秋山基夫『二十八星宿』(和光出版、2013年01月06日発行)
秋山基夫『二十八星宿』は岡山で開かれた曾我英丘の書展にあわせて書かれたものである。曾我が追求している書による「宇宙」に秋山が「詩の宇宙」を対話させる。そういう企画のための作品であると「編集ノート(福田淳子)」に書いてある。
私は曾我の書を見ていないので、秋山の詩についてだけ感想を書く。
秋山は私にとっては「饒舌」な詩人という印象があるが、長々しい詩は書と向き合わせることがむずかしかったのか(それとも企画者からの要請か)、すべてが非常に短い。すべて4行である。この制約がことばにどう影響するか。
おもしろかったのは4篇。
「宇宙」に対して「星」はあまりに正直すぎるのだが、それを裏切るように動く後半の2行がおもしろい。食べ続け太るコック。それでどうなる? そんなことはどうでもいいのである。この、何か「結論」をほうりだしたような、ぶっきらぼうなところが気持ちがいい。このあとを書きつづけると「説明」になり、うるさくなる。
「ますます太る」の「ますます」も健やかでいいなあ。なんとなく、この「ますます太る」で秋山の「肉体」を私は思い出すのだが(一度だけ会ったことがある)、この「ますます」はやっぱりああいう「肉体」でないと出てこない。同じ岡山の詩人、瀬崎祐では、「ますます」は出てこないだろうなあ、と思う。
後半2行が「説明的」すぎて窮屈なのだけれど、前半の2行がおもしろい。特に1行目がいいなあ。「牛が歩く」「牛と共に歩く」というふたつの文でできているのだが、句読点がなく、そのままつながっている。この句読点なしの「つながり」がまさに「百万年」と「一日」が一致してしまう「つながり」である。
私たちは何かと何かを「つなぐ」ことで「生きている」。「つなぐ」ことで、そこに「広がり(宇宙)」をつくりだし、その「広がり」のなかを動く。そこには「意識的」なつながりもあるけれど、「無意識」のつながりもある。そしてそのときの「無意識」というのは、あまりにも「肉体」になっているために「意識できない」ということであって、「意識がない」というのとは違う。
こういうことは、定義するというか、説明するというか……、言いなおしてしまうとおもしろくない。「百万年が一日で過ぎる」は、その瞬間の「方便」である。その場での「断言」である。そこで成立し、そこで終わるものである。
それを「昨日の道を……」と言いなおすと、「宇宙」の「構造(時間の感覚)」は論理的に説明されるようであって、それが論理的であることによって、それが嘘(虚言)になる。「宇宙」を凝縮させていたパワーが雲散霧消する。
「房」の「ますます太る」が「ますます」という動きによって、逆に結晶する、あるいは凝縮するような感じ--矛盾を引き起こす何かであるのに対し、「昨日の道を……」は説明的すぎておもしろくない。論理的であろうとする意識が強すぎて窮屈である。矛盾しているけれどそれでいいという「納得」を誘わない。「頭」で一生懸命考えなければいけないので、なんだか疲れてしまう。
前半の呼吸が狂ってしまう。
向き合うべき書の宇宙があるのだから、詩は、詩自身のことばと向き合う必要はないのかもしれない。4行は長すぎたかのかもしれない。4行にすら「長すぎる」という印象を誘うところが秋山の「饒舌」のゆえんなのかもしれない。
これは「論理的」なことばの運動に見える。夢だと思っていたが、それは夢ではなく現実で、眠っている間(夢見ている間)に馬は天空飛び海を飛び越えていた--という幻想の「論理」を引き出すことができる。
でも、その「論理」を優先すると、そこから抜け落ちていくことばがある。「死ぬ」と「危ない」。
そもそも天空を飛ぶことはなぜ「危ない」なのか。
何かを「つなぐ」とき、何かが「欠落する」。そしてその「欠落」したものは、「無意識」のなかで深く深く「つながる」。その「つながり」の方が、「論理」の運動よりも魅力的である。そこに「肉体」と「ことば」が生まれてくるときの「秘密」のようなものを感じる。幻想の「論理」の美しさよりも、「論理」からこぼれ落ちながら居すわっている「危ない」と「死ぬ」によって4行が詩になっている。(これは、いつもの私の「感覚の意見」であって、うまく説明できない。)
夏に内臓はあるか。まあ、わからないけれど、突然でてきた「夏」、そしてそれが「膨らむ一方」というのがいい。「房」の「ますます太る」に似ているが、「ますます」よりも「一方」の方が過激だ。加速した感じがする。その加速のなかには、何か輝かしいものがある。あふれるエネルギーがある。
秋山基夫『二十八星宿』は岡山で開かれた曾我英丘の書展にあわせて書かれたものである。曾我が追求している書による「宇宙」に秋山が「詩の宇宙」を対話させる。そういう企画のための作品であると「編集ノート(福田淳子)」に書いてある。
私は曾我の書を見ていないので、秋山の詩についてだけ感想を書く。
秋山は私にとっては「饒舌」な詩人という印象があるが、長々しい詩は書と向き合わせることがむずかしかったのか(それとも企画者からの要請か)、すべてが非常に短い。すべて4行である。この制約がことばにどう影響するか。
おもしろかったのは4篇。
房
星の舟が暗黒の海を行く
帆柱に赤いランプを灯し
厨房でコックは食べ続け
光年の波にますます太る
「宇宙」に対して「星」はあまりに正直すぎるのだが、それを裏切るように動く後半の2行がおもしろい。食べ続け太るコック。それでどうなる? そんなことはどうでもいいのである。この、何か「結論」をほうりだしたような、ぶっきらぼうなところが気持ちがいい。このあとを書きつづけると「説明」になり、うるさくなる。
「ますます太る」の「ますます」も健やかでいいなあ。なんとなく、この「ますます太る」で秋山の「肉体」を私は思い出すのだが(一度だけ会ったことがある)、この「ますます」はやっぱりああいう「肉体」でないと出てこない。同じ岡山の詩人、瀬崎祐では、「ますます」は出てこないだろうなあ、と思う。
牛
牛が歩く牛と共に歩く
百万年が一日で過ぎる
昨日の道を今日過ぎて
明日にはまた牛と歩く
後半2行が「説明的」すぎて窮屈なのだけれど、前半の2行がおもしろい。特に1行目がいいなあ。「牛が歩く」「牛と共に歩く」というふたつの文でできているのだが、句読点がなく、そのままつながっている。この句読点なしの「つながり」がまさに「百万年」と「一日」が一致してしまう「つながり」である。
私たちは何かと何かを「つなぐ」ことで「生きている」。「つなぐ」ことで、そこに「広がり(宇宙)」をつくりだし、その「広がり」のなかを動く。そこには「意識的」なつながりもあるけれど、「無意識」のつながりもある。そしてそのときの「無意識」というのは、あまりにも「肉体」になっているために「意識できない」ということであって、「意識がない」というのとは違う。
こういうことは、定義するというか、説明するというか……、言いなおしてしまうとおもしろくない。「百万年が一日で過ぎる」は、その瞬間の「方便」である。その場での「断言」である。そこで成立し、そこで終わるものである。
それを「昨日の道を……」と言いなおすと、「宇宙」の「構造(時間の感覚)」は論理的に説明されるようであって、それが論理的であることによって、それが嘘(虚言)になる。「宇宙」を凝縮させていたパワーが雲散霧消する。
「房」の「ますます太る」が「ますます」という動きによって、逆に結晶する、あるいは凝縮するような感じ--矛盾を引き起こす何かであるのに対し、「昨日の道を……」は説明的すぎておもしろくない。論理的であろうとする意識が強すぎて窮屈である。矛盾しているけれどそれでいいという「納得」を誘わない。「頭」で一生懸命考えなければいけないので、なんだか疲れてしまう。
前半の呼吸が狂ってしまう。
向き合うべき書の宇宙があるのだから、詩は、詩自身のことばと向き合う必要はないのかもしれない。4行は長すぎたかのかもしれない。4行にすら「長すぎる」という印象を誘うところが秋山の「饒舌」のゆえんなのかもしれない。
危
俺たちは大陸から馬できた
俺たちは鞍で眠り鞍で死ぬ
天空を飛ぶ危ない夢を見た
目覚めると海を越えていた
これは「論理的」なことばの運動に見える。夢だと思っていたが、それは夢ではなく現実で、眠っている間(夢見ている間)に馬は天空飛び海を飛び越えていた--という幻想の「論理」を引き出すことができる。
でも、その「論理」を優先すると、そこから抜け落ちていくことばがある。「死ぬ」と「危ない」。
そもそも天空を飛ぶことはなぜ「危ない」なのか。
何かを「つなぐ」とき、何かが「欠落する」。そしてその「欠落」したものは、「無意識」のなかで深く深く「つながる」。その「つながり」の方が、「論理」の運動よりも魅力的である。そこに「肉体」と「ことば」が生まれてくるときの「秘密」のようなものを感じる。幻想の「論理」の美しさよりも、「論理」からこぼれ落ちながら居すわっている「危ない」と「死ぬ」によって4行が詩になっている。(これは、いつもの私の「感覚の意見」であって、うまく説明できない。)
張
ぱんぱんに張った
腸詰のような内臓
溜め込みつづけて
夏は膨らむ一方だ
夏に内臓はあるか。まあ、わからないけれど、突然でてきた「夏」、そしてそれが「膨らむ一方」というのがいい。「房」の「ますます太る」に似ているが、「ますます」よりも「一方」の方が過激だ。加速した感じがする。その加速のなかには、何か輝かしいものがある。あふれるエネルギーがある。
秋山基夫詩集 (現代詩文庫) | |
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