詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

レア・フェネール監督「愛について、ある土曜日の面会室」(★★★★★)

2013-01-13 17:47:47 | 映画
監督 レア・フェネール 出演 ファリダ・ラウアッジ、レダ・カデブ、ポーリン・エチエンヌ、マルク・バルベ

 三つの愛の物語なのだが、テーマはひとつ。
 そのテーマが色濃くあらわれるシーンのひとつが、服役中の男の身代わりになる男が、その前夜女とセックスするシーン。女が何度も「私を見て、私を見て」という。性器と性器の交わりがセックスなのではない。見つめることがセックスなのだ。そして、そのとき「私を見て」は別なことばで言いなおすと「私をわかって」である。
 そうなのだ。あらゆるときに、そうなのだ。「私を見て(私の顔を見て)」とは「私をわかって」なのである。
 これとまったく逆の視線の動きがある。相手をじっと見つめる。刑務所の面会室で息子を殺された母親が加害者の青年と対面する。そのとき母親は青年をしっかり見つめる。そしていう「教えて」(これは字幕の文字で、実際には「シル・トゥ・プレ(お願い)」ということばが繰り返されるのだが)。「教えて」とは「あなたの肉体が隠していることをわかるようにことばにして」ということである。
 「わかって」と「教えて」が複雑に絡み合うのである。
 この映画は三つの愛が語られるが、それは「絡み合う」といっても実際には絡み合わない。三つの愛はたまたま刑務所の面会室で最後に集まるだけで、映画の登場人物たちはそのことを知らない。私たち観客だけがそこに三つの愛があるということを知っているだけなのだが、これがまたおもしろい。
 「わかって」というとき、それは「わかっている」。十分に「わかっている」のだが「もっとわかって」。つまり、それは「わかっている」ということを「わかるように教えて」と言っているのだ。そして「教えて」というときも実は「わかっている」けれど「もっと教えて」なのである。
 おそろしいことに、人間には「わからないこと」がない。どんなことでも「わかる」。それはたまたま秘密をみてしまったことによって「わかる」ということもあるのだが、そのときも実は「秘密」の内容がわかるのではない。
 たとえば面会の付き添いを頼まれた意思は女学生のもっている処方箋から少女が妊娠していると「わかる」。でも、それは妊娠していることがわかる以上に、彼女がそれを秘密にしている、自分だけの問題として解決しようと苦悩していることが「わかる」のである。同じように、息子を殺された母親のバッグのなかから息子の写真を見つけ出した加害者の姉は、母親の「正体」が単なるベビーシッターではないということが「わかる」だけではなく、彼女がどんなふうに「いま/ここ」で仕事をしているか、その苦悩が「わかる」。「目的」ではなく、「苦悩」が「わかる」。
 このとき姉は、母親と顔をあわさない。--これは、この映画ではとても重要なシーンである。顔をあわせる、見つめ合うということは「わかりあう」ことの始まりなのだ。人間は「わかりあわなければならない」のだけれど、「わかりあっていてもわからない」という状態でいなければならないことがあるのだ。「わかっている」ということを「わかられてはだめ」ということがあるのだ。「わかっていることがわかられてしまう」と、その「わかられてしまったひと」の行動に違うものがまじってきてしまう。そこに「自由」がなくなってしまう。その人の「自由」を尊重するなら、「わかっていてもわからない」をつらぬかなければならないことがある。
 これは最後の最後の医師と女学生の別れのシーンにも描かれている。女学生は刑務所のなかの恋人をふりきってしまう。そのときの苦悩を医師ははっきりと「わかっている」。そしてそれが「わかっている」ということを少女は「わかる」。だから「ありがとう」という気持ちからキスをする。「いわないで」という意味である。「わかっていることは、わかっています、だからそれをことばにしないで」。
 人間はほんとうに複雑である。あらゆることをことばで聞きたい。ことばで「わかりたい」。でも、その一方で「わかっている」から「言わないでほしい」とも思うのだ。それはまた「わかっているのだから言わせないでください」ということにもなる。

