北村真『ひくく さらに ひくく』(ジャンクションハーベスト、2012年12月27日発行)
北村真『ひくく さらに ひくく』のなかに「鳥を放つ」という作品がある。東日本大震災を題材にしているのだと思うが、わからないところがある。
「耳」がわからない。津波によって破壊された古里。古里をおおいつくす様々なもの。それは「暮らし」を物語っている。第三者にはわからないけれど、たとえば「あかね色」の何か。それは「あかね色」というだけで誰の洋服とわかる。誰の食器とわかる。
で、そういう「もの」を北村は「耳」ということばでとらえている。「色」は「眼」で見るのに、眼で識別するのに「耳」。
これはどういうことだろう。
私はしばらく考えてしまった。「ほりおこす」何かが「耳」である。なぜ「耳」?
「耳」が出てくるたびに「月」から放たれるものは「白い翼の鳥」だという。その白い翼の鳥も眼で見るものだろう。眼で見たものだろう。なぜ「耳」?
掘り起こされたものは何なのだろう。「色」を持っているが、それは何なのだろう。洋服であったり食器であったりと、私はさっき書いたのだが、それはいったい何なのだろう。
しばらく考えて、ふと、それは「暮らしの証言者」だと気づいた。「暮らしの証言」だと気づいた。そこにあった「暮らし」。それを語っている。そして、それが「証言」ならば、それを聞くには「耳」が必要である。
あ、そうなのか。様々なものを見つけ出しながら、北村はそのとき、そこで暮らしていた人の「声」を聞いているのだ。
しかし、それならば、「耳」ではなく「口」を掘り起こすことではないのか。
うーん。
しかし、私の直感は「違う」という。私の本能は「口」ではない、という。そして、これは全体に「耳」でなければならないという。
北村は確かに「証言」を聞いたのだ。そのとき北村の肉体は「耳」そのものになった。手で掘り起こし、眼で確認するのだが、「声」が聞こえた瞬間、北村の肉体は「耳」そのものになった。その衝撃があまりに大きいので、いま掘り起こしたものが「耳」そのものに感じられたのだ。北村自身の「耳」がそこからでてきたように感じたのだ。いや、そうではない。北村は自分の「耳」を掘り起こしたのだ。それまで北村に「耳」はあってもそれは耳ではなかった。何かを掘り起こしてその声を聞いたとき北村は「耳」になったのだ。
「暮らし」のなかで人は語り合う。その「声」を聴きつづけた「耳」と北村の「耳」が一体になっている。「証言」を聞き取ることができるのは、そこで暮らした人の「耳」。そこで暮らした人がいつも話し合い、同時にそのことばを聞いていた「耳」。その「耳」に北村はなっているのだ。
その「声」を聞くたびに、聞かれた「声」は自由になる。(こんなとき、自由といっていいかどうかわからないが--重い様々なもののなからか解放されて、ただひとつの「声」として何かを訴える。訴えることができることを、私はとりあえず「自由」と呼ぶのだが……。)
何かを発見するとき、その発見とともに、その人の「肉体」のある器官は「肉体」のすべてになる。「肉体」の存在そのものを代表する。そうして、そういう「肉体」の「部分」になってしまうことで、何といえばいいのだろうか、対象に組み込まれていく。「自分の肉体」をはなれて「他者の肉体」に同化する。「一体化」する。私が「肉体」すべてであるとき、つまり「主人公」であるとき、それは「他者」の「肉体」の一部を引き受けることである。
あ、ちょっと飛躍しているのだが。
補足すると、たとえば道でだれかが倒れている。腹を抱えてうずくまり、うめいている。このとき私たちはその「他人の肉体」を見ながら「腹が痛いのだ」と思う。そのとき「他者の肉体」から「腹」を引き受け、それを「痛い」と感じるということが起きる。このとき私たちは道に倒れている誰かの「肉体」そのものを引き受けているわけではない。
それとは逆のことが、北村のこの詩では起きているのだと思う。
北村の肉体が「耳」に特化し(?)、それがいま掘り起こされた「他者」の何ものかのなかに受け入れられ、そこで「生きている耳」として、掘り起こされるものたちが語る「声」を聞くのだ。
そしてこういう変化が「肉体」に起きるとき、それは「耳」にとどまらない。ほかの器官にも影響する。
「眼」はそれまで見ることのできなかったものを「見る」ようになる。「耳」がそれまで聞くことのできなかったものを「聞く」のと同じように、「眼」もまた新しい「眼」として生まれ変わる。
北村は「頭」ではなく、「肉体」が呼びあう何かをきちんと把握できる詩人なのだと思う。「肉体」が「肉体」を呼吸する、という感じ。
「空を殺める」という作品にもそういうことを感じた。
これは陶工・シゲオさんの動きを描写したものであるけれど、北村はそれを眼で見ているのではなく、手のひらとなって体験している。そして、そのときその手のひらは単なる「土」ではなく、生きている土の「肉体」に触れている。土の「のど」にもなれば、「内臓」のようなもの(外からは見えない何か)にも触れている。「肉体」そのものに触れている。そして、それを北村は「肉体のことば」として書いている。
これは、とてもいい詩だ。
北村真『ひくく さらに ひくく』のなかに「鳥を放つ」という作品がある。東日本大震災を題材にしているのだと思うが、わからないところがある。
舟の
かたちをした月が
浮かんでいる
あらゆる色のクレヨンで
塗りつぶしたキャンバスのように
海岸線と港と田畑と道と家々
暮らしのすべてを
真っ黒い波が
蔽い尽くしたから
折れ曲がった爪で
折り重なった黒を
スクラッチ画のように
少しずつ
けずりとる
あかね
こはく
ふかみどり
ぐんじょう
それから
ぎんの
耳を
ひとつ またひとつ
それぞれの耳を
ほりおこす
そのたびに
舟の
かたちをした月から
白い翼の鳥が放たれてゆく
「耳」がわからない。津波によって破壊された古里。古里をおおいつくす様々なもの。それは「暮らし」を物語っている。第三者にはわからないけれど、たとえば「あかね色」の何か。それは「あかね色」というだけで誰の洋服とわかる。誰の食器とわかる。
で、そういう「もの」を北村は「耳」ということばでとらえている。「色」は「眼」で見るのに、眼で識別するのに「耳」。
これはどういうことだろう。
私はしばらく考えてしまった。「ほりおこす」何かが「耳」である。なぜ「耳」?
