詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「新潟までたどりつけない」ほか

2013-01-06 10:55:09 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「新潟までたどりつけない」ほか(「地上十センチ」2、2012年12月15日発行)

 和田まさ子「新潟までたどりつけない」の感想を書くのもむずかしい。おもしろいのだが、そのおもしろさを私自身のことばで言い表すことができない。

わたしが寝ているあいだに
時代は変わった
旧式の私の頭脳で
答えられることはわずかで
列に並んでも後回しにされる
秋には新潟に旅行に行くはずだったから
切符を買うためにわたしはみどりの窓口にいる
しかし列車名を答えられないという失態のため
並んで待っても順番はこない
みんなが持っている用紙をわたしは持たず
みんなが持っている期待に満ちたよい気分にならず
ただ焦ってしまう

 「たどりつけない」というのはカフカ「城」からはじまるかどうかわからないけれど、まあ「理不尽」の典型みたいなものである。その「理不尽」なことが、だれでも体験するみどりの窓口の列という状況のなかで語られている。それがおもしろい。カフカの「城」になると、そんなものは日本の日常にはないからね。だからカフカに起きたことはふつうの日本人には起きない。けれど和田の描いている「わたし」に起きたことは自分にも起きるかもしれない。
 列に並んでいる。「乗る列車は?」「ええっと」「早く答えて次の人が待っているんだから、そのあいだに次の人の席が売れてしまうかもしれないのだから」「ええっと」「わからないんだったら、次にして、わたしが先に買うから……」というようなことは、経験はしないかもしれないけれど、「早くしろよ」と思ったことはだれにでもあるかも。そういうだれにでもある「こと」をしっかりつかんで和田はことばを動かしている。
 で、この「こと」というのはなかなか不思議。私はいま列車の名前がわからなくて順番を変われといわれたことはなくても、前の人のもたもたぶりを見て順番を変わってほしいと思ったことはあるかもしれないと書いたのだけれど、「こと」には「両面」がある。一方の当事者がいて、別の当事者がいる。それは「対立」して「ひとつ」になっている。言い換えると「こと」には「裏」と「面」がある。それがくっついているのが「こと」。「裏」と「面」がいつもいっしょになって動いているのが「こと」。
 こういう両面性はなかなかわからないのだけれど、いろいろな形で「こと」をつくりだしている。その「こと」を和田はしっかりとつかみとる。
 それがはっきりするのは2連目。

新潟はなんのために行くのか
前に並んでいる人が聞くので
その町で人間になるとわたしはいった
すると笑われて
結局また列の最後尾に移動させられる

 「人間になる」--これって、変といえば変だよね。和田は「人間」なのだから。でも、よくいうよね。「人間になれよ」と。それは「まっとうな人間」という意味で「まっとう」が省略されている。省略してしまうのは「まっとう」が人間の本来のあり方だとだれもが無意識に知っている。それは「肉体」にしみついているからである。
 ここに「こと」がある。「まっとうな人間」というのは、人間が「まっとうであること」。人間は「もの」かもしれないが「まっとう」は「こと」なのだが、それは「肉体」にしみついてしまっているので見えない。「まっとうであること」と「まっとうでないこと」が面と裏にあって、内部でからみあっていて、そこから「まっとうということ」だけを取り出しなさいと言われても……。
 こういう「肉体」にしみついていて、ことばにする必要のないことをことばにしてしまうと、何か変。和田が書いているように「人間になく」ということは自分からわざわざ口にするようなことは少ないかもしれないけれど、たとえば「人間になれ」と言われて「私も人間ですけど」と反論するようなこと(反論したくなるようなこと)はだれにでもある。そして、このときは肉体にしみついてしまっている「まっとう」はことばにされなかったために、まるで存在しないことのように取り扱われて、どうも「論理」がうまく動かない。ことばの表面を論理が滑っていく感じがする。「わかっているくせに、そんなことを言って」とさらに怒られるようなこともそのときには起きる。
 この「論理がうまく動かない」感じ、でも言っていることはよくわかる、反論していることもよくわかるのに、というのはだれでもが経験すること(経験して覚えていること)だね。それを和田は「正面」からでも「反対側」からでもなく、その「ふたつ」がくっついて「ひとつ」になっている「真ん中」からつかんで動かしている。
 で、「真ん中」から動かすと。
 「正面」と「反対側」がすぐにはわからない。両方ともふだんはことばにして意識していないから、突然そういうことが起きるとどっちがどっちかわからなくなるし、だいたい「正面」と「反対」というのは見方の問題に過ぎないという主張(?)もあって、「反対側」なんてものは最初からなくて両方とも「正面」とも言える。
 えっ。
 「反対側」がないのに「反対側」なんていうのは変じゃない? 矛盾じゃない?
 そうなんだよなあ。矛盾しているし、変。この何かしら「矛盾」を潜り抜ける形でしか、和田の作品、そのことばの運動をつかみとることができないというところがむずかしい。
 和田の書いていることは、「論理的」につかもうとするとあいまい。でも、そういうことは「体験」した覚えがある。肉体が覚えている。そのことをきちんと書かないと感想にはならない。けれどそれをことばにすると(感想を書くと)、どうもうまくいかない。面倒くさくなる。「和田の詩はおもしろい。傑作だ」というだけですませておくと、とても簡単で、しかも正確なのに……。
 で、この変な「矛盾」、変な感覚はどうして起きるのかというと。
 「頭脳」で考えるからだね。和田は「旧式のわたしの頭脳」と書いているが、「頭脳」というのはいつでも古びていくものである。いつでも新しい何かが出てきてそれを消化しないことには「頭脳」はついていけない。--でも、「肉体」はそうではない。「肉体」には「旧式」ということがないというか、すぎたことを「肉体」は取り戻せない。「いま」しかない。「あのこと」「このこと」を「肉体」は「いま」のなかで動かすだけなのである。動かしたときに「いま」があるだけなのである。--「頭脳」にとっては「旧式」かもしれないが、肉体は旧式であることを気にしない。
 こういう例が適切かどうかわからないが、クロールの腕のかきは、昔はSの字を描いて水を引っぱった。いまはまっすぐにプルする。そんなことは「頭」の問題であって、どっちにしたって「肉体」は泳げる。肉体が泳いでしまえば、それは「いま」の泳ぎなのである。泳いだ人にとっては。
 あ、やっぱりこの例は適切ではなかったな。変だな。でも書いてしまったので、そのままにしておいて……。(私は、結論もなにも考えずに書きはじめる。途中の脱線も、どうしようもなく起きてしまう。)
 書きたいことを書くために、「飛躍」しよう。面倒くさい説明は省いて、私の肉体がつかみ取っているものについて書いてしまおう。

