監督 ローランド・エメリッヒ 出演 リス・エヴァンス、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョエリー・リチャードソン
この映画はかなり風変わりなはじまり方をする。役者が大急ぎで劇場へ駆けつける。開幕寸前である。息をととのえて、舞台に立つ。幕があがる。そこで口上。これからお見せする芝居は云々。映画なのに、それを「舞台」の枠に入れ、「舞台」なのに劇場を飛び出し、カメラは現実の世界(といっても、いまの世界ではなくシェークスピアのロンドンだから嘘の世界なのだが)へとびだす。
なぜ?
シェークスピアの実像は知られていない。ほんとうにいたのか。誰か別人が戯曲を書いていたのではないのか--というストーリーなのだから、わざわざ前にこれからはじまるのは「芝居」です、と舞台をでっちあげて説明しなくてもいいのでは? 直接、シェークスピアのいたロンドンからはじめてもいいのでは? 映画はもともと「嘘」と見ている人は知っているのだから。
でも、違うんだろうなあ。
映画が嘘--現実そのものではないということは観客のだれもが知っている。そのために、そこでは「想像力」が働かない。観客の想像力は過剰な映像でどんどん磨り減ってゆき、さらに過剰な情報を求める。これはかなり不幸なことである。
そんなふうに「受け身」になって映画を見るのではなく、もっと想像力を働かせてみてほしい。芝居を見るように……。そういう「願い」がこの映画の初めに語られるのだ。
同調するように、シェークスピアのことばが映画の中の舞台で語られる。「想像力を働かせて見てほしい。舞台の上の役者はひとりでも、そのひとりは1000人の兵士なのだ。ここは舞台小屋ではなく戦場なのだ……。」そうなんだねえ、芝居は「想像力」がすべて。役者は観客の想像力を刺戟する存在である。観客を煽動する存在である。(これは、この映画の最後の方のクライマックスでもう一度語られるテーマだが、まあ、省略する。で、この想像力の刺戟という点で、「レ・ミゼラブル」という映画は大失敗している。想像力を否定して映像の洪水で観客を溺れさせている。だから、大嫌い。)
で、その想像力。それは、どこから生まれ、どう動くか。
いやあ、これがまたおもしろい。映画はシェークスピアの戯曲のことばをどんどんふくらませる。シェークスピアの書いたことばは単なる芝居ではなく、そこに語られることばには違う現実(背景)があったのだ。たとえば「真夏の夜の夢」は女王と若い恋人(ほんとうは彼が戯曲を書いていた、という設定。貴族が芝居を書くのは貴族らしくないので、戯曲を芝居小屋で見つけた男に託していた云々がこの映画の謎解き)の出会いをそのまま再現したものだし、「ロミオとジュリエット」のダンスシーンはそのまま二人のダンスシーンである。そういう現実(現実の体験)がないことには、ことばはシェークスピアが書いているように「ほんとう」となって動くはずがない。--いやあ、シェークスピアを読んだ人間ならだれでも思うことだよね。ことばは事実をつくりださない。事実があって、それを記録したのがことばなのだ。事実が先なのだ。
で、王宮を舞台に繰り広げられる権力闘争(オセロ、ハムレット、リア王など)はそのまま「現実」を反映していたものになる。ストーリー全部が一致するわけではないが、そのてかのことばは「現実」をそっくり映したものである。そしてその「映し(現実の反映のさせ方)」は観客には丸見え--というか、観客は、どうしても「芝居」の裏にある「真実」を想像してしまう。(これがクライマックスに応用される。)
いやあ、楽しいなあ。ことばによって、どんどん「妄想」が膨らんでゆく。女王に隠し子がいて、その子は大きくなって王女と交わり、こどもをまた私生児として産み……ギリシャ悲劇からつづいてきた「妄想」がそのまま「現実」になっていく。人は「現実」を知らずにに、「妄想」を実現させてしまっている。
というようなことが、何といえばいいのか、ジェットコースターのように超スピードで語られる。映画だねえ。これを芝居でやると、もたもたしてたいへん。芝居は映画のように画面を切り換えることができないからね。映画特有の、カメラの切り替えで舞台を次々に飛躍させ、けれどもその飛躍を貫くように「ことば」が連続する。その瞬間に、妄想が暴走する。そうか。シェークスピアが生きていたら、映画はこんな風になったかもしれないと思わせてくれる。
そう思わせるためにも、映画は「舞台」ではじまり、「舞台」で終わる--つまり「ことば」から始まり「ことば」で終わる必要があったのだ。
それにしてもねえ。もしこの世にシェークスピアがいなかったら、英語はどうなっていたのだろう。そして私たちの想像力はどうなっていただろう。私はシェークスピアをほとんど知らないけれど(だからこそ?)、そうか、シェークスピアを読まないことには英語を話したことにはならないぞ、英語にふれたことにはならないぞ、と思ってしまった。シェークスピアを全部覚えればイギリス人になれるとさえ思ってしまった。--これって、私の「妄想」なのだけれど、そういう「妄想」を引き出し育てるのが「文学」というものなんだろうなあ。
あ、女王のヴァネッサ・レッドグレイヴ、すごいなあ。女王ならではの貫祿とわがままと、さらに女の情念の噴出がすごい。この女がシェークスピアを産み、育てたのだ--ということが「比喩」ではなく「現実」に感じられる。そして、その「比喩」ではなく「現実」というのは映画のなかでは大胆なストーリーとして動いていく。これは映画で確認してくださいね。
(2013年01月14日、天神東宝3)
この映画はかなり風変わりなはじまり方をする。役者が大急ぎで劇場へ駆けつける。開幕寸前である。息をととのえて、舞台に立つ。幕があがる。そこで口上。これからお見せする芝居は云々。映画なのに、それを「舞台」の枠に入れ、「舞台」なのに劇場を飛び出し、カメラは現実の世界(といっても、いまの世界ではなくシェークスピアのロンドンだから嘘の世界なのだが)へとびだす。
なぜ?