 こういうことは書けば書くほど面倒なことというか、うるさいだけのことになる。
 この「わかる」「わからない」「わかって」「教えて」をその「具体的な内容」をことばにしないで、視線の交錯だけで映画にしてしまう。しかもひとつのストーリーではなく三つのストーリーを絡まないように(つまり登場人物たちが他の登場人物のことをまったく知らないままに)描きながら、観客の肉体のなかにだけ「真実」を刻み込む--あ、これはすごい映画だ。2013年に最初に見るべき1本である。



 余談になるのか、あるいは「核心」に触れることになるのかわからないが。
 私はこの映画を2013年01月13日KBCシネマ1で見た(14時10分からの上映)。私は後ろから4列目の中央で見ていた。映画が終わったあと、後ろから6列目の男が5列目の女に対して、「服役している男にそっくり男が面会にやってきて、いれかわるというシーンが納得できない。そっくりな男が会いに来てだれも怪しまないということが納得できない」と話しかけていた。
 あ、これはたいへんな勘違いだなと私は思った。
 人は自分の関係する人しか見ていないのだ。刑務所で働いている職員は服役している男の顔は見るだろうが、面会にやってくる人の顔など見はしないのである。だれが会いに来ようがそんなことは関係がない。それは同じように面会に来る人たち同士にも言える。隣の人が誰に会いに来たか、どんな事情があるのかなど見てはいない。わかろうとはしない。「わかりたい」のはただ会っている人のことだけである。そして「私自身」のことだけである。なぜ会いたいのか。何を私はしたいのか。それ以外は関係がない。
 それを象徴するように、冒頭に、突然どこかへ夫が移送されてここにはないと知った女が「誰か助けて」と周りの面会者に訴えるが、誰も助けはしない。同情もしない。声をかけない。ここにある「真実」、人は自分のことで手がいっぱいを見落とすと、視線のドラマが見えなくなる。
 みんながそれぞれに「自分だけの愛」を見つめている。つかもうとしている。確かなものにしようとしている。そのために苦悩している。「愛」がけっして第三者とは共有できないものであることを知っているから「わかって」「教えて」「わかっている」「わかっているけれどわからないことにする」が苦しく切ないのである。
                      (2013年01月13日、KBCシネマ1)



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田島安江「ラクダの涙」

2013-01-13 11:47:18 | 詩(雑誌・同人誌)
田島安江「ラクダの涙」(「something 」16、2012年12月25日発行)

 田島安江「ラクダの涙」にとても美しい行がある。

この草原には何もない
何もないけれど何でもある
草原の深い井戸の底から湧き出る水
地下水の湧き出るその場所で
動物たちと並んで手のひらに水を受ける
手のひらに温かいラクダの涙があふれる

草原から遠く離れたその場所で
生まれてまもないラクダの子ども同士
つながれたまま
日暮れて母の帰りを待つその場所で
わたしたち
ラクダの乳でできた固いチーズを食べる
草原の香りを食べる

