の音は子音だけなのだが、日本語の場合は違うね。
これは、耳と発音の両方の問題なので、個人差があるかもしれないが、私の場合は、日本語の文脈の中で「サイレント」と言った場合、「ト」には「お」の音がはっきり残る。「サイレンス」の場合「ス」に「う」の音は残らない。英語の発音で「サイレント」と言う人が、
ああ、十二時のサイレントだ、サイレントだサイレントだ
という行を朗読したとき、私はたぶんそれを「サイレン」と聞き間違えるだろう。そうすると、それは「パロディ」にはならない。
こういう違いを、野村の肉体は識別していると思う。
あ、書こうとしていることにてかなかたどりつけないなあ。私の感じていることは、どこか間違えているのかもしれないが、まあ、強引につづけると。
詩を私は音読はしない。音読はしないけれど、詩を読むとき、のどや耳をつかっているような気がする。活字を眼でおっているだけなのに、のどが乾くし、耳がうるさいなあと拒絶反応を起こすことがある。で、のどが乾くのはいいのだが、耳がうるさいなあ、と感じると私の場合、読書をつづけられない。むりをしないと読めない。昔の野村の詩はうるさかった。でも最近は違う。耳に非常によくなじむ。「頭」のことばではなく、「肉体」のことばになっているのだと思う。
で。
「朝鮮女 現代語訳中原中也」を読むと、その「肉体」の感じ、現代の肉体の感じを野村がしっかり生きていることがわかる。--と、私には感じられる。
朝鮮女(をんな)の服の紐
秋の風にや縒(よ)れたらん
これを野村はどう現代語訳するかというと、
朝鮮のひとだな服の紐がよれて
たぶん吹く秋の風のせいだろう
うーん。これはすごいなあ。1行目が、まさに「肉体」のことば。このリズムは「肉体」でことばを動かさないとこうはならない。中也のことばは肉体的だけれど、その中也でさえ野村ほど「肉体的」ではない--とはいっても、これは「現代」からの感想だから、当てにならないかもしれないけれど。
どこが、すごいか。
中也は「朝鮮女の服の紐」と言っている。主語(テーマ?)は「紐」。ところが野村は主語を「紐」ではなく「朝鮮」にしてしまう。「朝鮮のひとだな」と「服の紐」と切り離して「朝鮮のひと」だけでひとつの文章にしている。句読点がないから、ちょっとあいまいなのだが、句読点なんて「肉体」にはない。あくまで「頭」で何かを整理するときのためのものだからなくていいのだが……。
ああ、そうなのか。
「朝鮮女の服の紐」と中也は書いているが、関心は「紐」なんかではない。「おんな」でもない。中也の「肉体」は「朝鮮」に反応している。その「肉体」の反応をそのまま「肉体」で引き継いで「朝鮮のひとだな」と引き受けてしまう。
この「肉体」と「意識」のより直接的な結びつき。この呼吸。
中也が突然目の前にあらわれたかのように、私はびっくりしてしまった。そうか、中也の「肉体」はこういうものだったのか。現代に呼び戻すとこうなるのか。
私ははじめて中也がわかったような気がした。
野村の「肉体」と、野村の「ことばの肉体」がぴったり重なって、とても自然に動いている。最近の詩を読むと、そういう感じが非常に強い。だから、とても野村の詩が最近は好きである。どれを読んでもおもしろく感じてしまう。
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