シェークスピアの実像は知られていない。ほんとうにいたのか。誰か別人が戯曲を書いていたのではないのか--というストーリーなのだから、わざわざ前にこれからはじまるのは「芝居」です、と舞台をでっちあげて説明しなくてもいいのでは? 直接、シェークスピアのいたロンドンからはじめてもいいのでは? 映画はもともと「嘘」と見ている人は知っているのだから。
でも、違うんだろうなあ。
映画が嘘--現実そのものではないということは観客のだれもが知っている。そのために、そこでは「想像力」が働かない。観客の想像力は過剰な映像でどんどん磨り減ってゆき、さらに過剰な情報を求める。これはかなり不幸なことである。
そんなふうに「受け身」になって映画を見るのではなく、もっと想像力を働かせてみてほしい。芝居を見るように……。そういう「願い」がこの映画の初めに語られるのだ。
同調するように、シェークスピアのことばが映画の中の舞台で語られる。「想像力を働かせて見てほしい。舞台の上の役者はひとりでも、そのひとりは1000人の兵士なのだ。ここは舞台小屋ではなく戦場なのだ……。」そうなんだねえ、芝居は「想像力」がすべて。役者は観客の想像力を刺戟する存在である。観客を煽動する存在である。(これは、この映画の最後の方のクライマックスでもう一度語られるテーマだが、まあ、省略する。で、この想像力の刺戟という点で、「レ・ミゼラブル」という映画は大失敗している。想像力を否定して映像の洪水で観客を溺れさせている。だから、大嫌い。)
で、その想像力。それは、どこから生まれ、どう動くか。
いやあ、これがまたおもしろい。映画はシェークスピアの戯曲のことばをどんどんふくらませる。シェークスピアの書いたことばは単なる芝居ではなく、そこに語られることばには違う現実(背景)があったのだ。たとえば「真夏の夜の夢」は女王と若い恋人(ほんとうは彼が戯曲を書いていた、という設定。貴族が芝居を書くのは貴族らしくないので、戯曲を芝居小屋で見つけた男に託していた云々がこの映画の謎解き)の出会いをそのまま再現したものだし、「ロミオとジュリエット」のダンスシーンはそのまま二人のダンスシーンである。そういう現実(現実の体験)がないことには、ことばはシェークスピアが書いているように「ほんとう」となって動くはずがない。--いやあ、シェークスピアを読んだ人間ならだれでも思うことだよね。ことばは事実をつくりださない。事実があって、それを記録したのがことばなのだ。事実が先なのだ。
で、王宮を舞台に繰り広げられる権力闘争(オセロ、ハムレット、リア王など)はそのまま「現実」を反映していたものになる。ストーリー全部が一致するわけではないが、そのてかのことばは「現実」をそっくり映したものである。そしてその「映し(現実の反映のさせ方)」は観客には丸見え--というか、観客は、どうしても「芝居」の裏にある「真実」を想像してしまう。(これがクライマックスに応用される。)
いやあ、楽しいなあ。ことばによって、どんどん「妄想」が膨らんでゆく。女王に隠し子がいて、その子は大きくなって王女と交わり、こどもをまた私生児として産み……ギリシャ悲劇からつづいてきた「妄想」がそのまま「現実」になっていく。人は「現実」を知らずにに、「妄想」を実現させてしまっている。
というようなことが、何といえばいいのか、ジェットコースターのように超スピードで語られる。映画だねえ。これを芝居でやると、もたもたしてたいへん。芝居は映画のように画面を切り換えることができないからね。映画特有の、カメラの切り替えで舞台を次々に飛躍させ、けれどもその飛躍を貫くように「ことば」が連続する。その瞬間に、妄想が暴走する。そうか。シェークスピアが生きていたら、映画はこんな風になったかもしれないと思わせてくれる。
そう思わせるためにも、映画は「舞台」ではじまり、「舞台」で終わる--つまり「ことば」から始まり「ことば」で終わる必要があったのだ。
それにしてもねえ。もしこの世にシェークスピアがいなかったら、英語はどうなっていたのだろう。そして私たちの想像力はどうなっていただろう。私はシェークスピアをほとんど知らないけれど(だからこそ?)、そうか、シェークスピアを読まないことには英語を話したことにはならないぞ、英語にふれたことにはならないぞ、と思ってしまった。シェークスピアを全部覚えればイギリス人になれるとさえ思ってしまった。--これって、私の「妄想」なのだけれど、そういう「妄想」を引き出し育てるのが「文学」というものなんだろうなあ。
あ、女王のヴァネッサ・レッドグレイヴ、すごいなあ。女王ならではの貫祿とわがままと、さらに女の情念の噴出がすごい。この女がシェークスピアを産み、育てたのだ--ということが「比喩」ではなく「現実」に感じられる。そして、その「比喩」ではなく「現実」というのは映画のなかでは大胆なストーリーとして動いていく。これは映画で確認してくださいね。
(2013年01月14日、天神東宝3)
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