 「ヒラメ」に出てくる「ニンゲン」は「新潟まで……」に出てくる「人間」とは一見、逆のことを書いているようにも見える。

六本木に行って
暗闇の中をあると
闇のなかで食事する人たちの間を抜けた
それから
今夜はヒラメになった
雷鳴と雨の中を魚になって泳いだ
雨の空中を泳ぐ
わたしは水陸両用のヒラメであった
薄い体をタテにして
ひらひらとヒレを動かす
そうやって泳いでいると夜の雨の空気感が気持ちいい
しばらくして雨があがると
ニンゲンに戻った
ニンゲンはなんだかさみしい

 「新潟までたどりつけない」では「人間になる」のが目的(?)だった。けれど「ヒラメ」では「ニンゲンに戻った/ニンゲンはなんだかさびしい」ではニンゲンに戻る必要はなかったのでは、という気がする。「人間」と「ニンゲン」は、それとも違うのかな?
 違うにしろ、それは「正面」と「裏側(反対側)」くらいの違いであって、そして「人間」には正面も裏もないというか、その両方がないと人間ではないのだから「正面」「裏側」というような分け方は変なのだけれどね。
 で。(と、ここでも私は「飛躍」する。いや「逆戻り」かな?)
 この詩の「ニンゲンに戻る」前の「わたし(和田)」何だったのだろう。ニンゲンじゃなかったのかな? テキストに従えばヒラメだけれど。いや、その前は書かれていなけれど「ヒラメになった」だから「ヒラメじゃないもの」、つまり「ニンゲン」だった?
 でも、私には、それは「ニンゲン」ではなく、「ヒラメ」「ニンゲン」の区別を超えたものだったように思える。
 「こと」には「正面」と「反対側」があると書いたけれど--そして、和田はその「正面」「反対側」ではなく「真ん中」で「こと」をつかんでいると書いたのだけれど。その「真ん中」というのは「ニンゲン」「ヒラメ」の区別を超えた「いのち」のように私には思える。そして「区別」を超えるのではなく、「区別以前のいのち」をとおって、ときには「ヒラメ(正面?)」、ときには「ニンゲン(反対側?)」へと動いていく。
 「真ん中」は、まあ「いのちの原型」だね。このとき「真ん中」は忙しい。どっちへ行かないか決めないと動けない。でも、「限定されていない(混沌としている)」から、そこはきっとにぎやかだね。祝祭の雰囲気があるね。「ヒラメ」になったとき、その「祝祭」の雰囲気(そこを潜り抜けてきた興奮)がある。それが「ニンゲン」にもどってしまうと、なんだかさびしい。--わかるなあ、この感じ。
 和田の詩では、ひとは金魚になったり壺になったり、水すましにもなったりする。それが私を引きつけるのは、「ニンゲン」と和田が呼んでいるものと、そうではないものを結ぶ「祝祭」がどこかに漂っているからだね。その「祝祭」を「頭」のことばで整理して書き記すのはむずかしい。その「祝祭」を私の肉体は覚えていて(覚えていたことを和田のことばが教えてくれて)、それが楽しいとしか言えないのだけれど。

 (あ、最後になって、やっとことばが動いてくれたなあ、と自分でも思う感想になってしまった。--和田の詩に対する感想を書くのはなかなかやっかいだ。でも、読む度に何か書かずにはいられない。)






わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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