詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原「かならず」

2013-01-05 09:58:28 | 詩(雑誌・同人誌)
田原「かならず」(「現代詩手帖」01月号)

 田原「かならず」。この詩に私は困ってしまった。

かならず人々の中に帰っていき
嘲りや罵りを丁寧に聴き 暴力について考えを巡らす
かならず広場に出ていって
独断を指弾しごまかし欺きを暴き出す

ずらされた歴史をかならず糾し
その真実を復元する
失われれた記憶をかならず探して取戻し
再びそれを浮かび上がらせる

 池井の詩と同じように「知らないことば」があるわけではないのだが、どうしようもなく「わからない」ことばがある。「ことがあったな」のように、そのことばは繰り返される。きっと田原には大事なことばなのだ。

かならず

 タイトルにもなっている。そして、この「からなず」はやっぱり省略しても詩の意味は変わらない。「かならず」は言わなくても、ここに書かれていることが田原の思想ならば、田原は「かならず」それをするだろう。
 それなのに、田原は「かならず」と書く。
 うーん。
 こういうときである。あ、田原は日本人ではなく中国人だったと思うのは。中国人だったなと思い出すのは。
 田原は日本語で詩を書いている。そしてその日本語は私の知っている日本語、読んだことのある日本語なのに、ああ、こんな使い方を私の肉体は知らない、体験していないと感じる。そこにとても深い断絶を感じる。
 田原は詩のなかで1行おきに「かならず」を書いているが、それはほんとうは各行に隠されている。

かならず人々の中に帰っていき
嘲りや罵りを「かならず」丁寧に聴き 暴力について「かならず」考えを巡らす
かならず広場に出ていって
独断を「かならず」指弾しごまかし欺きを「かならず」暴き出す

ずらされた歴史をかならず糾し
その真実を「かならず」復元する
失われれた記憶をかならず探して取戻し
再びそれを「かならず」浮かび上がらせる

 たくさん「かならず」があるのに、田原は省略して半分だけ(?)書いている。半分しか書かないことで、肉体のなかにはまだ半分は残っているのだと告げる。この「かならず」の数の多さ、肉体にしまい込まれたままことばになるのを待っている「かならず」の執念(?)というか、意思の強さにわたしは圧倒される。意思の強さにたじろいでしまう。こんなふうに私の肉体は「意思」というものを「かならず」ということばをつかって反復しない。「意思」を反復しなくても、それは自分の「肉体」のなかにあるように思っている。たぶん、勘違いなのだろうけれど。つまり、反復しないのは、それが「意思」になっていないからなんだろうなあ。田原にはこういう反復の強い「意思」があって、それが無意識に出てくるんだろうなあ。
 「意思」の屹立(?)を田原は直視する。からなず、自分の「肉体」のなかから取り出して、ことばにする。--うーん、ことばの国の人、しかもそのことばは「話しことば」ではなく「文字のことば」。書いたら永遠に残ることばなんだろうなあ。
 書いて、それを残していく--そういうことを「肉体」が覚えていて(これはたぶん中国の「伝統」だね)、それが無意識に出てくるのだろう。
 で、その「書く伝統」が「古典」を呼び覚ます。「漢詩」の構造が「かならず」に誘われて出てくる。

咆哮する海とかならず直接向き合い
海とともにその残忍さを悲しむ
旋回する鷹をかならず仰ぎ望み
私の眼差しをその翼に委ねる

 かっこいいなあ。この強いことばの響き。とてもかっこいい。とても日本語では書けない。(田原は「日本語」で書いているように見えるが、きっとこれは中国語だ。)「仰ぎ見る」ではなく「仰ぎ望み(仰ぎ望む)」。動詞と動詞の接続の仕方が日本語で流通しているものとは違う。「望む」は日本語では高いところから見はるかすか、水平に遠くを見ることであって、上を向いて(仰いで)「望む」とは言わないようだ。「高望み」とはいうが、これは「むり」ということだから、状況が違う。田原の動詞、「仰ぐ」と「望む」の接続は日本語をいったん断絶させる。そこに何かしら強い力を感じる。強い力で日本語を断絶し、それから再び接続させる。そこにも強い力を感じる。うーん、かっこいい。ここに詩がある。
 私の眼差しを鷹の眼にではなく「翼に委ねる」。このことばの「遠い距離」、さっぱりした「距離」。ここにも対象をいったん断絶してから、ぐいと引き寄せて接続する力がある。ことばに立ち向かうとき力の強さがある。それがことばの力になっている。詩になっている。これは、日本で生まれ、日本で詩を書いてきた人間には、ちょっとできないなあ、と思う。
 田原の大好きな日本語の達人・谷川俊太郎だって、こんなふうにはいきなりは書けないだろう。中国語で、つまり漢詩でいったん書いて、それから翻訳しないことにはこういう具合はことばが動かないだろうなあ、と思う。(←私のいつもの「感覚の意見」です。)
 それを証明(?)するように、田原は次のようにも書いている。

かならず唐詩に立ち戻り
古人の知恵を復習する
かならず文明に疑いの目を向ける
地球を破滅の方向に引っぱっていかないように

 「唐詩に立ち戻り」。「唐詩」は「中国人の肉体」なのだ。池井のつかっている「ひらがな」は「日本人の肉体」であり、だから私にはなじみやすい。しかし田原の「ことばの肉体」は私にはなじめない。そこには「無意識」の「断絶」がある。この「無意識」は越えられないなあ。
 たとえ田原がひらがなで「かならず」と書いても、それは私の「必ず」とはまったく違うんだなあ、と感じた。それで私は困ってしまった。そして困ったから、それがまたおもしろいと感じた。





石の記憶
田 原
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする