詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ローランド・エメリッヒ監督「もうひとりのシェイクスピア」(★★★)

2013-01-15 22:59:27 | 映画
監督 ローランド・エメリッヒ 出演 リス・エヴァンス、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョエリー・リチャードソン

 この映画はかなり風変わりなはじまり方をする。役者が大急ぎで劇場へ駆けつける。開幕寸前である。息をととのえて、舞台に立つ。幕があがる。そこで口上。これからお見せする芝居は云々。映画なのに、それを「舞台」の枠に入れ、「舞台」なのに劇場を飛び出し、カメラは現実の世界(といっても、いまの世界ではなくシェークスピアのロンドンだから嘘の世界なのだが)へとびだす。
 なぜ?
 シェークスピアの実像は知られていない。ほんとうにいたのか。誰か別人が戯曲を書いていたのではないのか--というストーリーなのだから、わざわざ前にこれからはじまるのは「芝居」です、と舞台をでっちあげて説明しなくてもいいのでは? 直接、シェークスピアのいたロンドンからはじめてもいいのでは? 映画はもともと「嘘」と見ている人は知っているのだから。
 でも、違うんだろうなあ。
 映画が嘘--現実そのものではないということは観客のだれもが知っている。そのために、そこでは「想像力」が働かない。観客の想像力は過剰な映像でどんどん磨り減ってゆき、さらに過剰な情報を求める。これはかなり不幸なことである。
 そんなふうに「受け身」になって映画を見るのではなく、もっと想像力を働かせてみてほしい。芝居を見るように……。そういう「願い」がこの映画の初めに語られるのだ。
 同調するように、シェークスピアのことばが映画の中の舞台で語られる。「想像力を働かせて見てほしい。舞台の上の役者はひとりでも、そのひとりは1000人の兵士なのだ。ここは舞台小屋ではなく戦場なのだ……。」そうなんだねえ、芝居は「想像力」がすべて。役者は観客の想像力を刺戟する存在である。観客を煽動する存在である。(これは、この映画の最後の方のクライマックスでもう一度語られるテーマだが、まあ、省略する。で、この想像力の刺戟という点で、「レ・ミゼラブル」という映画は大失敗している。想像力を否定して映像の洪水で観客を溺れさせている。だから、大嫌い。)
 で、その想像力。それは、どこから生まれ、どう動くか。
 いやあ、これがまたおもしろい。映画はシェークスピアの戯曲のことばをどんどんふくらませる。シェークスピアの書いたことばは単なる芝居ではなく、そこに語られることばには違う現実(背景)があったのだ。たとえば「真夏の夜の夢」は女王と若い恋人(ほんとうは彼が戯曲を書いていた、という設定。貴族が芝居を書くのは貴族らしくないので、戯曲を芝居小屋で見つけた男に託していた云々がこの映画の謎解き)の出会いをそのまま再現したものだし、「ロミオとジュリエット」のダンスシーンはそのまま二人のダンスシーンである。そういう現実(現実の体験)がないことには、ことばはシェークスピアが書いているように「ほんとう」となって動くはずがない。--いやあ、シェークスピアを読んだ人間ならだれでも思うことだよね。ことばは事実をつくりださない。事実があって、それを記録したのがことばなのだ。事実が先なのだ。
 で、王宮を舞台に繰り広げられる権力闘争(オセロ、ハムレット、リア王など)はそのまま「現実」を反映していたものになる。ストーリー全部が一致するわけではないが、そのてかのことばは「現実」をそっくり映したものである。そしてその「映し(現実の反映のさせ方)」は観客には丸見え--というか、観客は、どうしても「芝居」の裏にある「真実」を想像してしまう。(これがクライマックスに応用される。)
 いやあ、楽しいなあ。ことばによって、どんどん「妄想」が膨らんでゆく。女王に隠し子がいて、その子は大きくなって王女と交わり、こどもをまた私生児として産み……ギリシャ悲劇からつづいてきた「妄想」がそのまま「現実」になっていく。人は「現実」を知らずにに、「妄想」を実現させてしまっている。
 というようなことが、何といえばいいのか、ジェットコースターのように超スピードで語られる。映画だねえ。これを芝居でやると、もたもたしてたいへん。芝居は映画のように画面を切り換えることができないからね。映画特有の、カメラの切り替えで舞台を次々に飛躍させ、けれどもその飛躍を貫くように「ことば」が連続する。その瞬間に、妄想が暴走する。そうか。シェークスピアが生きていたら、映画はこんな風になったかもしれないと思わせてくれる。
 そう思わせるためにも、映画は「舞台」ではじまり、「舞台」で終わる--つまり「ことば」から始まり「ことば」で終わる必要があったのだ。

