村尾暉子『金の生まれる字』(iga、2012年08月30日発行)
村尾暉子『金の生まれる字』は、きのう読んだ尾川の詩の対極にある。
「お店」という作品。
「暮らし(生活)」をととのえるという具合に働かない。「ととのった暮らし」はつまらないという。逆がいい。逆か。しかし、「ととのった暮らし」の逆は「乱れた暮らし」? そうではなくて、「暮らし」をととのえるかわりに、「暮らし」のもっと奥にあるもの、肉体に関係したもの、ことばにならないものを「解放」しようというのが村尾の願いなのだろう。
都合のいいことばで言いなおせば、「いのち」を「解放」しようとしている。「解放されたいのち」こそが美しい。しつけなんかではなくて、ね。
うーん、わからないでもないが、疑問が残る。
なぜかというと、そこにはほんとうの「いのち」の「解放」が描かれているわけではないからだ。
引用の最後の行の「みたいんだ」。これは願望だね。
他人の「願望」なんか読んでもぜんぜんおもしろくない。
他人の「願望」ではなく、何をしたか--その具体的な「こと」でないと、魅了されない。「放蕩」は「放蕩の願望」のままでは絵空事。私にできないような「放蕩」の中で肉体が解放されてこそ、その肉体の奥から輝きだす「いのち」が美しいのだ。そしてその「輝き」はつかいつくされて、跡形もなくなるから美しいのだ。
村尾は、そういう肉体が燃えつき、根源の「いのち」さえ燃えつきる「こと」を書いていない。単なる「願望」を書いている。
「肉体」はどうやら安全なところにいる。
つまり、ここに書かれていることは肉体にとっては「嘘」ということだ。
私はこういう詩は嫌いだなあ。
この詩のうさんくささは、詩の最後に「思う」をつけてみるとはっきりする。魅力的な男の子と(息子と)お店をやってみたい「と思う」。
「思う」ことならだれにでもできる。
だれにでもできないのは、「思う」ことではなく、それを「肉体」で実際に「する」ことだ。何かを「する」。そのとき人は何かに「なる」。つまり、自分ではなくなる。「思う」だけでは「私」はかわらない。何にも「ならない」。「思い」だけが動いて変わっていく。
まあ、デカルトなら、そうは言わないだろう。「思う」--思うことが人間を変えていく、願望をことばにすれば、精神はそのなかで「解放」される。まあ、そう読んでもいいのだろうけれど、私はあいにく、そういう「二元論」が嫌い。肉体と精神という「二元論」が大嫌い。
村尾の詩がずるいのは、「思う」を省略することで、ここに書かれていることが「真実の欲望(いのちの声)」のように装っていることだ。
「思っていること」を「思う」といわずに省略すると、それが「肉体」に見えてくる。まるで「丸裸の自分」(自分の丸裸)を差し出しているように読者に見えることだ。あ、村尾ってこんな恥ずかしくなるような本音を平気でいう人間なんだ。いいなあ、本音を言える人は。魅力的だなあ。
でも、私はそんなふうには感じないのだ。
単に「思う」を省略して、「精神性」を隠しているだけ。それが証拠に、「思う」をつけると、それが「精神」に見えてつまらなくなる。そんな「思い」ならだれだって一度や二度は抱いたことがある。だって、それが楽ちんでおもしろそうなんだから。「精神」を隠すと、なんだかわくわくするねえ。--ああ、でも、それが退屈。単なる空想なのに、そこには「肉体」がないのに、それを「肉体」であるかのようによそおうなんて、ばかばかしい。
この、長尾が嘲笑している(?)女たちの方がはるかに「肉体」を解放している。「いのち」を解放している。長尾がばかにしようが、そんなことは関係ない。いい男がちらっとこっちを見て笑った。うれしいなあ。からだの芯がとろけてしまう--そういう「こと」を女たちは実際にしているのだから。
そこには「放蕩」と「消尽」がある。「事実」がある。
そんな「こと」の前で「……をやってみたい(と思う)」なんて、ばかばかしい。
これは欲望をことばにすることで解放し、「暮らし」を「ことば」が乱してしまわないようにしている--つまり「ことば」を逆説的につかって「暮らし」をととのえている詩なのである。
欺瞞なのである。
書いているうちにだんだん腹が立ってきた。
村尾暉子『金の生まれる字』は、きのう読んだ尾川の詩の対極にある。
「お店」という作品。
東大だのケイオーだの ワセダだのを出て
一流企業へ行って 良家(?)の子女と
結婚するムスコは親孝行にちがいないけれど
その正反対だって一寸いいではないか
大学は七年かかってやっと出して頂いたが
すっごくハンサムで酒場のバーテンか何かをやって
女をたらし込むこと抜群で 新聞に出ない程度にワルで
女の子達をかなり泣かせる男
母親みたいな年増がチャカチャカやってきて
