谷川俊太郎「朕」(「現代詩手帖」01月号)
谷川俊太郎「朕」は嘘を書いている、というと「誤読」になるのだが、というか、詩は本当のことを書かなければいけない、自分が体験したことを書かなければならないという「決まり」があるわけではないのだから、「嘘を書いている」という言い方が感想になるかどうかもあいまいなのだが……。
これは岡井隆の「レクイエムの夜まで」、日記風の作品とはまったく違っている。「主役(?)」が谷川俊太郎ではないということが岡井の作品といちばん違うところである。谷川はいきなり「嘘」からはじめている。そしてその「嘘」は「比喩」でもない。もっと大がかりである。こういう「嘘」を「虚構」と呼んだりする。
そして「比喩」と「虚構」とは違ったものなのだけれど、共通項もある。きのう書いた日記から引用する形で書いてみると……。
「比喩」も「虚構」も嘘なのだけれど、嘘をつくという肉体の動きには何かおさえることのできない本当(本能)がある。それは「いま/ここ」にあるものではない何かが嘘といっしょになってあらわれてくる誕生の悦びでもある。この悦びは本物だ。それが本物であるということが楽しいのかもしれない。嘘をつくことで自分が自分ではなくなる、しかもその自分ではなくなるということのなかに誕生の悦びがあり、その「快感」が嘘をつかせるのかもしれない。--これは「比喩」と「虚構」に共通する。
というようなことを私はきのう岡井の詩の感想を書きながらふと思っていたのだが、そしてきょうはそのつづきを書こうと思っていたのだが。
私は気分屋だし、きのう書いたことは書いてしまった瞬間終わったのだろう。何かを覚えているが、それはそれとして別なことを書きたくなった。「虚構」の物語をつくりあげることのなかに自分が自分でなくなる、新しい人間になって生まれ変わる再生の悦び(誕生の悦び)があると書いてもいいのだけれど、少し気持ちが変わってしまった。書いている内に同じ場所へ戻ってくるかもしれないが、「朕」の書き出しの2行を引用(転写)している内に違うことを書いてみたくなった。
だからきのうのつづきにはならないかもしれないことを書いてみる。
谷川は「主役」を「朕(皇帝)」にしてことばを動かしはじめる。谷川は皇帝ではないから、「朕」はもちろん谷川ではない。いわば「嘘」からことばを動かしているのだが、こういう嘘に出会ったとき、こんなのは嘘だ、嘘だから読む必要はない、という気持ちにならないのはなぜだろう。
「文学」はもともと「現実」そのものではなく、嘘だから?
嘘を知って、でも、何になるのだろう。
というようなことを言ってもはじまらない--のではなく、「皇帝は」という書き出しを読んだだけで、これが「嘘(文学)」とわかるのに、次の瞬間、私はそれが「嘘(虚構)」であることを忘れてしまう。ことばの運動のなかにある「本当」に引き込まれている。
「絹の掛け布団の下」「絹の敷き布団の上」と繰り返されることばが、「嘘」を「本当」に変えてしまう。「絹の布団のなか」でも十分なのだが、つまり「意味」は同じなのだが、「絹の掛け布団の下」「絹の敷き布団の上」とことばが動くと、そこに「絹の布団」とは別の「本当」が入り込み、それがことばをささえるのだ。「上」があれば「下」がある。「掛け布団」があれば「敷き布団」がある。これは「皇帝」がいない世界、主役が谷川でもあるいは私(谷内)でも成り立つ「世界の構造」である。ここにひとつの「本当」がある。ことばが動いていくときの世界の「本当」がある。ゆるぎのない「よりどころ」がある。それはことばが必然的に「肉体」としてもっているものである。
私たちがことばを通して「覚えている」世界の構造の「本当」を利用して、谷川は嘘を動かしていく。ことばを動かしていく。それは嘘なのに、そのときの嘘は私たちの「覚えている」本当の世界の構造を踏まえている。谷川はそこから脱線しない。
きのう書いた岡井のことばの運動と強引に対比させるなら、谷川は「注解」しない。岡井の「注解」は「世界の構造」を別の角度から見てみるとこうなるという性質を持っているが、谷川はそういうことはしない。
谷川は逆なのだ。私たちが「覚えている」構造の「本当」を利用して、世界を拡大する。岡井の「注解」は世界の「内部」へ入っていく--そうすることで、「構造」はこうなっていると語るのに対して、谷川は「構造」を利用して「事実」を積み上げていく。世界を拡大する。
犬の名前を忘れる--そういう「人間のあり方」。これはだれもが「肉体」で「覚えている」。つまりそこに「本当」がある。上があれば下がある、というのと同じくらいに肉体は何かを忘れるということを「覚えている」。谷川はこの「覚えている」ことの「内部」に入っていくようにしてことばを動かすのではなく、ここでは「覚えている」ことを利用して、「覚えている」ことの外へと動いていく。世界を水平に広げる。(一度谷川と話したとき、私は、岡井の詩はビルディングのように垂直の厚みをもっているが、谷川の詩はどこまでも広がるすそ野のような広さをもっている、と感想を語ったことがある。それをいま思い出している。)
そしてそのとき谷川らしいいたずらがそこにつけくわえられる。「犬の名前」ではなく「狆の名前」。「狆(犬)」と「朕(皇帝)」が「ちん」という「音」のなかですれ違い、そのことが「朕」から「皇帝」という「肩書」の重々しさを取り払う。
で、「朕(皇帝)」から「肩書」がなくなると、どうなるか。
「朕」は「皇帝」ではなく「何者でもない」人間、「本来」の「人間」になる。「中年男」になる。その男は、女に「爪を切ってもらうことだけを楽しみにしている」。この「楽しみ」の「構造」--これがまた私たちの肉体が「覚えている」楽しみなのである。つまらないことを他人にしてもらうときの何とも言えない楽しみ、それは重大なことをしてもらうときよりも何か肉体にしっくりくる不思議な楽しみでもある。ああ、こんなこともしてもらえる、と思うとき、肉体がふっとゆるむ。その肉体のゆるみのなかにも「本当(本来の人間の生き方)」がある。
こういう「構造」は詩のなかに次々にあらわれる。
「偽善」と「偽善に気づかない」ということ、さらにそれを「許す」という「構造」のなかにある「本当」。この「構造」の「本当」を私たちの肉体が「覚えている」のは、それがすべて「動詞」だからである。「偽善」は文法的には「名詞」だが、それは「もの」ではなく「こと」である。「こと」のなかには「動き」がある。「時間」がある。だれかとだれかのあいだで起きる「こと」が「偽善」であって、「偽善」そのものが「本」や「パソコン」のようにあるわけではない。
谷川が利用している(のっかっている)何かが「もの」ではなく「こと」、肉体が「覚えている」構造であるからこそ、谷川は次々に「構造」をさまざまな出来事で彩ることができる。どんな変化があったとしても「構造」を踏まえるという「方法」がぶれないので、そのことばは必ず私たちの「肉体」の「覚えている」ことを刺戟する。つまり「覚醒させる」。「本当」が少しずつ増えていく。「虚構(嘘)」を利用しながら嘘を増やすのではなく、「本当」を増やしていく。
そこには、たとえば
というようなものもある。センチメンタルな流行歌(?)を聞き涙を流す。それをはずかしいとは思わない--そういう「こと(本当)」がある。「こと」はすべて「本当」なのだ。そこには肉体が動いているからである。肉体で動くものは「本当」でしかありえない。それを肉体は「覚えている」。それがなければ人間ではないとさえ思うかもしれない。--ということも「覚えている」
「朕(皇帝)」ということばから始まりながら、谷川の詩は「皇帝」という特殊な個人ではなく、誰の肉体もが「覚えている」こと(本当)に触れる。そして動いていく。その結果、ことばは「皇帝」ではなく、「人間」そのものを描くことになる。
そして、ここまで谷川のことばを追ってきて、私は突然気づくのである。谷川は「構造」を利用してことばを動かしている、「構造」の外へむけてことばを動かしているのだけれど、実はそうすることで「構造」の内部、芯にあるものを明確にするのである。それは谷川が信じている「こと(本当=本来)」でもある。
人間は同じ、人間の「いのち」は同じ--だから、谷川は何でも書くことができるのである。この同じは「本当」ということである。
「変わる」ものがある。しかし「相変わらず」同じもの、同じ「こと」がある。それが「同じ」--あるいはたぶん「相変わらず」の方が谷川の思想(肉体)に近いのかもしれないが--であることを「わかる」ために谷川は「嘘」を書くのかもしれない。どんなに嘘を書いても、そこに人間が登場する限り、その嘘は「変わらぬいのち=本来のいのち、本当のいのち」の動きそものもと結びついている。そういうものに触れるのが谷川の肉体(思想=本当、本来)なのだ。
谷川俊太郎「朕」は嘘を書いている、というと「誤読」になるのだが、というか、詩は本当のことを書かなければいけない、自分が体験したことを書かなければならないという「決まり」があるわけではないのだから、「嘘を書いている」という言い方が感想になるかどうかもあいまいなのだが……。
皇帝は絹の掛け布団の下、絹の敷き布団の上で目覚めた。后の愛犬が皇帝の横にもぐり込んできた。后がつけたその狆の名を皇帝は忘れている。