 それにしてもねえ。もしこの世にシェークスピアがいなかったら、英語はどうなっていたのだろう。そして私たちの想像力はどうなっていただろう。私はシェークスピアをほとんど知らないけれど(だからこそ?)、そうか、シェークスピアを読まないことには英語を話したことにはならないぞ、英語にふれたことにはならないぞ、と思ってしまった。シェークスピアを全部覚えればイギリス人になれるとさえ思ってしまった。--これって、私の「妄想」なのだけれど、そういう「妄想」を引き出し育てるのが「文学」というものなんだろうなあ。

 あ、女王のヴァネッサ・レッドグレイヴ、すごいなあ。女王ならではの貫祿とわがままと、さらに女の情念の噴出がすごい。この女がシェークスピアを産み、育てたのだ--ということが「比喩」ではなく「現実」に感じられる。そして、その「比喩」ではなく「現実」というのは映画のなかでは大胆なストーリーとして動いていく。これは映画で確認してくださいね。
                        (2013年01月14日、天神東宝3)


デイ・アフター・トゥモロー [Blu-ray]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤井晴美『今、ミズスマシが影を襲う』

2013-01-15 11:33:51 | 詩集
藤井晴美『今、ミズスマシが影を襲う』(七月堂、2012年09月01日発行)

 藤井晴美『今、ミズスマシが影を襲う』は、短かったり長かったり、いろいろなのだが、短い方がいいかもしれない。
 「ある交響曲」は巻頭の作品である。

 死ぬ間際に私は、自我の受け皿を自室に置いた。そこに薄く水が張られていた。簡単に言えば、死後私がそこに電磁誘導されるわけだ。

 私は、なぜ私か。この問いの不可思議さは、恐怖によって担保されてきた(鮮度が保たれてきた)。

 この詩は1段落だけの方が私にはおもしろく感じられる。2段落目は説明が多くておもしろくない。とくに「恐怖によって担保されてきた」が「鮮度が保たれてきた」と言いなおされるとき、ことばがまったく進まなくなる。
 「私は、なぜ私か」というのもありきたりな問いで、ばっさり半分にしてしまった方が楽しいと思う。
 1段落目には「なぜ」がない。「理由」がない。それが刺激的である。死んだあと自我が薄く水が張られた皿に電磁誘導される、ということがほんとうかどうかなんてどうでもいい。ことばがそう動くなら、そのことばのためにそういうことが起きたってかまわない。ことばがそう動いたのなら、絶対にそうなってほしいと私は思う。で、そんなふうにことばが動くとき、そこには「ことばの肉体」があって、それがおもしろいのだが……。そして「肉体」というのはいつでも「絶対的な他者」である。つまり「わからない」、だから「ほんとう」に思える。
 それなのに。
 2段楽目で「なぜ」がでてきたときから、「肉体」が「頭」にかわってしまう。「なぜ」という「理由(根拠)」は「頭」が考えるものである。「肉体」は「なぜ」など考えない。ただ動く。なのに、「なぜ」がその動きをとめてしまい、さらには「担保されてきた」を「鮮度が保たれてきた」と言いなおすので、どうしようもなくなる。「論理」問いうのは「他者」ではな、「共有」を求めて動くおもしろみに欠けるものである。「わかってくれ」と求められて「わかる」ということほどつまらないものはない。「頭」で共有されるものは何だか肉体を疲れさせる。
 タイトルの「交響曲」にかこつけていえば、1段落目はちゃんとした「演奏」だったのに、2段落目は「楽器」が消えてしまって「楽譜」を見せられた感じ。「楽譜」を見せられて、そこから「音楽」を正確に把握しなさいといわれてもぐったりするでしょ? 「楽譜」にも音楽はあるのだけれど、「音」のように直接「肉体」に飛び込んで来ない。
 まあ、これは私が「音楽」を完全に知っていないからなのだけれどね。--という言い方を流用すれば(?)、私はことばの動きを完全に知っているわけではないので、藤井が書いているように、ことばが「頭」へ向かって動いてくると、なんだか読むのがつらくなるのである。「頭」のなかで動くことばを生きている人(「楽譜」の音楽を生きているような人)には、それが楽しいかもしれないけれどね。

