池井昌樹「兜蟹」(「鶺鴒通信」冬号、2013年01月10日発行)
肉体は覚えている。肉体は覚えていることを間違えない--ということを池井昌樹の「兜蟹」を読みながら思った。
詩集『明星』を校閲中に編集者から詩のなかに「兜蟹」が出てくるが「兜蝦」の間違いではないかと指摘されたという。海に生きる兜蟹が水田にいるわけがない。兜蝦ではないか。兜蟹では「フィクション」になってしまう、というのである。(この、フィクションということばのつかいかたは少し奇妙だけれど。)それで池井はいったんは「兜蝦」に直すことを受け入れるのだが……。
思い出して、池井は「兜蝦」をもとの「兜蟹」に戻す。
このとき、「私の胸底をこつこつと打つものがある。」この「胸底」が美しい。池井は「頭」で兜蟹を覚えているのではない。兜蟹は「胸底」という「肉体」に棲んでいる。いまも生きていて、それが池井の肉体をたたく(こつこつと打つ)。
この「胸底」というのは「比喩」であってほんとうの「肉体」ではない--という人がいるかもしれないが、「比喩」に何をつかうかによって、その人がわかるのである。何を生きているかがわかるのである。
きのう読んだ財部鳥子の詩には「乳房」が出てきた。それは「本物」の乳房であるけれど、「透明な/乳房」であった。実際に透明な乳房などないから、それは「比喩」でもある。しかし架空の存在ではない。実際の肉体である。
「肉体」を「比喩」としてつかうとき、そこにはほんものの「肉体」があり、実感がある。「頭」で捏造した「体験」ではなく、「肉体」そのものが動いている、「肉体」が動くときの「こと」がある。ここでは「こつこつと打つ」という「こと」が兜蟹と池井によって共有される。この「肉体」と「こと」の問題は「肉体」と「運動」の問題につながるのだけれど、書きはじめると面倒なので省略。
で、「肉体」は「肉体」をさらに覚醒させる。あることを「胸底」でしっかり思い出したら、ほかの体の部分も目覚める。井戸水には「薄い塩味」があった。舌がその味を覚えている。肉体は間違えないのだ。肉体が覚えていることは、必ずよみがえってくる。
「銀河のように渦巻く美しいもの」は「兜蟹の幼生」だが、それは池井にとっては「自己」から切り離された別個の生き物ではない。池井にとっては「肉体」そのものである。「掌」に掬う。そのとき池井は「掌」であるだけではなく、その掌のなかの兜蟹でもある。池井は兜蟹を見つめるだけではなく、兜蟹も池井を見ている。そしてその肉体の中に住みつくのである。池井の肉体を生きる場所として選びとるのである。ただ遠くから見ていたのではなく、掌で掬う--その「肉体」の運動、肉体がした「こと」によって、その「こと」のなかで池井と兜蟹は「個別性」をなくす。共同で「こと」を行ない、「一体」になる。一体になることで、より鮮明に池井と兜蟹であることを「実感」する。
「こと」のなかに、池井と兜蟹を切断し、同時に接続するものがある。
兜蟹の幼生--その「幼」という文字は「幻」に似ているが、そこに「肉体」がしっかりと結びつくとき、それは「まぼろし」ではなくひとつの「力」になる。そして、育っていく。
私たちの「肉体」のなかには、私たちの「肉体」以外のものが「肉体」をもったまま生きている。そういう体験を「肉体」を通してどれだけ自分のものにするか。あるいは、それを「覚えていること」としてどれだけ「いま」に呼び戻してくることができるか。
池井は、こういうことに関しては、まったく希有な詩人である。その「肉体」がもっているものはほんとうに大きい。私は、池井というと若いときのデブの「肉体」をいつも思い出すのだが、「他人の肉体」を「自分の肉体」のなかに同時に抱え込んでいたら、どうしたってその「肉体」はふつうの人間の肉体よりも膨らんでしまう。デブになってしまう。あるときラーメンを食べたら、そのラーメンの丼の形だけ池井の腹は膨れ上がったが、あれは池井ほんらいの姿なのである、と思う。
