詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ペドロ・シモセ『ぼくは書きたいのに、出てくるのは泡ばかり』

2013-01-07 10:23:45 | 詩集
ペドロ・シモセ『ぼくは書きたいのに、出てくるのは泡ばかり』(細野豊訳)(現代企画室、2012年10月20日発行)

 ペドロ・シモセはボリビアの日系詩人、と帯に書いてある。ボリビアの詩を読むのは私は初めてである。ラテンアメリカの小説は少し読んだが(もちろん日本語でだけれど)、そこでもボリビアの小説家には私は出会っていない。ボリビアの「文学」そのものに出会うのがこれが最初である。
 ボリビアと感じていいのかどうかわからないが、「中南米(ラテンアメリカ)」という印象につながるのは次のような詩だ。

フィデル・カストロあるいはサルバドロール・アジェンデが語るとき、
わが祖国の飢えた子供たちが語っているのだ、
ラテンアメリカの河と風が、
その山脈が、パナマ人のパナマ運河が、
アコンカグア山、モモトンボ山、チンボラソ山が語っているのだ。

わたしがわが祖国を歌うとき、わたしはラテンアメリカの民衆を歌っているのだ。
                     (「ラテンアメリカについての論説」)

 「わたしがわが祖国を歌うとき、わたしはラテンアメリカの民衆を歌っているのだ。」この1行にはあることばが隠されている。
 「わたしではなく」「わが祖国ではなく」。つまり、

わたしがわが祖国を歌うとき、
それはわたし自身を歌っているのでもなければ、わが祖国を歌っているのでもなく、
わたしはラテンアメリカの民衆を歌っているのだ。

 あえて3行にわけて書いてみたが、それは「個人(個別)」ではなく「民衆」を歌っている。そこには「わたし」は不在なのだ。
 「わたし」の不在はペドロ・シモセだけのことではない。カストロにおいてもアジェンダにおいても「わたし」という「個人」は不在なのだ。「わが国」も不在なのだ。そのかわりに「民衆」がいる--というのは文字通りの「解釈」になってしまうが、でも「民衆」ということばも、この詩にはあまり適切とは思えない。「わたしの不在」のかわりに「民衆」がいる、というのでは、どうも落ち着きが悪い。
 では何が存在するのか。

自由のことを思うとわたしの胸は張り裂ける。
                               (「自由の家」)

 「わたしの不在」のかわりに「自由」が存在する。ただし、それは「自由の不在」という形をとっている。ほんとうに「自由」があるのではなく、「自由」は存在しない。それを強く求めているこころがある。「自由は不在」であるが、不在であるがゆえに「存在する」ときよりも強く見える。それは「わたしの不在」を自覚するときに「わたし」がよりはっきりと自覚できるのと同じだ。「不在」をとおして「わたし」と「自由」が重なり合う。一体になる。
 「自由」は「もの」ではなく、和田まさ子の詩を読んだつづきで書いてしまうと「こと」なのだ。「わたし」も「人間というもの」ではなく「人間であるということ」なのだ。「こと」のなかで「わたし」と「自由」が一体になる。「ひとつ」になる。切り離せないものになる。「わたしの不在=自由の不在」--だからそれを求める。
 そしてその欲望はボリビア、キューバ、チリという「区別」をもなくす「根源的な欲望」である。「わたしの不在」が「根源的欲望」として国境を超えて、その内部をつらぬいて動く。「自由」という「こと」になろうとして。そこには「ひと」だけではなく、山も風や河も押しかけてくる。
 このとき、その対極に「アメリカ合衆国」が「存在する」という具合に読むことができるだけれど、そういう「流通している図式的な構造」を内部から叩き壊してあふれていくジャングルのような熱いリズムがどこかにある。「存在する」。
 あ、日本語を読んで私は書いているので、これは適切な言い方ではないのだけれど、細野豊の翻訳は、何かそういう「熱くて強い音楽」を感じさせる。スペイン語ではどういう感じになるのか--私のかぎられたスペイン語ではそのもとのことばのリズムを再現してみることはできないのだが、弾ける音、とどまることを知らない声を感じる。変ないい方になるが、そういうものを感じているとき、私は「意味」を感じていない。むしろ「意味の不在」を感じている。「意味は存在しない」。そのかわりに怒りのような情熱がある。人を突き破っていく情熱を感じる。
 で、これが、最初に書いた「私の不在」とも重なる。「私」というものなど存在しない。存在するのは「自由」を求める激しい怒りだけである。その「怒りの熱さ(炎)」のなかで人は出会い、巨大な炎になっていく。「ひとつ」になっていく。その巨大さは「私」を「不在」にしないことには達成できない「こと」である。
 こういうことがことばで可能なのは、まあ、特別な幸福なことかもしれない。こういうことが、いまの日本語で(いまの日本で)可能かどうかわからない。東日本大震災のとき、ペドロ・シモセが書いているようなことばの力があればよかったのかもしれないけれど、だれもそういうことばにはたどりつけなかった(ように、私には思える。)日本語はとても「不幸」なのところにいるのかもしれない、とも思った。「怒り」のなかで結びつく力を失っているのかもしれない--そういうことも思ってしまった。
 あ、余分なことを書いてしまった。余分なというのは、ことばをかえていうと、自分を棚に上げておいて、ということになるのだが……。

 「不在」に戻ってみる。「不在」によって結びつくのは、「自由への戦い」(自由を求める肉体の根源的な欲望)だけではない。
 「秘密」という美しい詩がある。

わたしがそれを知っているとあなたが知っていること
をわたしは知っている。
それは徴候あるいは予感以上のもの、
行ってしまわない
不在以上のものだ。

あなたの膝に吹く一陣の風。
あなたの項(うなじ)までわたしを運ぶ香水。
あなたの首への湿った口づけ。
求め合いつづける
ふたつの肉体が
再会するときの
視線。

 これは「愛(セックス)」を描いているのだが、ここに「不在」ということばが出てくる。スペイン語でどう書いてあるのかわからないが、その「不在」が最初に引用した「わたしの不在」の「不在」とどこかで重なっている。「不在」というより「不在以上」で重なっている。いや結合している。絡みついて離れない形になっている。

フィデル・カストロあるいはサルバドロール・アジェンデが語るとき、
わが祖国の飢えた子供たちが語っているのだ、

 このとき、そこにカストロは「不在」、アジェンダも「不在」だが、その「不在以上」に(不在の内部からあふれるように)、「わが祖国の飢えた子供たち」が存在する。そして「不在」は「存在」を知っている。「徴候」「予感」のように、「知識」以上に知っている。「頭」ではなく「肉体」が知っている。
 「愛の不在」の瞬間、その不在以上に「愛を欲望する愛」があふれる。それは「存在する」というより、何か、人間を内部から人間ではないものにしてしまう。「人間の内部にある根源的ないのち」にしてしまう。人間というより、「いのち」に戻してしまう。
 「いのち」にまで戻ってしまうと、ああ、そこにはどんな区別もない。ただ「いのち」という「こと」がある。その「こと」を気取って「愛」と呼んでもいいし、もっと本能的に「セックス」と呼んでもいい。それは「ことばの方便」だ。そこには、そこにあるものを壊しながら、生まれつづける「いのち」という「こと」があるだけだ。
 壊れつづけるから「不在」、壊れながら生まれるから「不在以上」。その矛盾が炸裂する激しい光を、音楽を、ペドロ・シモセ(細野豊訳)のことばに感じた。







ぼくは書きたいのに、出てくるのは泡ばかり
ペドロ シモセ
現代企画室
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