斎藤恵子「百日草」(「どぅるかまら」13、2013年01月10日発行)
斎藤恵子「百日草」は取り壊されるアパートのそばに咲いている百日草を描いている。それまで気がつかなかったけれど、アパートが取り壊されるその日に偶然見かけたのだろう。
描写が連を変えるごとにかわっていくのがとてもおもしろい。壊されるアパートが撒き散らす埃。それが花の上に積もる。それは造花を思い起こさせる。たしたに造花には埃が積もっているものである。
それから花弁の形、葉の形、茎の形--見えるものをできるかぎり客観的に(?)描く。そういうことを踏まえた上で、想像力が、いま/ここにないものを描きはじめる。見えないものを見る。
「地上には茶碗の欠片や犬の糞や食べかすや髪の毛」は解体途中に見えたものかもしれない。けれど、
これは、見えない。これは「百日草」の「思い(思うこと、思っていること)」だからである。けれど、それが斎藤には見える。斎藤はこのとき「百日草」になっているからである。前の2連できちんと描写することで、斎藤は「百日草」に「なる」。そして、「百日草」として思うのである。
このとき、この「思い」に斎藤が溶け込む。「百日草」の「思い」なのだけれど、どうしても斎藤の肉体(人生/思想)がそこに入り込む。
これは、地上に散らかるいろいろな暮らしのあと、地下に埋もれてしまうさまざまな暮らしのあと--たとえば「茶碗の欠片(埋められた暮らしの骨)」など、捨てられていくものへ何かをささげたいということだろう。
花はふつう大地の中に眠っているものを地上にもってきて、私たちにその宝を見せてくれるという具合に「比喩」化されることが多いが、斎藤はここでは逆に描いている。捨てていくものたちは、地上の「ひかり」を届ける。地上の「ひかり」を吸収し、それを茎をくだり、細く張り巡らされた根に、さらにその根が触れている「暮らし」にとどける。
斎藤は、いま、このアパートでつづいてきた「暮らし」に感謝している。それをなんとか伝えたいとは思っている。
その感じが花の描写の変化そのものとなって動いている。
そこには解体現場を、そしてけなげに咲いている花の位置を撮影する少女もいる。その少女とも斎藤は「一体」になる。「哀しみって耳がそよぐことよね」は少女のひとりごととして書かれているが、そのひとりごとが斎藤にとどくのは、斎藤が少女だからである。「耳がそよぐ」とはどういうことか、斎藤は説明はしていないのだが、耳がそよいだ結果(?)、それまで聞こえなかった「声(ひとりごと)」を聞いてしまうということだろう。そして、斎藤は少女のひとりごとの中に、やはり斎藤と同じように「百日草」の「声」に共鳴している「声」を聞く。少女もきっと、「百日草」は地上のひかりを埋もれていく暮らしにとどけているのだと感じている。
肉体の変化とことばの変化が一致した詩だと思った。
斎藤恵子「百日草」は取り壊されるアパートのそばに咲いている百日草を描いている。それまで気がつかなかったけれど、アパートが取り壊されるその日に偶然見かけたのだろう。
造り花になる
かわいた細い花弁は埃をうすく載せ固くなっていく
赤紅色の長い匙形の花弁が重なり半球を拵える
ちいさな紡錘形の葉は対生し細い茎は直立する
地上には茶碗の欠片や犬の糞や食べかすや髪の毛
埋められた骨の上にいたいと思う
ささげるために
茎を伸ばし金のひかりを吸い
まばゆさを束ねふくらむ
紅を濃くする
描写が連を変えるごとにかわっていくのがとてもおもしろい。壊されるアパートが撒き散らす埃。それが花の上に積もる。それは造花を思い起こさせる。たしたに造花には埃が積もっているものである。
それから花弁の形、葉の形、茎の形--見えるものをできるかぎり客観的に(?)描く。そういうことを踏まえた上で、想像力が、いま/ここにないものを描きはじめる。見えないものを見る。
「地上には茶碗の欠片や犬の糞や食べかすや髪の毛」は解体途中に見えたものかもしれない。けれど、
埋められた骨の上にいたいと思う
これは、見えない。これは「百日草」の「思い(思うこと、思っていること)」だからである。けれど、それが斎藤には見える。斎藤はこのとき「百日草」になっているからである。前の2連できちんと描写することで、斎藤は「百日草」に「なる」。そして、「百日草」として思うのである。
このとき、この「思い」に斎藤が溶け込む。「百日草」の「思い」なのだけれど、どうしても斎藤の肉体(人生/思想)がそこに入り込む。
ささげるために
茎を伸ばし金のひかりを吸い
まばゆさを束ねふくらむ
紅を濃くする
これは、地上に散らかるいろいろな暮らしのあと、地下に埋もれてしまうさまざまな暮らしのあと--たとえば「茶碗の欠片(埋められた暮らしの骨)」など、捨てられていくものへ何かをささげたいということだろう。
花はふつう大地の中に眠っているものを地上にもってきて、私たちにその宝を見せてくれるという具合に「比喩」化されることが多いが、斎藤はここでは逆に描いている。捨てていくものたちは、地上の「ひかり」を届ける。地上の「ひかり」を吸収し、それを茎をくだり、細く張り巡らされた根に、さらにその根が触れている「暮らし」にとどける。
斎藤は、いま、このアパートでつづいてきた「暮らし」に感謝している。それをなんとか伝えたいとは思っている。
その感じが花の描写の変化そのものとなって動いている。
デジカメを向け撮る長い髪の少女は
瀕死のようなしろいかおをしていたけれど
位置を凝視し哀しく思ってくれた
哀しみって耳がそよぐことよね
ひとりごとを言う少女は
かおも忘れたひとをしのんでいる
退(ひ)いていくものは
モルタルの壁に沿うから
あざやかな色を増す
そこには解体現場を、そしてけなげに咲いている花の位置を撮影する少女もいる。その少女とも斎藤は「一体」になる。「哀しみって耳がそよぐことよね」は少女のひとりごととして書かれているが、そのひとりごとが斎藤にとどくのは、斎藤が少女だからである。「耳がそよぐ」とはどういうことか、斎藤は説明はしていないのだが、耳がそよいだ結果(?)、それまで聞こえなかった「声(ひとりごと)」を聞いてしまうということだろう。そして、斎藤は少女のひとりごとの中に、やはり斎藤と同じように「百日草」の「声」に共鳴している「声」を聞く。少女もきっと、「百日草」は地上のひかりを埋もれていく暮らしにとどけているのだと感じている。
肉体の変化とことばの変化が一致した詩だと思った。
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