詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陶山エリ「巣箱のふたり」ほか

2013-01-18 23:59:59 | 現代詩講座
陶山エリ「巣箱のふたり」ほか(「現代詩講座」@ リードカフェ、2013年01月16日)

 今回のテーマは「開く」。「開く」ということばをどこかに入れて作品を書く。
 陶山エリ「巣箱のふたり」がおもしろかった。

薄闇に包まれた祭壇の前に跪き
柔らかく瞳孔が開くのを潮に
尼僧は夕刻の礼拝を終える
白壁を染める葡萄酒の色の夕暮れが
尼僧のなだらかな肩にも降りてくる

お怪我の一日も早い回復を
シスター・ベルナデッタ
主よ、溢れる御加護の在らんことを

ふたり、小鳥のような
ささやかな糧を啄み
逞しく畑を耕し
日に一度はルルドの泉に触れた

小鳥たちは寄り添って
坂の途中にある整形外科を訪れた
姉と妹は
診察室の中でも寄り添うので
医者を密かに戦かせた
姉の右腕の、思いのほか大きすぎるギブスに
妹は羽を猛禽類のように広げて
俯いたままの姉の狼狽を呑み込んだ

小鳥たちとギブスに平等に与えられる夜
ロザリオよりもなお重い
蒼白い大気を羽織りながら
いつもと異なる静寂に息をひそめる姉と妹

窓辺に近づいてはなりません
シスター・ガブリエル
裏木戸の周りを徘徊する気配は福音ではなく
それは肌触りの好い母音を乗せた
御霊の悪ふざけ
さえずりを許される夜明けが来るまで
妹よ
細部から滲み出た日記の
封印した頁が不覚にも開いてしまわぬよう
巣箱の鍵を開けてはなりません

 受講生の感想は
 「情景に広がりがある」
 「尼僧とか礼拝堂が出てきて、フランス映画を見ているみたい」
 「妹は羽を猛禽類のように広げて、というところの猛禽類に違和感を感じた」
 「おもしろい。実際にみた光景、尼僧(シスター)を小鳥にしたことで、表現がこうなったのだと思うけれど、小鳥ではなくてもよかったかも」
 「白壁を染める葡萄酒の色の夕暮れ--というような、ありそうなことばはやめた方がいい」
 「気分がよくわからない。頭の中で翻訳しないといけない」
 「気分が……というのは、陶山さんの気持ちのこと?」
 「体験を感想として書くのではなく、物語風に書いているからそういう印象になるのかなあ」
 そういう話の途中で、「これは実際に見た光景です。病院でシスターが二人待っていて、診察室に二人そろって入っていって、出てきたときひとりがギブスをしていた」「シスターが実際にいる学校で学んだ」「映画で見たシーン、刑事が修道院で食事をもらうのだけれど、そのときこんな小鳥の食事のようなものを食べてるんですか、と言ったこととかが3連目に反映している」というような陶山自身の体験も語られた。
 私は阿部日奈子の詩を思い出し、そういうことも話したが、陶山は阿部を知らないということだった。
 「頭のなかで翻訳しないといけない」という意見が出たときには、翻訳調の文体についても触れた。たとえば夕暮れが肩にも「降りてくる」の動詞のつかい方、あるいは小鳥とギブスに夜が「平等に与えられる」という言い回し。これは通常の日本語にはない。けれど翻訳にならありそうな気もする。
 尼僧、礼拝、シスターという名詞よりも、動詞のつかい方がどちらかというと翻訳っぽい。独特のつかい方をしていて、そこに「詩」がある。「わざと」があって、それが読んでいて新鮮な感じを受ける。
 陶山自身映画の影響と語っているが、実際の体験をその体験のまま書くのではなく、自分が見てきた「映画」などの「芸術」をくぐらせることで、現実を「異化」するということがおこなわれていて、それが「文学」の匂いにつながっているのだと思う。
 私はこの詩では、最終連の「妹よ」の転調がとてもおもしろかった。
 それまでのことばは陶山が「作者」の立場にいて、シスターを見ている。第三者として、小説の登場人物のように描いている。ところが、最終連では、シスター・ベルデッタ(姉)がシスター・ガブリエルに、名前ではなく「妹よ」と呼び掛けることで、突然、陶山がシスター・ベルナデッタになってしまう。
 会話(発言)を陶山はカギカッコでくくっていないので、最終連はすべてシスター・ベルナデッタのことばであるようにも読むことができる。(2連目の3行をシスター・ガブリエルのことばと読むことができるように。)
 しかし、そうではなく、「妹よ」から「主役」のなかに陶山が入り込んだ、と読む方がおもしろい。3連目をすべてシスター・ベルナデッタのことばとして読むと、作者(陶山)が物語の外にいることになる。最初から最後まで、物語を客観的に描写している感じになる。それではほんとうに「物語」である。
 でも、そうではなく、書いている途中で気持ちが乗り移って、陶山が「作者(語り手)」であることを忘れて登場人物に「なってしまって」、その結果「妹よ」と言ってしまった読むと、とても「いい感じ」になる。こういう転調はとても難しいのだけれど(書いていると調子が乱れた感じが自分肉体のなかに残るので)、それをすーっと書いていてとてもおもしろい。
 受講生のなかから「作者の気持ちがわからない」という意見もでたのだが、こういう主客の転調の瞬間に「作者」が「顔」を出す--客観的な「作者」のままではいられなくなったということろが何となくおもしろいのである。「日記」ということばにも、何かしら体温のようなものがにじむ。つまり、ここに「作者の気持ち」がある。「悲しい」とか「うれしい」とかいった、普通に語られることばでは言えない「気持ち」がある。ことばにならない「気持ち」。それはほんとうに「転調」としか言いようがない。岩崎宏美の「思秋期」は後半2度転調する。半音ずつ音が高くなる。メロディーラインそのものは同じで、半音あがって繰り返されたメロディーがまた半音あがって繰り返される。このときの「気持ち」というのは「悲しい」とか「さびしい」では言い表せない。ことばにならないから「転調」で表現している。転調するたびに「気持ち」が集中し、「透明」になっていく--私は、この集中と透明の変化が好きで、岩崎宏美の歌が好きなのだが……。
 脱線したので、詩に戻る。陶山の作品の「転調」。