金くれたり ネクタイくれたりする
粋に着物を着た年上女が妙な甘え声で
「ねえ ねえ」とムスコにすりよってくる
私はそんな息子と ランプのついた喫茶店を
開いてみたいんだ
「暮らし(生活)」をととのえるという具合に働かない。「ととのった暮らし」はつまらないという。逆がいい。逆か。しかし、「ととのった暮らし」の逆は「乱れた暮らし」? そうではなくて、「暮らし」をととのえるかわりに、「暮らし」のもっと奥にあるもの、肉体に関係したもの、ことばにならないものを「解放」しようというのが村尾の願いなのだろう。
都合のいいことばで言いなおせば、「いのち」を「解放」しようとしている。「解放されたいのち」こそが美しい。しつけなんかではなくて、ね。
うーん、わからないでもないが、疑問が残る。
なぜかというと、そこにはほんとうの「いのち」の「解放」が描かれているわけではないからだ。
引用の最後の行の「みたいんだ」。これは願望だね。
他人の「願望」なんか読んでもぜんぜんおもしろくない。
他人の「願望」ではなく、何をしたか--その具体的な「こと」でないと、魅了されない。「放蕩」は「放蕩の願望」のままでは絵空事。私にできないような「放蕩」の中で肉体が解放されてこそ、その肉体の奥から輝きだす「いのち」が美しいのだ。そしてその「輝き」はつかいつくされて、跡形もなくなるから美しいのだ。
村尾は、そういう肉体が燃えつき、根源の「いのち」さえ燃えつきる「こと」を書いていない。単なる「願望」を書いている。
「肉体」はどうやら安全なところにいる。
つまり、ここに書かれていることは肉体にとっては「嘘」ということだ。
私はこういう詩は嫌いだなあ。
似合いもしないのに流行のドレスを
着込んだミーハー達が 下手な化粧一杯で
埼玉の奥から横浜までやって来て 長っちり
イヤーなおふくろが傍にいても
どうしても結婚してくれなきゃ死んじゃう
と大さわぎさせるような男の子とお店をやってみたい
この詩のうさんくささは、詩の最後に「思う」をつけてみるとはっきりする。魅力的な男の子と(息子と)お店をやってみたい「と思う」。
「思う」ことならだれにでもできる。
だれにでもできないのは、「思う」ことではなく、それを「肉体」で実際に「する」ことだ。何かを「する」。そのとき人は何かに「なる」。つまり、自分ではなくなる。「思う」だけでは「私」はかわらない。何にも「ならない」。「思い」だけが動いて変わっていく。
まあ、デカルトなら、そうは言わないだろう。「思う」--思うことが人間を変えていく、願望をことばにすれば、精神はそのなかで「解放」される。まあ、そう読んでもいいのだろうけれど、私はあいにく、そういう「二元論」が嫌い。肉体と精神という「二元論」が大嫌い。
村尾の詩がずるいのは、「思う」を省略することで、ここに書かれていることが「真実の欲望(いのちの声)」のように装っていることだ。
「思っていること」を「思う」といわずに省略すると、それが「肉体」に見えてくる。まるで「丸裸の自分」(自分の丸裸)を差し出しているように読者に見えることだ。あ、村尾ってこんな恥ずかしくなるような本音を平気でいう人間なんだ。いいなあ、本音を言える人は。魅力的だなあ。
でも、私はそんなふうには感じないのだ。
単に「思う」を省略して、「精神性」を隠しているだけ。それが証拠に、「思う」をつけると、それが「精神」に見えてつまらなくなる。そんな「思い」ならだれだって一度や二度は抱いたことがある。だって、それが楽ちんでおもしろそうなんだから。「精神」を隠すと、なんだかわくわくするねえ。--ああ、でも、それが退屈。単なる空想なのに、そこには「肉体」がないのに、それを「肉体」であるかのようによそおうなんて、ばかばかしい。
似合いもしないのに流行のドレスを
着込んだミーハー達が 下手な化粧一杯で
埼玉の奥から横浜までやって来て 長っちり
この、長尾が嘲笑している(?)女たちの方がはるかに「肉体」を解放している。「いのち」を解放している。長尾がばかにしようが、そんなことは関係ない。いい男がちらっとこっちを見て笑った。うれしいなあ。からだの芯がとろけてしまう--そういう「こと」を女たちは実際にしているのだから。
そこには「放蕩」と「消尽」がある。「事実」がある。
そんな「こと」の前で「……をやってみたい(と思う)」なんて、ばかばかしい。
これは欲望をことばにすることで解放し、「暮らし」を「ことば」が乱してしまわないようにしている--つまり「ことば」を逆説的につかって「暮らし」をととのえている詩なのである。
欺瞞なのである。
書いているうちにだんだん腹が立ってきた。
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