 詩集中で一番気に入ったのは「2009年5月25日7時40分頃/死亡逃亡」という2行のタイトルをもつ詩である。

 小雨の中を懸命に自転車を漕いで投稿する女子高生。田舎の道。
 その女子高生の白い脚を自宅二階のベランダから見ている初老の男。
 そのすぐ下に巨大な温室が隣接していて、そのなかで農作業を続ける男。温室のガラスは蒸気で曇っている。そのため中の男は、緑色の中に溶けだして、すっかりにじんで見える。彼自身が栽培している植物と同化してしまうとでも言うように。
 昨夜見た夢から逃げるように少女は急いでいた。

 主語が次々にかわっていく。このときの「変わり目」に詩がある。切断する力に詩がある。「その女子高生」「そのすぐ下」「その中」「そのため」と「その」ということばが繰り返される。いったん句点「。」で切断しながら、その切断したものを(先行するものを)、「その」ということばで強引に引き寄せ、いままで存在しなかったものに接続する。そのとき「飛躍」が生まれる。「その」という粘着力が「飛躍」を浮き彫りにする。その「矛盾」--「接続」と「切断」、「粘着」と「飛躍」という矛盾がつくりだすリズムがとてもおもしろい。「他者」が次々に増えてゆき、その増え方が「社会(現実)」と重なってくる。あ、こういう世界の広がり方ってあるよなあ、と感じる一瞬だ。
 これは「ある交響曲」にも実は存在した。

 死ぬ間際に私は、自我の受け皿を自室に置いた。そこに薄く水が張られていた。簡単に言えば、死後私がそこに電磁誘導されるわけだ。

 「その」ではなく「そこ」。これは、

 死ぬ間際に私は、自我の受け皿を自室に置いた。「その皿」に薄く水が張られていた。簡単に言えば、死後私が「その皿に張られた水」に電磁誘導されるわけだ。

 と書き直してみれば「その」が存在することは明白だろう。先行することばをきちんと踏まえながらことばを動かす、という「散文」の「文法」を守りながら、(守るふりをして?)、そこに「詩」の「文法」でことばを接続させる--異質なものを出会わせる。
 このとき、その「異質なもの」というのは、ある種の「肉体」である。最初に「いま/ここ」に存在する「もの」とは違う「もの」のぶつかりあい。「ぶつかるということ」が起きる。そうすると、その瞬間「頭」は混乱するね。それが「詩」。
 こういうものに「なぜ」というような「頭」の「文法」は不要。

 このバランスは、しかし、藤田の詩ではまだ安定していない。どうしても「頭」がでてきてことばを動かしてしまう。それが残念。

 あ、「茶箪笥から出てきた男」には、

 アンパンほお張る海あかり。

 という1行があった。これはいいなあ。前後は、私にはあまりおもしろくないが、この1行は楽しい。この1行を読むために、この詩集がある、とさえ思える。

 アンパン「を」ほお張る海あかり。

 ではないところが、とてもいい。スピードがある。異質なものがであうというとき、そしてそれが「こと」という事件になるとき、それを可能にするのはスピードなのだ。「頭」をとっぱらって「肉体」だけが動く。「ことばの肉体」が動いてしまう。この筋肉がもっとついてくると藤田の詩はとても楽しくなる。そういう予感がある。


今、ミズスマシが影を襲う―藤井晴美詩集
藤井晴美
七月堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする