詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎「そのミツバチとまれ」

2013-01-31 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「そのミツバチとまれ」(「gaga」11、2012年12月10日発行)

 きのう読んだ石毛拓郎「渚の情欲」。そのなかで、私はちょっとめんどうくさいことを書いたが、書けなかったことを大雑把に補っておくと。
 社会批判の詩がある。「渚の情欲」も馬鹿貝の大量死と原発を含む自然破壊(私がきのう引用した部分には原発は出てこないが、後半に出てくる)の関係から、人間の社会経済行動に対する批判を書いている。こうした詩、多くのの場合、何だかめんどうくさい気持ちが私にはする。「頭」では「わかる」のだが、それを自分の「肉体」にひきつけて、書いているひとの気持ちになれるかというとなかなかそうはなれない。書いていることを「わかる」瞬間、「肉体」がどこかへ隠れてしまう。まあ、私は、そういう人間である。
 ところが石毛の詩の場合、そうではなかった。なぜかというと、そこに「肉体」があったからである。--というのは、わけのわからない説明になってしまうが。たぶん、逆のことを考えるといいのだと思う。
 何かに対して憤りを覚える。そのとき「肉体」のなかに、論理にはなりきれない「いらいら」のようなものが湧いてくる。「何を怒っている?」などと質問されると、もうだめ。ことばで説明し、その怒りをことばにできるなら、いらいらしない。そういう「ことば以前」の何か、「肉体」のなかにしか存在しない何か--それは「肉体」が描写されるとき、「共感」になる。
 石毛の「肉体」が砂浜や大量に死んでいる馬鹿貝、それに群がる蠅、その全体としての「自然」そのものと何かを共有する。石毛の「肉体」が「自然」のなかに分有され、「自然の肉体」を石毛の「肉体」が共有する。--それは「動詞」の動きによって混ざり合い、溶け合い、識別できないものになるのだけれど、その「識別できない」というところに私の「肉体」が「識別されない」まま触れる。そういう「共感」の形が、私にとっては大事、というか、信頼できる。
 これは道端でうずくまって呻いている誰かの「肉体」を見ると、ことばで説明を聞いたわけでもないのに、そしてそれが自分の痛みでもないのに、「あ、この人は腹が痛いのだ」と「肉体」が「共感」してしまうようなものである。
 もちろん道端のひとの「痛み」が芝居であり、それにだまされるということもあるかもしれないが、こういうことにだまされたとしても、そういうときだまされた人を「ばかだねえ」というひとはほとんどいない。--これも私にとっては大事なこと。「頭」でだまされたとき、そのひとは「ばか」。けれど「肉体」でだまされたとき、そのひとは「ばか」ではない。「肉体」の「共感」以上に信頼していいなにごとかがあるとは私には思えない。

 で、「そのミツバチとまれ」。これは桃を食べようとしていたら……。

腐っていく水蜜桃が
あまったるい喉の奥をすべっていく
けだるい白昼の夢をみた
まっさかりの、夏
庭にはびこるいちめんの陰花植物が
縁側めがけていっせいに笑った
かぶりつこうとしていたおまえのくちびるが
一瞬、うろたえる
ひと口、おれが齧ったところから
ミツバチが飛び立ったのだ

  そのミツバチとまれ
  そのミツバチとまれ

 この詩には実は「片山健に、敬意をこめて捧ぐ。」というサブタイトルがついている。で、それを踏まえていうのだが、最初の3行の「主語」はだれ? あるいは何?
 (1)石毛が水蜜桃が喉を通過するという夢を見たのか。水蜜桃を食べたというのは実際の体験だけれど、水蜜桃が「喉の奥をすべっていく」ということばにすること--それが「白昼夢」なのか。
 (2)その桃を食べているのは片山なのか。
 (3)あるいは、これは誰かに食べられた水蜜桃が、自分はいま誰かの喉の奥をすべっていくという白昼夢をみているか。
 (3)のように考えるひとは少ないかもしれないが、私は(3)が実はいちばん気に入っている。ずーっと水蜜桃を「主語(主役)」にして書いていけばおもしろいのに。石毛が書かないなら、これを利用して書き直そうかな、と思うくらいである。
 で、そういう「脱線」はそのままにして。
 「主語」が「石毛」「片山」「水蜜桃」のどれかわからないのに、そこに書いてあることはわかる--たぶんだれでもわかると思う。
 そうだとしたら、それはどういうこと? 主語がわからないのに何がわかったことになる?
 「肉体」が出合っている「こと」がわかるのだ。腐る寸前の「あまったるい」水蜜桃。そういうものが「喉の奥をすべる」。その「あまったるい」や「すべる」という用言のなかに動く、動き--「こと」が「肉体」でわかる。「こと」が「肉体」に触れてくる。
 「けだるい」も「肉体」が感じる「こと」である。「肉体」をもつものが感じる「こと」だからこそ、その「肉体」が石毛のものであろうと、片山のものであろうと、水蜜桃のものであろうと関係なく、読者(私)の「肉体」と「こと」を共有してしまう。「こと」を共有することで、他者の「肉体」を共有してしまう。「感じ」に触れてしまう。自分の「感じ」と勘違いしてしまう。
 で、こういう「肉体」の「共有」があればこそなのだが、

かぶりつこうとしていたおまえのくちびるが
一瞬、うろたえる
ひと口、おれが齧ったところから
ミツバチが飛び立ったのだ

 おーい、石毛! 主語が「おまえ」と「おれ」と乱れているぞ。学校の先生だろう(もう定年で教えていない?)。小学生がこんな作文を書いてきたら、○をつけるのか、×をつけるのか。どっちなんだ、答えろ!
 というようなことは冗談なのだが。
 ね、「おまえ」と「おれ」が混同している。それは「混同」ではなく、識別できない状態で融合しているということなのだ。「肉体」はいつでも「識別できない融合」にたどりついて何かをつかむ。つまり、おのれがおのれではなくなる。エクスタシー。自分が自分でなくなるというのは、何でこんなに気持ちがいいんだろう。もう、どうなってもいい。そういうもんだね。
 そうじゃない?

そうだな、清らかな水蜜桃にわれらは寄りつかぬ
逃げたミツバチは囁く

 あれ? 私は石毛に質問したのに、ミツバチが答えてきた。
 でも、いいんです。「ミツバチ」というのは、「仮の主語」。そのときの「方便」。そうじゃない?という私の質問に、石毛が答えようが、片山が答えようが、そんな「主語」はどうでもいい。「答える」という「こと」、そして「答えたこと(その内容が含む動詞)」が大事。
 私はもう、「主語」を識別しようとはしていない。
 「主語」はいうべき「こと」にふさわしい誰かが「主語」になればいいのであって、そんなものはそのとき次第。

そうだな、清らかな水蜜桃にわれらは寄りつかぬ
逃げたミツバチは囁く
おれの魂胆に、清らかな蜜が棲まぬことを
かれは、想いもつかなかったのだ
腐っていく桃の柔肌を剥ぐ
すると、粘膜はねばつきながら身もだえする
桃源郷での、甘く新鮮な果肉は
そこのいきものを狂わせるだろうが……

 「おれ」はだれ? 「かれ」はだれ? もう気にかからないでしょ?
 「腐っていく桃の柔肌を剥ぐ」って「桃」だけれど、そうじゃないかもしれない。「粘膜はねばつきながら身もだえする」って、何が? あれ? 何ががわからないなんて、とんだカマトトだなあ。「桃源郷」なんだろう? --って、変な「妄想」の「暴走」だけれど、「肉体」が暴走しないことにはエクスタシーなんてないからね。
 と、私は石毛を「清純な学校の先生(聖職者)」ではなく、いやらしい熟年の男にして楽しむのだ。--というのは冗談だけれど。

   そのミツバチとまれ
   そのミツバチとまれ

仮に、清らかな水蜜に
われらが棲んでいたとしたら……
にわかに信じがたい気配を
けだるい午後の
水蜜桃のにおいのなかにみつけて
おれは、憮然とする
頻りに、ミツバチが囁きはじめる
熟れていく果肉の、ただれた官能のなかに
おれは、こそりと
悪意のミツバチを、棲まわせる

 「悪意」は人間を覚醒させる最良の「善意」である。ソクラテスがそうであったように、それは天からの「贈り物(ギフト)」に違いないと思う。




石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉)
石毛 拓郎
思潮社
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