「耳」が出てくるたびに「月」から放たれるものは「白い翼の鳥」だという。その白い翼の鳥も眼で見るものだろう。眼で見たものだろう。なぜ「耳」?
掘り起こされたものは何なのだろう。「色」を持っているが、それは何なのだろう。洋服であったり食器であったりと、私はさっき書いたのだが、それはいったい何なのだろう。
しばらく考えて、ふと、それは「暮らしの証言者」だと気づいた。「暮らしの証言」だと気づいた。そこにあった「暮らし」。それを語っている。そして、それが「証言」ならば、それを聞くには「耳」が必要である。
あ、そうなのか。様々なものを見つけ出しながら、北村はそのとき、そこで暮らしていた人の「声」を聞いているのだ。
しかし、それならば、「耳」ではなく「口」を掘り起こすことではないのか。
うーん。
しかし、私の直感は「違う」という。私の本能は「口」ではない、という。そして、これは全体に「耳」でなければならないという。
北村は確かに「証言」を聞いたのだ。そのとき北村の肉体は「耳」そのものになった。手で掘り起こし、眼で確認するのだが、「声」が聞こえた瞬間、北村の肉体は「耳」そのものになった。その衝撃があまりに大きいので、いま掘り起こしたものが「耳」そのものに感じられたのだ。北村自身の「耳」がそこからでてきたように感じたのだ。いや、そうではない。北村は自分の「耳」を掘り起こしたのだ。それまで北村に「耳」はあってもそれは耳ではなかった。何かを掘り起こしてその声を聞いたとき北村は「耳」になったのだ。
「暮らし」のなかで人は語り合う。その「声」を聴きつづけた「耳」と北村の「耳」が一体になっている。「証言」を聞き取ることができるのは、そこで暮らした人の「耳」。そこで暮らした人がいつも話し合い、同時にそのことばを聞いていた「耳」。その「耳」に北村はなっているのだ。
その「声」を聞くたびに、聞かれた「声」は自由になる。(こんなとき、自由といっていいかどうかわからないが--重い様々なもののなからか解放されて、ただひとつの「声」として何かを訴える。訴えることができることを、私はとりあえず「自由」と呼ぶのだが……。)
何かを発見するとき、その発見とともに、その人の「肉体」のある器官は「肉体」のすべてになる。「肉体」の存在そのものを代表する。そうして、そういう「肉体」の「部分」になってしまうことで、何といえばいいのだろうか、対象に組み込まれていく。「自分の肉体」をはなれて「他者の肉体」に同化する。「一体化」する。私が「肉体」すべてであるとき、つまり「主人公」であるとき、それは「他者」の「肉体」の一部を引き受けることである。
あ、ちょっと飛躍しているのだが。
補足すると、たとえば道でだれかが倒れている。腹を抱えてうずくまり、うめいている。このとき私たちはその「他人の肉体」を見ながら「腹が痛いのだ」と思う。そのとき「他者の肉体」から「腹」を引き受け、それを「痛い」と感じるということが起きる。このとき私たちは道に倒れている誰かの「肉体」そのものを引き受けているわけではない。
それとは逆のことが、北村のこの詩では起きているのだと思う。
北村の肉体が「耳」に特化し(?)、それがいま掘り起こされた「他者」の何ものかのなかに受け入れられ、そこで「生きている耳」として、掘り起こされるものたちが語る「声」を聞くのだ。
そしてこういう変化が「肉体」に起きるとき、それは「耳」にとどまらない。ほかの器官にも影響する。
舟の
かたちをした月から
白い翼の鳥が放たれてゆく
「眼」はそれまで見ることのできなかったものを「見る」ようになる。「耳」がそれまで聞くことのできなかったものを「聞く」のと同じように、「眼」もまた新しい「眼」として生まれ変わる。
北村は「頭」ではなく、「肉体」が呼びあう何かをきちんと把握できる詩人なのだと思う。「肉体」が「肉体」を呼吸する、という感じ。
「空を殺める」という作品にもそういうことを感じた。
つくったばかりの
まだ乾いていない粘土の器を
つぶしてしまうことがあるのです
そんな時は
小さくすぼまった喉もとを
ひとおもいにしめるのです
うっ
ほそいくちびるから
かすかな息がもれます
空気がのこっていると
つくりなおした器に火を入れたときに
悲鳴のようなひびが走ってしまうから
ひととき器がほうばった空を
すっかりおしだすように
シゲオさんは
からだじゅうの重さをてのひらにあつめます
粘土のおくから
もういちど
てのひらをおしかえすものがやってくるまで
なんどもなんども
シゲオさんは空を殺めつづけます
これは陶工・シゲオさんの動きを描写したものであるけれど、北村はそれを眼で見ているのではなく、手のひらとなって体験している。そして、そのときその手のひらは単なる「土」ではなく、生きている土の「肉体」に触れている。土の「のど」にもなれば、「内臓」のようなもの(外からは見えない何か)にも触れている。「肉体」そのものに触れている。そして、それを北村は「肉体のことば」として書いている。
これは、とてもいい詩だ。
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谷内 修三 | |
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