星が空に満ちるのを待って
母ラクダが帰ってくる
草をたっぷり食べたラクダの肌から
草の匂いが漏れる
ラクダからしぼられる乳からも
草の匂いが漏れてくる

 人間はラクダのチーズを食べる。ラクダの子どもはチーズは食べない。母親の乳の飲む。チーズは乳からできているから人間はチーズを食べることでラクダの乳を飲んでいることになる。ラクダのチーズを食べるとき、人間はラクダの子どもになる。
 そういう体験をしたあと、母親のラクダが帰ってくるのを見る。ラクダから草の匂いがする。それは草を食べたからだ、と田島は書いている。それが証拠にはラクダの肌からだけではなく乳からも草の匂いがするからだ。
 あ、この乳のなかの草の匂い。
 これは田島が嗅いだものだろうか。もちろん田島が嗅いだものだが、そのとき田島は人間だったのか。それともラクダの子どもだったのか。私はラクダの子どもになって乳から草の匂いを嗅ぎとっているように思える。
 これがいい。
 ラクダの肌から草の匂いを嗅ぎ取っているときは田島はまだ人間だ。しかし乳から草の匂いを嗅ぎ取るとき、もう田島は人間ではない。ラクダになって母の乳房の近くにすりよっている。そして草の強い匂いを嗅ぐ。そしてこのとき、実際に母ラクダの乳房にすがっている子どもラクダはラクダではなく、田島なのだ。人間なのだ。人間というより「いのち」の子どもといえばいいのか。そこには人間・ラクダという区別はなくなっている。
 母親が子どもに乳をやるという動きだけではなく、草の匂いと結びつけているところがとても美しい。「いのちの子ども」というようなことばは「抽象的」なものである。だれでも考え出すことができる。そういう段階で詩をとめてしまうと、それが実際に見てきたものであっても「空想」になる。体験を自分の肉体のどの部分で引き受けたか--その「証拠」のようなものが「草の匂い」。
 嗅覚は無防備である。匂いはどこからともなく突然やってくる。鼻をおさえれば匂いはしなくなるかもしれないが、そういうことができるのは匂いを嗅いでしまったあと。匂いは突然やってきて、肉体のなかに入り込む。その肉体のなかに入ってきたものを田島は忘れずにしっかりことばにしている。

満ち足りたラクダは眠りに向かう
わたしはそっと
ラクダのごわごわした毛に触れる
どこかでわたしを呼ぶ声が聞こえる
手風琴の音色のようになつかしい
ラクダの大きな瞳に涙があふれる
ラクダの子の瞳にも涙があふれる

 なぜ「満ち足りたラクダ」と田島は書けるか。繰り返しになるが、それは田島がこのとき「人間」ではなく「ラクダ」だからである。ラクダになって満ち足りているから、そう書いてしまうのだ。そしてそのラクダは乳を飲んだ「子どものラクダ」であるだけではなく、乳を飲ませた「母親のラクダ」でもある。一度人間が人間ではなく「子どものラクダ」になってしまえば、もう「母親のラクダ」にならなくてはすまない。一度人間でなくなったものは「子どものラクダ」だけでとどまっていることはできない。ひとりで「何役」でもやってしまう。すべてが「一体」になる。
 そしてその「一体(感)」は、実は生き物(動物/人間)だけではない。そのまま、そのときの「宇宙」そのものと「一体」になる。

どこかでわたしを呼ぶ声が聞こえる

 それは「宇宙」の彼方であり、同時に「田島自身の肉体の奥」でもある。だれが呼んでいるかわからない--というのは、実はだれが呼んでいるか「知っている」ということでもある。知りすぎていて、それをことばにする必要がない。知りすぎていて、それをことばにすれば嘘になる。「声が聞こえる」だけで十分なのだ。「声」が真実なのだから、余分な「誰か」など書く必要がない。「肉体が覚えているということ」はそういうものである。
 どんなに遠くにあるものでも、それは「肉体の内部」にある。つまり「肉体が覚えている」。だからこそ、それはなつかしい。「ごわごわした毛」さえ「なつかしい」。それがごわごわしているのは、ごわごわしていないと守れないものがあるからだ。そういうことも肉体は覚えている。直感的に思い出している。
 「匂い(嗅覚)」「触れる(触覚)」「聞く(聴覚)」--肉体が様々に働き、様々になることでより強く「ひとつ」に戻る。そこに「宇宙」ができあがる。

ラクダの大きな瞳に涙があふれる
ラクダの子の瞳にも涙があふれる

 このとき、当然、田島の瞳にも涙があふれる。書かない。書く必要がない。これは田島の肉体の内部の中心ですべてのことばを動かしている力だからだ。書かなければならないのはいつでも「肉体」が「覚えていて」、いま、ここに書かないことには「あらわれることができない」ことばである。「肉体」が「覚えていること」を丁寧に掘り起こし目覚めさせるのが詩の仕事である。








トカゲの人―詩集
田島 安江
書肆侃侃房
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