詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

村尾暉子『金の生まれる字』

2013-01-21 23:59:59 | 詩集
村尾暉子『金の生まれる字』(iga、2012年08月30日発行)

 村尾暉子『金の生まれる字』は、きのう読んだ尾川の詩の対極にある。
 「お店」という作品。

東大だのケイオーだの ワセダだのを出て
一流企業へ行って 良家(?)の子女と
結婚するムスコは親孝行にちがいないけれど
その正反対だって一寸いいではないか
大学は七年かかってやっと出して頂いたが
すっごくハンサムで酒場のバーテンか何かをやって
女をたらし込むこと抜群で 新聞に出ない程度にワルで
女の子達をかなり泣かせる男
母親みたいな年増がチャカチャカやってきて
金くれたり ネクタイくれたりする
粋に着物を着た年上女が妙な甘え声で
「ねえ ねえ」とムスコにすりよってくる
私はそんな息子と ランプのついた喫茶店を
開いてみたいんだ

 「暮らし(生活)」をととのえるという具合に働かない。「ととのった暮らし」はつまらないという。逆がいい。逆か。しかし、「ととのった暮らし」の逆は「乱れた暮らし」? そうではなくて、「暮らし」をととのえるかわりに、「暮らし」のもっと奥にあるもの、肉体に関係したもの、ことばにならないものを「解放」しようというのが村尾の願いなのだろう。
 都合のいいことばで言いなおせば、「いのち」を「解放」しようとしている。「解放されたいのち」こそが美しい。しつけなんかではなくて、ね。
 うーん、わからないでもないが、疑問が残る。
 なぜかというと、そこにはほんとうの「いのち」の「解放」が描かれているわけではないからだ。
 引用の最後の行の「みたいんだ」。これは願望だね。
 他人の「願望」なんか読んでもぜんぜんおもしろくない。
 他人の「願望」ではなく、何をしたか--その具体的な「こと」でないと、魅了されない。「放蕩」は「放蕩の願望」のままでは絵空事。私にできないような「放蕩」の中で肉体が解放されてこそ、その肉体の奥から輝きだす「いのち」が美しいのだ。そしてその「輝き」はつかいつくされて、跡形もなくなるから美しいのだ。
 村尾は、そういう肉体が燃えつき、根源の「いのち」さえ燃えつきる「こと」を書いていない。単なる「願望」を書いている。
 「肉体」はどうやら安全なところにいる。
 つまり、ここに書かれていることは肉体にとっては「嘘」ということだ。
 私はこういう詩は嫌いだなあ。

似合いもしないのに流行のドレスを
着込んだミーハー達が 下手な化粧一杯で
埼玉の奥から横浜までやって来て 長っちり
イヤーなおふくろが傍にいても
どうしても結婚してくれなきゃ死んじゃう
と大さわぎさせるような男の子とお店をやってみたい

 この詩のうさんくささは、詩の最後に「思う」をつけてみるとはっきりする。魅力的な男の子と(息子と)お店をやってみたい「と思う」。
 「思う」ことならだれにでもできる。
 だれにでもできないのは、「思う」ことではなく、それを「肉体」で実際に「する」ことだ。何かを「する」。そのとき人は何かに「なる」。つまり、自分ではなくなる。「思う」だけでは「私」はかわらない。何にも「ならない」。「思い」だけが動いて変わっていく。
 まあ、デカルトなら、そうは言わないだろう。「思う」--思うことが人間を変えていく、願望をことばにすれば、精神はそのなかで「解放」される。まあ、そう読んでもいいのだろうけれど、私はあいにく、そういう「二元論」が嫌い。肉体と精神という「二元論」が大嫌い。
 村尾の詩がずるいのは、「思う」を省略することで、ここに書かれていることが「真実の欲望(いのちの声)」のように装っていることだ。
 「思っていること」を「思う」といわずに省略すると、それが「肉体」に見えてくる。まるで「丸裸の自分」(自分の丸裸)を差し出しているように読者に見えることだ。あ、村尾ってこんな恥ずかしくなるような本音を平気でいう人間なんだ。いいなあ、本音を言える人は。魅力的だなあ。
 でも、私はそんなふうには感じないのだ。
 単に「思う」を省略して、「精神性」を隠しているだけ。それが証拠に、「思う」をつけると、それが「精神」に見えてつまらなくなる。そんな「思い」ならだれだって一度や二度は抱いたことがある。だって、それが楽ちんでおもしろそうなんだから。「精神」を隠すと、なんだかわくわくするねえ。--ああ、でも、それが退屈。単なる空想なのに、そこには「肉体」がないのに、それを「肉体」であるかのようによそおうなんて、ばかばかしい。

似合いもしないのに流行のドレスを
着込んだミーハー達が 下手な化粧一杯で
埼玉の奥から横浜までやって来て 長っちり

 この、長尾が嘲笑している(?)女たちの方がはるかに「肉体」を解放している。「いのち」を解放している。長尾がばかにしようが、そんなことは関係ない。いい男がちらっとこっちを見て笑った。うれしいなあ。からだの芯がとろけてしまう--そういう「こと」を女たちは実際にしているのだから。
 そこには「放蕩」と「消尽」がある。「事実」がある。
 そんな「こと」の前で「……をやってみたい(と思う)」なんて、ばかばかしい。

 これは欲望をことばにすることで解放し、「暮らし」を「ことば」が乱してしまわないようにしている--つまり「ことば」を逆説的につかって「暮らし」をととのえている詩なのである。
 欺瞞なのである。
 書いているうちにだんだん腹が立ってきた。



金の生まれる字
村尾 暉子
iga
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セス・マクファーレン監督「テッド」(★★★★)