細部から滲み出た日記の
封印した頁が不覚にも開いてしまわぬよう
巣箱の鍵を開けてはなりません

 の「巣箱の鍵」は、何となく「日記の鍵」にも思えてくる。鍵があろうがなかろうが「日記」は他人が読むためのものではないけれど、「日記の鍵」と「巣箱の鍵」が交錯し、そこに「秘密」めいたものが漂う。「巣箱」ということばからは「愛の巣」というようなことも連想され、そうすると、シスター・ガブリエルというような「客観的なことば」ではなく、「妹よ」と呼び掛けるその声にもあやしげな愛の体温が漂ってくる。「客観的な物語」(シスターのひとりがけがをして、もうひとりが病院へついていった)の奥に書かれなかった「秘密」が動きはじめる。
 こういう「読み方」は「誤読」なのかもしれないが、そういう「誤読」を誘ってくれることばはなかなかいいものである。ふいに噴出した「秘密」のようで、見たけれど見なかったことにする--という感じで肉体のなかに何かがたまってくる。

妹よ

 この1行がことばを詩に高めている、と私は思う。



 上原和恵「静けさ」は闘病の末、亡くなった弟のことを、闘病から火葬までを描いている。

半眼で口を開け
もがきながら
悪い奴らとたたっている
弟を
覗いているだけの
無力が押し寄せる

悪い奴らは追いかけても
こっそり見えないところに隠れ
隘路を流れ
善良者を追い詰めて
のさばりかえり
臓器や脳に巣食い
人間を壊していく

耳を開いても
心臓の鼓動や寝息も漏れてこない
目を集めても
ただベッドに横たわり
鼻腔は動かない
指先は
頬の冷たさを知る

台車は車輪を軋ませ
火の海に吸い込まれていく
鉄の扉の閉まる残響に心が震え
嗚咽と足音だけが付いてくる

鉄の扉の向こうから
やってきたのは白い輪郭だけ
最期に放つ熱を感じながら
骨上げ用の箸と箸が触れ合い呻く

 受講生の声は、
 「3連目から4連目へが突然すぎる。もっと死と闘っている描写がほしい」
 「病気と死が並列で、対等すぎる」
 「小説を読んでいるみたい」
 「骨と書かずに、白い輪郭だけと比喩にしているところがいい」
 「もっと弟を書いてほしい。生きている人間のようにして書くといいのでは」
 上原からは自分の「感想」が書けていないのではという気持ちが残る、というようなことが語られた。
 「感想」に関して言えば「無力」とか「広大な」ということばのなかに「感想(気持ち)」を知ることができるけれど、ただ上原が書いているのは感想=説明になっている。「無力」と書かずにもっと具体的な何かを描写すれば、それは説明ではなく、その人だけの感想になるのではないだろうか、と私は言った。
 ただし具体的にといっても、「骨上げ用の箸と箸が触れ合い呻く」の「骨上げ用」という描写では、やはり説明に終わってしまう。「骨上げ用」と言わなくても「白い輪郭」でわかるのだから、最後の行は「箸と箸が触れあう」だけの方が感じが伝わるというようなこともつけくわえた。
 この詩のいい部分は、