これは岡井隆の「レクイエムの夜まで」、日記風の作品とはまったく違っている。「主役(?)」が谷川俊太郎ではないということが岡井の作品といちばん違うところである。谷川はいきなり「嘘」からはじめている。そしてその「嘘」は「比喩」でもない。もっと大がかりである。こういう「嘘」を「虚構」と呼んだりする。
そして「比喩」と「虚構」とは違ったものなのだけれど、共通項もある。きのう書いた日記から引用する形で書いてみると……。
「比喩」も「虚構」も嘘なのだけれど、嘘をつくという肉体の動きには何かおさえることのできない本当(本能)がある。それは「いま/ここ」にあるものではない何かが嘘といっしょになってあらわれてくる誕生の悦びでもある。この悦びは本物だ。それが本物であるということが楽しいのかもしれない。嘘をつくことで自分が自分ではなくなる、しかもその自分ではなくなるということのなかに誕生の悦びがあり、その「快感」が嘘をつかせるのかもしれない。--これは「比喩」と「虚構」に共通する。
というようなことを私はきのう岡井の詩の感想を書きながらふと思っていたのだが、そしてきょうはそのつづきを書こうと思っていたのだが。
私は気分屋だし、きのう書いたことは書いてしまった瞬間終わったのだろう。何かを覚えているが、それはそれとして別なことを書きたくなった。「虚構」の物語をつくりあげることのなかに自分が自分でなくなる、新しい人間になって生まれ変わる再生の悦び(誕生の悦び)があると書いてもいいのだけれど、少し気持ちが変わってしまった。書いている内に同じ場所へ戻ってくるかもしれないが、「朕」の書き出しの2行を引用(転写)している内に違うことを書いてみたくなった。
だからきのうのつづきにはならないかもしれないことを書いてみる。
谷川は「主役」を「朕(皇帝)」にしてことばを動かしはじめる。谷川は皇帝ではないから、「朕」はもちろん谷川ではない。いわば「嘘」からことばを動かしているのだが、こういう嘘に出会ったとき、こんなのは嘘だ、嘘だから読む必要はない、という気持ちにならないのはなぜだろう。
「文学」はもともと「現実」そのものではなく、嘘だから?
嘘を知って、でも、何になるのだろう。
というようなことを言ってもはじまらない--のではなく、「皇帝は」という書き出しを読んだだけで、これが「嘘(文学)」とわかるのに、次の瞬間、私はそれが「嘘(虚構)」であることを忘れてしまう。ことばの運動のなかにある「本当」に引き込まれている。
皇帝は絹の掛け布団の下、絹の敷き布団の上で目覚めた。
「絹の掛け布団の下」「絹の敷き布団の上」と繰り返されることばが、「嘘」を「本当」に変えてしまう。「絹の布団のなか」でも十分なのだが、つまり「意味」は同じなのだが、「絹の掛け布団の下」「絹の敷き布団の上」とことばが動くと、そこに「絹の布団」とは別の「本当」が入り込み、それがことばをささえるのだ。「上」があれば「下」がある。「掛け布団」があれば「敷き布団」がある。これは「皇帝」がいない世界、主役が谷川でもあるいは私(谷内)でも成り立つ「世界の構造」である。ここにひとつの「本当」がある。ことばが動いていくときの世界の「本当」がある。ゆるぎのない「よりどころ」がある。それはことばが必然的に「肉体」としてもっているものである。
私たちがことばを通して「覚えている」世界の構造の「本当」を利用して、谷川は嘘を動かしていく。ことばを動かしていく。それは嘘なのに、そのときの嘘は私たちの「覚えている」本当の世界の構造を踏まえている。谷川はそこから脱線しない。
きのう書いた岡井のことばの運動と強引に対比させるなら、谷川は「注解」しない。岡井の「注解」は「世界の構造」を別の角度から見てみるとこうなるという性質を持っているが、谷川はそういうことはしない。
谷川は逆なのだ。私たちが「覚えている」構造の「本当」を利用して、世界を拡大する。岡井の「注解」は世界の「内部」へ入っていく--そうすることで、「構造」はこうなっていると語るのに対して、谷川は「構造」を利用して「事実」を積み上げていく。世界を拡大する。
后がつけたその狆の名を皇帝は忘れている。
犬の名前を忘れる--そういう「人間のあり方」。これはだれもが「肉体」で「覚えている」。つまりそこに「本当」がある。上があれば下がある、というのと同じくらいに肉体は何かを忘れるということを「覚えている」。谷川はこの「覚えている」ことの「内部」に入っていくようにしてことばを動かすのではなく、ここでは「覚えている」ことを利用して、「覚えている」ことの外へと動いていく。世界を水平に広げる。(一度谷川と話したとき、私は、岡井の詩はビルディングのように垂直の厚みをもっているが、谷川の詩はどこまでも広がるすそ野のような広さをもっている、と感想を語ったことがある。それをいま思い出している。)
そしてそのとき谷川らしいいたずらがそこにつけくわえられる。「犬の名前」ではなく「狆の名前」。「狆(犬)」と「朕(皇帝)」が「ちん」という「音」のなかですれ違い、そのことが「朕」から「皇帝」という「肩書」の重々しさを取り払う。
で、「朕(皇帝)」から「肩書」がなくなると、どうなるか。
朕は本来何者でもないはずだ、朕はモーツアルトを聞きながら、后に爪を切ってもらうことだけを楽しみにしている中年男に過ぎない、と皇帝は思う。
「朕」は「皇帝」ではなく「何者でもない」人間、「本来」の「人間」になる。「中年男」になる。その男は、女に「爪を切ってもらうことだけを楽しみにしている」。この「楽しみ」の「構造」--これがまた私たちの肉体が「覚えている」楽しみなのである。つまらないことを他人にしてもらうときの何とも言えない楽しみ、それは重大なことをしてもらうときよりも何か肉体にしっくりくる不思議な楽しみでもある。ああ、こんなこともしてもらえる、と思うとき、肉体がふっとゆるむ。その肉体のゆるみのなかにも「本当(本来の人間の生き方)」がある。
こういう「構造」は詩のなかに次々にあらわれる。
辺境での兵士たちの不満を皇帝は我がことのように聞くが、それが偽善だということに気づいていない皇帝を、后は許している。
「偽善」と「偽善に気づかない」ということ、さらにそれを「許す」という「構造」のなかにある「本当」。この「構造」の「本当」を私たちの肉体が「覚えている」のは、それがすべて「動詞」だからである。「偽善」は文法的には「名詞」だが、それは「もの」ではなく「こと」である。「こと」のなかには「動き」がある。「時間」がある。だれかとだれかのあいだで起きる「こと」が「偽善」であって、「偽善」そのものが「本」や「パソコン」のようにあるわけではない。
谷川が利用している(のっかっている)何かが「もの」ではなく「こと」、肉体が「覚えている」構造であるからこそ、谷川は次々に「構造」をさまざまな出来事で彩ることができる。どんな変化があったとしても「構造」を踏まえるという「方法」がぶれないので、そのことばは必ず私たちの「肉体」の「覚えている」ことを刺戟する。つまり「覚醒させる」。「本当」が少しずつ増えていく。「虚構(嘘)」を利用しながら嘘を増やすのではなく、「本当」を増やしていく。
そこには、たとえば
<私は人を愛した事があったろうか>という題名の歌曲が都に流行っている。三度聞いて三度落涙したことを、朕(自分)は恥じていない。
というようなものもある。センチメンタルな流行歌(?)を聞き涙を流す。それをはずかしいとは思わない--そういう「こと(本当)」がある。「こと」はすべて「本当」なのだ。そこには肉体が動いているからである。肉体で動くものは「本当」でしかありえない。それを肉体は「覚えている」。それがなければ人間ではないとさえ思うかもしれない。--ということも「覚えている」
「朕(皇帝)」ということばから始まりながら、谷川の詩は「皇帝」という特殊な個人ではなく、誰の肉体もが「覚えている」こと(本当)に触れる。そして動いていく。その結果、ことばは「皇帝」ではなく、「人間」そのものを描くことになる。
そして、ここまで谷川のことばを追ってきて、私は突然気づくのである。谷川は「構造」を利用してことばを動かしている、「構造」の外へむけてことばを動かしているのだけれど、実はそうすることで「構造」の内部、芯にあるものを明確にするのである。それは谷川が信じている「こと(本当=本来)」でもある。
人間は同じ、人間の「いのち」は同じ--だから、谷川は何でも書くことができるのである。この同じは「本当」ということである。
平民になった僕は、皇帝だった朕といったいどこが変わったというのだろうか。今もモーツァルトは美しく、后の狆は相変わらずきゃんきゃん吠える。
「変わる」ものがある。しかし「相変わらず」同じもの、同じ「こと」がある。それが「同じ」--あるいはたぶん「相変わらず」の方が谷川の思想(肉体)に近いのかもしれないが--であることを「わかる」ために谷川は「嘘」を書くのかもしれない。どんなに嘘を書いても、そこに人間が登場する限り、その嘘は「変わらぬいのち=本来のいのち、本当のいのち」の動きそものもと結びついている。そういうものに触れるのが谷川の肉体(思想=本当、本来)なのだ。
谷川俊太郎詩選集 1 (集英社文庫) | |
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