監督 レア・フェネール 出演 ファリダ・ラウアッジ、レダ・カデブ、ポーリン・エチエンヌ、マルク・バルベ
三つの愛の物語なのだが、テーマはひとつ。
そのテーマが色濃くあらわれるシーンのひとつが、服役中の男の身代わりになる男が、その前夜女とセックスするシーン。女が何度も「私を見て、私を見て」という。性器と性器の交わりがセックスなのではない。見つめることがセックスなのだ。そして、そのとき「私を見て」は別なことばで言いなおすと「私をわかって」である。
そうなのだ。あらゆるときに、そうなのだ。「私を見て(私の顔を見て)」とは「私をわかって」なのである。
これとまったく逆の視線の動きがある。相手をじっと見つめる。刑務所の面会室で息子を殺された母親が加害者の青年と対面する。そのとき母親は青年をしっかり見つめる。そしていう「教えて」(これは字幕の文字で、実際には「シル・トゥ・プレ(お願い)」ということばが繰り返されるのだが)。「教えて」とは「あなたの肉体が隠していることをわかるようにことばにして」ということである。
「わかって」と「教えて」が複雑に絡み合うのである。
この映画は三つの愛が語られるが、それは「絡み合う」といっても実際には絡み合わない。三つの愛はたまたま刑務所の面会室で最後に集まるだけで、映画の登場人物たちはそのことを知らない。私たち観客だけがそこに三つの愛があるということを知っているだけなのだが、これがまたおもしろい。
「わかって」というとき、それは「わかっている」。十分に「わかっている」のだが「もっとわかって」。つまり、それは「わかっている」ということを「わかるように教えて」と言っているのだ。そして「教えて」というときも実は「わかっている」けれど「もっと教えて」なのである。
おそろしいことに、人間には「わからないこと」がない。どんなことでも「わかる」。それはたまたま秘密をみてしまったことによって「わかる」ということもあるのだが、そのときも実は「秘密」の内容がわかるのではない。
たとえば面会の付き添いを頼まれた意思は女学生のもっている処方箋から少女が妊娠していると「わかる」。でも、それは妊娠していることがわかる以上に、彼女がそれを秘密にしている、自分だけの問題として解決しようと苦悩していることが「わかる」のである。同じように、息子を殺された母親のバッグのなかから息子の写真を見つけ出した加害者の姉は、母親の「正体」が単なるベビーシッターではないということが「わかる」だけではなく、彼女がどんなふうに「いま/ここ」で仕事をしているか、その苦悩が「わかる」。「目的」ではなく、「苦悩」が「わかる」。
このとき姉は、母親と顔をあわさない。--これは、この映画ではとても重要なシーンである。顔をあわせる、見つめ合うということは「わかりあう」ことの始まりなのだ。人間は「わかりあわなければならない」のだけれど、「わかりあっていてもわからない」という状態でいなければならないことがあるのだ。「わかっている」ということを「わかられてはだめ」ということがあるのだ。「わかっていることがわかられてしまう」と、その「わかられてしまったひと」の行動に違うものがまじってきてしまう。そこに「自由」がなくなってしまう。その人の「自由」を尊重するなら、「わかっていてもわからない」をつらぬかなければならないことがある。
これは最後の最後の医師と女学生の別れのシーンにも描かれている。女学生は刑務所のなかの恋人をふりきってしまう。そのときの苦悩を医師ははっきりと「わかっている」。そしてそれが「わかっている」ということを少女は「わかる」。だから「ありがとう」という気持ちからキスをする。「いわないで」という意味である。「わかっていることは、わかっています、だからそれをことばにしないで」。
人間はほんとうに複雑である。あらゆることをことばで聞きたい。ことばで「わかりたい」。でも、その一方で「わかっている」から「言わないでほしい」とも思うのだ。それはまた「わかっているのだから言わせないでください」ということにもなる。
こういうことは書けば書くほど面倒なことというか、うるさいだけのことになる。
この「わかる」「わからない」「わかって」「教えて」をその「具体的な内容」をことばにしないで、視線の交錯だけで映画にしてしまう。しかもひとつのストーリーではなく三つのストーリーを絡まないように(つまり登場人物たちが他の登場人物のことをまったく知らないままに)描きながら、観客の肉体のなかにだけ「真実」を刻み込む--あ、これはすごい映画だ。2013年に最初に見るべき1本である。
*
余談になるのか、あるいは「核心」に触れることになるのかわからないが。
私はこの映画を2013年01月13日KBCシネマ1で見た(14時10分からの上映)。私は後ろから4列目の中央で見ていた。映画が終わったあと、後ろから6列目の男が5列目の女に対して、「服役している男にそっくり男が面会にやってきて、いれかわるというシーンが納得できない。そっくりな男が会いに来てだれも怪しまないということが納得できない」と話しかけていた。
あ、これはたいへんな勘違いだなと私は思った。
人は自分の関係する人しか見ていないのだ。刑務所で働いている職員は服役している男の顔は見るだろうが、面会にやってくる人の顔など見はしないのである。だれが会いに来ようがそんなことは関係がない。それは同じように面会に来る人たち同士にも言える。隣の人が誰に会いに来たか、どんな事情があるのかなど見てはいない。わかろうとはしない。「わかりたい」のはただ会っている人のことだけである。そして「私自身」のことだけである。なぜ会いたいのか。何を私はしたいのか。それ以外は関係がない。
それを象徴するように、冒頭に、突然どこかへ夫が移送されてここにはないと知った女が「誰か助けて」と周りの面会者に訴えるが、誰も助けはしない。同情もしない。声をかけない。ここにある「真実」、人は自分のことで手がいっぱいを見落とすと、視線のドラマが見えなくなる。
みんながそれぞれに「自分だけの愛」を見つめている。つかもうとしている。確かなものにしようとしている。そのために苦悩している。「愛」がけっして第三者とは共有できないものであることを知っているから「わかって」「教えて」「わかっている」「わかっているけれどわからないことにする」が苦しく切ないのである。
(2013年01月13日、KBCシネマ1)
三つの愛の物語なのだが、テーマはひとつ。
そのテーマが色濃くあらわれるシーンのひとつが、服役中の男の身代わりになる男が、その前夜女とセックスするシーン。女が何度も「私を見て、私を見て」という。性器と性器の交わりがセックスなのではない。見つめることがセックスなのだ。そして、そのとき「私を見て」は別なことばで言いなおすと「私をわかって」である。
そうなのだ。あらゆるときに、そうなのだ。「私を見て(私の顔を見て)」とは「私をわかって」なのである。
これとまったく逆の視線の動きがある。相手をじっと見つめる。刑務所の面会室で息子を殺された母親が加害者の青年と対面する。そのとき母親は青年をしっかり見つめる。そしていう「教えて」(これは字幕の文字で、実際には「シル・トゥ・プレ(お願い)」ということばが繰り返されるのだが)。「教えて」とは「あなたの肉体が隠していることをわかるようにことばにして」ということである。
「わかって」と「教えて」が複雑に絡み合うのである。
この映画は三つの愛が語られるが、それは「絡み合う」といっても実際には絡み合わない。三つの愛はたまたま刑務所の面会室で最後に集まるだけで、映画の登場人物たちはそのことを知らない。私たち観客だけがそこに三つの愛があるということを知っているだけなのだが、これがまたおもしろい。
「わかって」というとき、それは「わかっている」。十分に「わかっている」のだが「もっとわかって」。つまり、それは「わかっている」ということを「わかるように教えて」と言っているのだ。そして「教えて」というときも実は「わかっている」けれど「もっと教えて」なのである。
おそろしいことに、人間には「わからないこと」がない。どんなことでも「わかる」。それはたまたま秘密をみてしまったことによって「わかる」ということもあるのだが、そのときも実は「秘密」の内容がわかるのではない。
たとえば面会の付き添いを頼まれた意思は女学生のもっている処方箋から少女が妊娠していると「わかる」。でも、それは妊娠していることがわかる以上に、彼女がそれを秘密にしている、自分だけの問題として解決しようと苦悩していることが「わかる」のである。同じように、息子を殺された母親のバッグのなかから息子の写真を見つけ出した加害者の姉は、母親の「正体」が単なるベビーシッターではないということが「わかる」だけではなく、彼女がどんなふうに「いま/ここ」で仕事をしているか、その苦悩が「わかる」。「目的」ではなく、「苦悩」が「わかる」。
このとき姉は、母親と顔をあわさない。--これは、この映画ではとても重要なシーンである。顔をあわせる、見つめ合うということは「わかりあう」ことの始まりなのだ。人間は「わかりあわなければならない」のだけれど、「わかりあっていてもわからない」という状態でいなければならないことがあるのだ。「わかっている」ということを「わかられてはだめ」ということがあるのだ。「わかっていることがわかられてしまう」と、その「わかられてしまったひと」の行動に違うものがまじってきてしまう。そこに「自由」がなくなってしまう。その人の「自由」を尊重するなら、「わかっていてもわからない」をつらぬかなければならないことがある。
これは最後の最後の医師と女学生の別れのシーンにも描かれている。女学生は刑務所のなかの恋人をふりきってしまう。そのときの苦悩を医師ははっきりと「わかっている」。そしてそれが「わかっている」ということを少女は「わかる」。だから「ありがとう」という気持ちからキスをする。「いわないで」という意味である。「わかっていることは、わかっています、だからそれをことばにしないで」。
人間はほんとうに複雑である。あらゆることをことばで聞きたい。ことばで「わかりたい」。でも、その一方で「わかっている」から「言わないでほしい」とも思うのだ。それはまた「わかっているのだから言わせないでください」ということにもなる。
こういうことは書けば書くほど面倒なことというか、うるさいだけのことになる。
この「わかる」「わからない」「わかって」「教えて」をその「具体的な内容」をことばにしないで、視線の交錯だけで映画にしてしまう。しかもひとつのストーリーではなく三つのストーリーを絡まないように(つまり登場人物たちが他の登場人物のことをまったく知らないままに)描きながら、観客の肉体のなかにだけ「真実」を刻み込む--あ、これはすごい映画だ。2013年に最初に見るべき1本である。
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余談になるのか、あるいは「核心」に触れることになるのかわからないが。
私はこの映画を2013年01月13日KBCシネマ1で見た(14時10分からの上映)。私は後ろから4列目の中央で見ていた。映画が終わったあと、後ろから6列目の男が5列目の女に対して、「服役している男にそっくり男が面会にやってきて、いれかわるというシーンが納得できない。そっくりな男が会いに来てだれも怪しまないということが納得できない」と話しかけていた。
あ、これはたいへんな勘違いだなと私は思った。
人は自分の関係する人しか見ていないのだ。刑務所で働いている職員は服役している男の顔は見るだろうが、面会にやってくる人の顔など見はしないのである。だれが会いに来ようがそんなことは関係がない。それは同じように面会に来る人たち同士にも言える。隣の人が誰に会いに来たか、どんな事情があるのかなど見てはいない。わかろうとはしない。「わかりたい」のはただ会っている人のことだけである。そして「私自身」のことだけである。なぜ会いたいのか。何を私はしたいのか。それ以外は関係がない。
それを象徴するように、冒頭に、突然どこかへ夫が移送されてここにはないと知った女が「誰か助けて」と周りの面会者に訴えるが、誰も助けはしない。同情もしない。声をかけない。ここにある「真実」、人は自分のことで手がいっぱいを見落とすと、視線のドラマが見えなくなる。
みんながそれぞれに「自分だけの愛」を見つめている。つかもうとしている。確かなものにしようとしている。そのために苦悩している。「愛」がけっして第三者とは共有できないものであることを知っているから「わかって」「教えて」「わかっている」「わかっているけれどわからないことにする」が苦しく切ないのである。
(2013年01月13日、KBCシネマ1)
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