耳を開いても
心臓の鼓動や寝息も漏れてこない
目を集めても
ただベッドに横たわり

 の「耳を開いても」と「目を集めても」。ここには具体的な「肉体」の動きがことばとして定着していて、そのことばに誘われるようにして私の肉体も動いてしまう。あ、上原はほんとうに「耳を開いて」「目を集めて」弟と接したのだということがわかる。「耳(目)を近づけても」では、かなり印象が違ってくる。
 「耳を開き」「目を集める」と、普通のひとがつかわないことばを動かさないとあらわすことができない何か--そこに「肉親」のつながりの強さがある。「思想」がある。



 次回から少し変わった試みをします。小説を題材に、そこから詩をつくる。ことばを動かすということをやってみます。テキストは「チャタレイ夫人の恋人」。50ページまで読んで、そこから題材を探す。チャタレイ夫人になって書いても、夫になって書いても、森番になって書いてもいい。森の木や川でもいい。--嘘のなかでことばを自由に動かしてみよう、という試みです。
 参加希望者は書肆侃侃房(←検索)田島さんまで連絡してください。






詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チュ・チャンミン監督「拝啓、愛しています」(★★★)

2013-01-18 10:30:08 | 映画

監督 チュ・チャンミン 出演 イ・スンジェ、ユン・ソジョン、キム・スミ

 主人公の頑固なおじいさんが牛乳配達をしている。そのおじいさんが坂道で貧しいおばあさんに会う。そして恋をする、という現代ならではの物語なのだが。
 一か所、とても感心した。この主役のおじいさんはおんぼろのバイクで牛乳配達をしているが、実はかなり立派な家に住んでいる。で、牛乳配達以外にすることがないので朝からアダルト番組を見るくらいの元気者なのだが、うーん、こんなに金持ちならなぜ牛乳配達? これが最初はわからない。実は、隠された秘密がある。
 おじいさんは当然だけれど結婚していた。妻がいた。その妻が病気で入院した。ベッドの上で「牛乳が飲みたい」という。おそらくはじめての、妻のための買い物が牛乳だった。病院の売店で買ってくる。けれど看護婦が言う。「牛乳を飲ませてはいけません」。牛乳が飲めない病気なのだ。飲むと治療に悪影響が出るのだ。--おじいさんは妻に何もしてやれなかった。そのことが後悔としてずーっと残っている。それで誰よりも早起きして牛乳配達をしている。そうか、そういうわけだったのか。
 そのおじいさんが、墓参りにゆく。墓にそっと牛乳をかける。水とか酒ではなく、牛乳。ずっーと妻と牛乳のことを思っている。いいなあ、この感じ。こういう愛情の表現の仕方。
 おばあさんとの恋の合間に、駐車場の管理をしている元タクシー運転手の男、その妻とも知り合いになり、いわばこの映画はふたつの恋(愛)を平行して描いていく。その愛の描き方が丁寧で気持ちがいい。気持ちがいいけれど、おばあさんはその恋がすばらしすぎて不安になり、田舎へ帰ってしまう。おじいさんは失恋をする。
 で、そのあと、またなかなかいいシーンが出てくる。
 おばあさんが住んでいた家には、いまは新しい家族が越してきている。夜、その前の路地を娘といっしょに通り、思い出話をする。そのとき新しい家族のこどもが家に入る前に外灯に灯をともす(スイッチを入れる)。「暗いと牛乳配達の人が困るから」。おじいさんはそのことを知らなかった。いつも通る道。暗い朝、外灯がついている。それは当然のことだと思っていた。けれどもそうではないのだ。誰かがつけてくれていたのだ。おじいさんはだれかしらない人に助けられて生きていたのだ。
 その誰か--それがおばあさんであるかどうかははっきりとは描かれていない。けれどおじいさんは、あのおばあさんが外灯の灯をつけてくれていたのだと思う。おじいさんはその外灯の下をおんぼろのバイクで通ることで「目覚まし時計」のかわりをしていたが、そのおじいさんを助けてくれる人もいたのだ。ひとは知らず知らずに助け合っている。そのことに気がつく。そして田舎へおばあさんを迎えにゆく。いっしょに住むために。
 いいねえ。これ。
 人がしていることは誰も知らない。誰も知らなくても、人はすることをして生きている。それが互いを助け合うことになっている。そのことを「これを見なさい」とは言わない。声高に主張しない。ただ何でもなかったことのように描いて終わる。恋のハッピーエンドに隠して終わる。
                      (2013年01月10日、KBCシネマ2)


パラダイス牧場 完全版 DVD BOX I
クリエーター情報なし
エイベックス・エンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする