中尾太一「MからFへの手紙(抄)」(「現代詩手帖」2013年01月号)
中尾太一「MからFへの手紙(抄)」はとても長い作品である。そのため、私は感想を書くのをちょっとためらっている。私は目が非常に悪く、この小さい活字の詩を引用するとき、どうしても間違えるためである。引用せずに感想書いてもいいのだけれど、私は、そういうことが苦手なのである。書き写しながらでないと、私のことばが動かない。
なので、というのはとても変な言い訳になるが、最初の部分だけの感想を書くことにする。
「かつて二人で過ごしたこの家から」と僕は心をこめて書き始めるだろう
この家はかけがえのない「二人」によって作られたものなのだから
その家の中で僕は今日君に伝えることのできる比喩を少しくらいは持ってきているだろう
読み始めてすぐ、私はこの詩をどう分析したがっているか、それがわかった。中尾の書こうとしていることとは無関係かもしれない。私が一方的に、あ、このことを書きたいと思う--そういうことばが突然でてきた。
「二」である。「二人」という形で出てきているが、そしてこの「二人」はM(僕)とF(君)ということになるのだが、この詩に出てくる「二」はそれだけではない。僕と君が向き合うように、他のものも向き合っている。向き合うことによって「ひとつ」の何かをあらわそうとしている。
「書く」と「読む」、「この家」と「別の場所」、「比喩」と「現実(?)」。この書き出しの3行からだけでも、そのことを指摘できる。そしてさらに、私はいま「二」を取り上げたのだが、これは「正確」ではない。言い換えると、中尾は「書く」「この家」「比喩」は明確に言語化しているが「読む」「別の場所」「現実」ということばは書いていない。だから、それは私がかってに「誤読」したものである。かってに「誤読」したものではあるけれど、中尾のことばはそういう「誤読」を誘い込むように「論理的」に動いている。そこに中尾のことば(思想)の特徴がある。この「論理的」に「誤読」を誘うということばの力は、中尾が「論理」を踏み外さずにことばを動かす、つまり「散文」に精通していることを意味するかもしれない。
で、そういう特徴を踏まえた上で言うと、この書き出しの3行には、とても不思議な部分がある。3行目の「その家の中で」の「その」である。私は実は、この「その」につまずいた。言い換えると中尾の「肉体(思想)」の核心を感じたのである。
私は(私なら)、こういう場合「その」とは書かない。「この」と書く。「この家は」は書き、そして「この家」のことを繰り返しているのだから、「その」ということばで「この家」を対象化しない。客観化(?)しない。あくまで「この家」ということばで自分の近くに置いておく。家が自分の意識に非常に近い存在であるということを強調する。「この(近い)」「その(この、と、その、の間、つまり中間)」「あの(遠い)というのが、私の「この/その/あの」ということばをつかうときの基準である。
ちょっと例を書いてみると。私は親指シフトのキーボードをつかって文章を書いている。このキーボードは富士通独特のものである。このキーボードはしかしもう古くなってときどき反応がにぶい。--このような文書を書くとき、最初は「この」、次は「その」という具合には絶対に書かない。
でも、中尾は3行目で「その家の中で」と書いている。私とは「ことばの肉体」がまったく違うのである。そのことにつまずき、そのことから私は中尾のことば(肉体)に接近していく。接近していきたい。
長々と書いたが。
実は、3行目の「その」が、まとこに不思議な「二」なのである、と私は思う。「この」で通せば「ひとつ」ですむのに(?)、中尾はここでは「ひとつ」ですませずに、「わざと」ふたつにしている。そしてその「この家」「その家」という「ふたつ」のあり方は、たぶん、見すごされやすいものである。論理的には正確だからである。矛盾がないからである。現実には(?)、「この家」「その家」は「二人で過ごした」一軒の「家」だからである。現実にはひとつ。けれど、ことばのうえで「ふたつ」になっている。こういうことを、私たちは見落としやすい。
でも、よくよく考えれば、この意識化された「ふたつ」というのは、たとえば「書く」と「読む」、「比喩」と「現実」という組み合わせの中で考え直すと何か逆転するようなものを含んでいる。「書く-読む」は「ことば」のなかで「ひとつのこと」になる。「比喩-現実」も「ことば」のなかで「ひとつのこと」になる。それぞれが別のものを指しているわけではない。
で、もし、そうであるなら。(というのは、たぶんに飛躍した論理なのだが。)
たとえば「僕」と「君」も「二人で過ごす」という「こと」のなかで「ひとつのこと」になる。そうであるなら(これは、もっと飛躍した論理、「誤読」の論理になるが)、「この家(僕のいる場所)」と「別の家(場所/君のいる場所)」というのは、「ふたつ」ではなくて「ひとつ」なのかもしれない。「ひとつ」なのに「ふたつ」と錯覚しているのかもしれない。
だから、「この家」「その家」という学校文法では否定されるようなことばの運動も起きてしまう。
中尾は、「いま/ここ」にある「こと」が「ふたつ」なのか「ひとつ」なのかということをめぐってことばを動かしている。それも独特の、つまり「わざと」書いていることばで動かしている。そうすることで何かを見ようとしていることが書き出しの3行から伝わってくる。
で、その結論は?
あ、それは意味がないね。詩なのだから「結論」はない。私はだから「結論」などは書かない。そんなものを想定もしない。ただ、「ふたつ」と「ひとつ」を指摘するだけにする。
君はこの部屋の錆ついた窓から見える松林の中で激しい雨に濡れていた二つの人影を覚えているだろうか
おそらく「師弟」として長い旅を続けてきた彼らの、あれは最後の時間だった
「この部屋(内)」と「窓から見える松林(外)」。しかし、この「内」と「外」は「この部屋(内)」と「窓から見える松林(外)の中(内)」という風にもとらえることができ、「この部屋(内)」と「松林の中(内)」が奇妙に重なることで「距離」をなくす。これは「この家」「その家」ということばで意識的な「距離」をつくりだしたのとはまったく逆の動きである。
「二つの人影」、つまり「師/弟」。それは「二つ」であるけれど「師弟」という「ひとつの関係(こと)」でもある。
その時間に共に居合わせながら僕たちの言葉は、あの「師弟」の歴史について訊ねることができなかった
「時間」は「この家(この部屋)」と「松林の中」という「二つ」のものに共有される「ひとつ」である。「師弟の歴史」があると同時に「僕たちの歴史」もあるはずである。ここには書かれていない「僕たちの歴史」が対比されている。
で、おもしろいのは。
そういう「こと」をつなぐものがことばであることが、「言葉」という表記で明確に表現されていることである。
「言葉」が「ふたつ」と「ひとつ」の問題にとても深くかかわっていることを中尾は問題にしている。
僕たちの言葉はある恐怖のゆえに彼らの旅を知ることはなく
自分たちの冬の発見によって巡り来る季節を凍らせた
あの「師弟」の最期の網膜に映ったものの一つがその凍てついた寒さだったとしたら
僕たちは僕たちの言葉の責任について考えなければいけないだろう
ここは、書き出しの3行目の「その」と同じくらいにおもしろいなあ。
ここに書かれているのは一種の「比喩」のようなものである。「比喩」というのは「いま/ここ」を「いま/ここ」にはないものを借りて語ることなのだが。
あ、私のことばが急いでいるね。
1行ずつ見ていく。
僕たちの言葉はある恐怖のゆえに彼らの旅を知ることはなく
このことばの運動は正しい? つまり学校文法でも、こういう表現になる? 「知る」の「主語」は? 「言葉」だね。「言葉」が何かを「知る」ということはあるだろうか。「知る」のはあくまで人間、この詩の中では「僕たち」である。そうすると、この1行は
僕たちはある恐怖のゆえに彼らの旅を知ることはなく
ということなのだが、では、その「知る」ということを別のことばで言いなおすと、「知る」とは「あることがらをことばにしてとらえること」とも言えるわけで、そうすると何かをことばにすることが「知る」なら、「ことばが/知る」でもいいような……。なんとなく、わかったような、だまされたような、そのくせ「論理的」なのような、そういう「いらいら」が襲ってくるねえ。
こういうことを中尾は、とても整然と書きつなぐことができる。つまり超論理的なことばの肉体で動いていくんだね。
次の、
自分たちの冬の発見によって巡り来る季節を凍らせた
この「発見」は何だろう。見つけ出す、ということだが、別な表現で「知る」とも言えないだろうか。発見することによって「知る」。
「僕たちの言葉」は「師弟の旅」を「知らない」、「師弟」を「知らない」。でも僕たちは「冬」を発見し、つまり「冬」を「知る」。そして、それを「冬」と「言葉」にしてしまう。すると、その「言葉」は「言葉」のままではとどまらず、
あの「師弟」の最期の網膜に映ったものの一つがその凍てついた寒さだったとしたら
「師弟」の「肉体」に影響してしまう。
えっ、でも、どうやって「言葉」を師弟に届けた?
書かれていないね。
二人は師弟に「言葉」を届けたりはしていない。「僕たち」は「師弟」とは会話していない。それでもそういうことが影響するのは、「師弟」が実は「僕たち」そのものだからである。それは「意識」のなかにおいてのことではあるのだけれど。
そしてそれは、すべてがそうのなのだけれど。
つまり「意識」のなかにおいて「ふたつ」と「ひとつ」は交錯し、「ふたつ」であると同時に「ひとつ」であり、「ひとつ」であるからこそ「ふたつ」なのである。
この問題を、この詩は何度も何度もことばを変えながらぐるぐるまわる。ぐるぐるまわるだけなのだが、何かとても遠いところまで行ってしまったような感じになる。それは中尾のことばにとても論理力がある、推進力があるからだ。こういう詩は、さっき書いたことだが、結論ではなく、その推進力に乗って、ただ楽しむのがいいのだと思う。
数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集 | |
中尾 太一 | |
思潮社 |