2013-01-21 10:29:28 | 映画

監督 セス・マクファーレン 出演 マーク・ウォールバーグ、ミラ・クニス、セス・マクファーレン

 うまいなあ、マーク・ウォールバーグはとてもうまい。
 昔、「ビッグ」を見て、トム・ハンクスはなんとうまいのだろうと大感激したが、それを上回る興奮。
 マーク・ウォールバーグの目がいい。子供のまま。子供時代を演じた子役の目よりも中年のマーク・ウォールバーグの目の方が子供っぽい。純真。
 この目をテディ・ベアのテッドにむけるだけではなく、ミラ・ニクスといるときも同じ目をする。これはすごいなあ。
 映画は2時間くらいのものだから、そういう目を2時間持続しろというのなら、うまい役者ならできるかもしれない。けれど、映画は2時間といっても撮影は2時間じゃないからねえ。とぎれとぎれに撮影するし、撮影の順序だってストーリーとは関係がない。いやあ、どうやって「間」の時間を過ごしたんだろう。心配になるくらい、うまい。
 いつまでたっても縫いぐるみと「友だち」というのは、まあ、ヘンタイだね。正常じゃないね。その正常じゃない人間を正常にしてしまうのが、マーク・ウォールバーグの目。目の演技。自分の信じているものを、ただまっすぐに見つめる。ほかのひとがマーク・ウォールバーグをどう見ているかよりも、自分が何を見たいか、ということに夢中になっている。その純真な感じがいいねえ。まあ、自分に閉じこもっている、ジコチューと言えば言えるのだけれど。
 で、そういう純真だけでは実はおもしろくない。人間はいつでも純真なだけじゃないからね。
 その純真じゃない部分、不純、いいかげんなところ--それをなんとテディベアが引き受けてしまう。リアルに全部引き受けてしまう。マリフアナに夢中だし、デリヘル嬢を家に呼んで羽目を外し、スーパーで働きはじめても上司に無礼な口をきき、仕事中にレジの恋人とセックスし、やりたい放題。生きているテディベアとして一時期セレブだったので人脈(クマ脈?)もあり、パーティを開けばあこがれのスターもやってくる。そこでもコカインをやりながら羽目を外す。働く苦労も知らず、好き放題に遊び呆けている。
 あれ?
 あ、そうだよねえ。「純真」と「不純(?)」、子供の世界と音なの世界がが逆転している。
 人間は中年になれば純真さを失う。縫いぐるみ(子供)はいつまでたっても純真、というのが普通の常識。それが、この映画では逆転している。マーク・ウォールバーグはいつまでたっても自立できない。働いているけれど、そして恋人もいるけれど、さらには縫いぐるみのテッドにも手をやいているけれど、どこかでテッドに頼っている。テッドがいるので、うだつのあがらない生活もやっていけている。出世街道を突っ走るでもなく、ホームレスになるでもなく、まあ、それなりに生活している。上司に叱られながら。
 その鬱屈を、テッドがかわりに解放している、とも受け取れるね。
 でも、こんなことは考えるとつまらない。ただ、マーク・ウォールバーグの純真な演技に夢中になればいい。(ついでに、テディベアの下品な演技も楽しめばいい。)
 いろいろいいシーンがあるけれど、私が好きなのは、テッドの恋人の名前を当てるシーン。いや、当たらないんだけれど、マシンガンのように名前を連発するから当たったら「ピンポーン」と言え、と言って 100人くらい(もっと多い?)の名前をよどみなく言い放つシーン。いやあ、女の名前を日本語でもいいから 100人よどみなく言える? 重複せずにだよ? できないねえ。それを演技とは言え、真剣にやってしまう。そして、その真剣さがねえ……不思議なことに、あ、こいつらいつもこんなふうなことを繰り返していたんだという「実感」というか「暮らしの存在感」として浮かび上がってくる。「オタク」の遊びのようなものなのだけれど、それが「遊び」ではなく(遊びだからなのかもしれないけれど)、「暮らし」をきちんとととのえている。ささえている。そういうのが見えてくる。感激してしまったなあ。
 それから、屋外ステージでミラ・ニクスのために歌を歌うシーン。実にへたくそに歌う。そのへたくそさかげんが、とってもうまい。こんなにへたには歌えまいというくらい、音痴の常識通りに音を外す。音痴というのはひとつの和音(コード)から次の和音に移行するときの、そのつなぎ目の最初の音がうまくとれなくて、音がズレていく。つまり、最初の和音のキーと次の和音のキーが違ってきてしまうために音が暴走するのだけれど、それをまるで素人のど自慢でもめったに聞くことができないくらいに上手に「音痴」を演じる。マーク・ウォールバーグはたしかバンドももっているくらい音楽通のはず。それがこういう歌い方を、それも素人の純真さのまま表現できる。爆笑のシーンなのだけれど、感激するなあ。「音痴」なのにそれでも気にせず自分の気持ちをつたえる、その純真さが、すーっと浮かび上がる。
 そして、その歌をミラ・ニクスの上司がばかにするのだけれど、このときミラ・ニクスが抗議する--この瞬間に、ほら、マーク・ウォールバーグがどんなに女心をつかみ取っているかがわかる。「純真」が好きでミラ・ニクスはマーク・ウォールバーグを捨ててしまうことができない。そのせつなさがいいねえ。
 まあ、しかしこんなことは気にしないで、つまりマーク・ウォールバーグの純真な演技は無視して、テディベア・テッドの下品さに大笑いすればいい映画なのかもしれないけれど、それが大笑いできるのはマーク・ウォールバーグの純真さが要点をおさえているからということは忘れないでね。(これは、下品さに大笑いしながら、自分の純真さを発見する、ということになるのかもしれないけれど。)
                        (2013年01月20日、天神東宝3)

 



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