あ、脱線してしまったが……。
「ちちははのちちはは、そのまたちちはは」--長い時間を思い出すとき、池井の肉体が思い出すのは、そういう肉体(血)の実際のつながりである。時間がつながっているのではない。「肉体」がつながっているのである。そして「肉体」がつながっているからこそ、私たちは自分の肉体以外が「覚えていること」を自分の「肉体」のこととして思い出すことができる。ちちははの肉体が覚えていることを思い出すことができる。それは人間だけではない。縁の下に現れた蟹--それは海を覚えている。そこに海があったことを覚えていて、埋立地の池井の家の縁の下までやってきたのである。その蟹の肉体とも池井はつながっている。
それが「ほんとうにあったこと」かどうかはわからない。しかし、それがいま「ほんとうにある」という「こと」はわかる。池井が肉体の奥から「覚えていること」を丁寧に掬い出し、それをことばにするとき、それは「いま/ここに/たしかにあること」なのだ。それは池井の「肉体」がある限り、全体的な「真実」である。つまり、詩である。
肉体は覚えている。肉体は覚えていることを間違えない--ということを池井昌樹の「兜蟹」を読みながら思った。
詩集『明星』を校閲中に編集者から詩のなかに「兜蟹」が出てくるが「兜蝦」の間違いではないかと指摘されたという。海に生きる兜蟹が水田にいるわけがない。兜蝦ではないか。兜蟹では「フィクション」になってしまう、というのである。(この、フィクションということばのつかいかたは少し奇妙だけれど。)それで池井はいったんは「兜蝦」に直すことを受け入れるのだが……。
それから程無いある昼下がり、勤務する本屋の客も疎らな売り場から、ぼおっと天井を見上げていると、私の胸底をこつこつと打つものがある。兜蟹だった。私の産土(うぶすな)香川県坂出(さかいで)市梅園(うめぞの)町は古い埋立地で、井戸水にも淡い塩味があった。田圃(たんぼ)の井出(いで)には生活用水も注いだが、小学校の行き帰り、私たちは藻の揺れるその陰で銀河のように渦巻く美しいものを見ていた。まぼろしではなく、掌に掬えば琥珀色に澄むその甲殻を飽かず見ていた。「どんがめだ」。「どんがめだ」。辺りに歓声が起(た)ち……。そうだ、あれは、やはり兜蟹だった。
思い出して、池井は「兜蝦」をもとの「兜蟹」に戻す。
このとき、「私の胸底をこつこつと打つものがある。」この「胸底」が美しい。池井は「頭」で兜蟹を覚えているのではない。兜蟹は「胸底」という「肉体」に棲んでいる。いまも生きていて、それが池井の肉体をたたく(こつこつと打つ)。
この「胸底」というのは「比喩」であってほんとうの「肉体」ではない--という人がいるかもしれないが、「比喩」に何をつかうかによって、その人がわかるのである。何を生きているかがわかるのである。
きのう読んだ財部鳥子の詩には「乳房」が出てきた。それは「本物」の乳房であるけれど、「透明な/乳房」であった。実際に透明な乳房などないから、それは「比喩」でもある。しかし架空の存在ではない。実際の肉体である。
「肉体」を「比喩」としてつかうとき、そこにはほんものの「肉体」があり、実感がある。「頭」で捏造した「体験」ではなく、「肉体」そのものが動いている、「肉体」が動くときの「こと」がある。ここでは「こつこつと打つ」という「こと」が兜蟹と池井によって共有される。この「肉体」と「こと」の問題は「肉体」と「運動」の問題につながるのだけれど、書きはじめると面倒なので省略。
で、「肉体」は「肉体」をさらに覚醒させる。あることを「胸底」でしっかり思い出したら、ほかの体の部分も目覚める。井戸水には「薄い塩味」があった。舌がその味を覚えている。肉体は間違えないのだ。肉体が覚えていることは、必ずよみがえってくる。
私たちは藻の揺れるその陰で銀河のように渦巻く美しいものを見ていた。まぼろしではなく、掌に掬えば琥珀色に澄むその甲殻を飽かず見ていた。
「銀河のように渦巻く美しいもの」は「兜蟹の幼生」だが、それは池井にとっては「自己」から切り離された別個の生き物ではない。池井にとっては「肉体」そのものである。「掌」に掬う。そのとき池井は「掌」であるだけではなく、その掌のなかの兜蟹でもある。池井は兜蟹を見つめるだけではなく、兜蟹も池井を見ている。そしてその肉体の中に住みつくのである。池井の肉体を生きる場所として選びとるのである。ただ遠くから見ていたのではなく、掌で掬う--その「肉体」の運動、肉体がした「こと」によって、その「こと」のなかで池井と兜蟹は「個別性」をなくす。共同で「こと」を行ない、「一体」になる。一体になることで、より鮮明に池井と兜蟹であることを「実感」する。
「こと」のなかに、池井と兜蟹を切断し、同時に接続するものがある。
兜蟹の幼生--その「幼」という文字は「幻」に似ているが、そこに「肉体」がしっかりと結びつくとき、それは「まぼろし」ではなくひとつの「力」になる。そして、育っていく。
私たちの「肉体」のなかには、私たちの「肉体」以外のものが「肉体」をもったまま生きている。そういう体験を「肉体」を通してどれだけ自分のものにするか。あるいは、それを「覚えていること」としてどれだけ「いま」に呼び戻してくることができるか。
池井は、こういうことに関しては、まったく希有な詩人である。その「肉体」がもっているものはほんとうに大きい。私は、池井というと若いときのデブの「肉体」をいつも思い出すのだが、「他人の肉体」を「自分の肉体」のなかに同時に抱え込んでいたら、どうしたってその「肉体」はふつうの人間の肉体よりも膨らんでしまう。デブになってしまう。あるときラーメンを食べたら、そのラーメンの丼の形だけ池井の腹は膨れ上がったが、あれは池井ほんらいの姿なのである、と思う。
あ、脱線してしまったが……。
そういえば、生家の縁の下へは柘榴(ざくろ)の爪を振り立てながら海生の蟹も姿を見せた。何処をどう経巡りあんなところへ現れたのか。ちちははのちちはは、そのまたちちははの遐(とお)い遐い昔から、ながくながく私たちとともに在り続けてくれたものたち、
「ちちははのちちはは、そのまたちちはは」--長い時間を思い出すとき、池井の肉体が思い出すのは、そういう肉体(血)の実際のつながりである。時間がつながっているのではない。「肉体」がつながっているのである。そして「肉体」がつながっているからこそ、私たちは自分の肉体以外が「覚えていること」を自分の「肉体」のこととして思い出すことができる。ちちははの肉体が覚えていることを思い出すことができる。それは人間だけではない。縁の下に現れた蟹--それは海を覚えている。そこに海があったことを覚えていて、埋立地の池井の家の縁の下までやってきたのである。その蟹の肉体とも池井はつながっている。
あのものたちは何処へ往ってしまったのか。否(いや)、あれらはほんとうにあったこのなのだろう。ぼおっと天井を見上げながら、淀みに浮かぶうたかたを、かつ消えかつ結びてとどまることのない歳月を、差し込んでくる陽の底で。
それが「ほんとうにあったこと」かどうかはわからない。しかし、それがいま「ほんとうにある」という「こと」はわかる。池井が肉体の奥から「覚えていること」を丁寧に掬い出し、それをことばにするとき、それは「いま/ここに/たしかにあること」なのだ。それは池井の「肉体」がある限り、全体的な「真実」である。つまり、詩である。
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