詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子「今日会った人」ほか

2013-01-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)

伊藤悠子「今日会った人」ほか(「左庭」24、2013年01月25日発行)

 伊藤悠子「今日会った人」はとても変わった詩である。どこが変わっているかをわかってもらうには全行を引用するしかない。

奥さん、ありがとう
とポストに投函してからお辞儀をしてその人は言った
なんのことだろう
その人が投函するのを待っていたからか
私も手紙を投函した
でも
ポストに着いたのはその人が先であった
忘れるところでした
奥さんが思い出させてくれました
私が手紙を手に持っているのを見て
自分も手紙を出すつもりだったと思い出したらしい
その人はスーパー三和の方に行った
私もスーパー三和に行くつもりだったが
東急ストアに行くことにした
あの人はスーパー三和に行くのではなく
あるいは行ったあと
海に行くのだ きっと
海からはとおい土地であるというのに
海に行くのだ
いくど礼を言い
なんど謝り
なお舗石を辿るという視線を保ち 海までの
東急ストアの広場を横切っていると
海の匂いがする
海からはとおい土地であるというのに
いつか
海辺で会うだろう
今日の日のことなど忘れて
とおく離れて会うだろう
あそこに人がいる
そんな会い方で


 ポストの前の不思議な出会い、スーパー三和へ行く、ということのあとに、突然「あの人」は「海に行くのだ」と思う。これが、とても不思議。しかも海から遠いのに「東急ストアの広場を横切っていると/海の匂いがする」と感じる。「海に行く」と思った瞬間から「海」が伊藤の肉体から溢れてくるみたいだ。東急ストアの広場へ行けばだれでも海の匂いを感じるかというと、そうではない。そして逆のことも考えられるのである。つまり東急ストアの広場ではなくても、どこでも伊藤には海の匂いがするはずである。肉体から海が溢れてくるとはそういう意味である。
 「肉体」が「海」になる。
 このときの「なる」は、また別の「なる」を引き寄せる。

いくど礼を言い
なんど謝り
なお舗石を辿るという視線を保ち

 というのは、頭を下げて(礼を言い、謝り)、そのまま頭を(視線を)上げずに舗石を辿るというのは、ようするに俯いて歩くということだろう。誰かと視線をあわせるのを避け、自分自身と対話するように、自分の内部を覗くようにしていると、肉体から海が溢れてくる。
 で、問題は。
 この俯いて歩いている人はだれ?
 「あの人」だろうか。私は「あの人」だと思って読んだ。そして、その俯いて歩く「あの人」を見てしまったあと、伊藤自身が「あの人」のようにやはり俯いて歩いているのだ。伊藤が「あの人」に「なる」。そして、その「なる」が「海」と重なる。「あの人」は「海」になって、伊藤の肉体から溢れてくる。
 そこに不思議な「一体感」がある。ちょっと、なんといえばいいのか、のがれることのできない「一体感」がある。--あるように、感じる。私はそういう経験をしたことがないので、これは「空想/妄想/誤読」の類なのだが、それがすーっと伝わってくる。あ、伊藤と「あの人」が一体になってしまったのだと私の肉体が感じる。
 で、そういう「あの人」と「いつか/海辺で会うだろう」と伊藤は想像するのだが、このときの「会う」はまたまた不思議である。伊藤は「今日の日のことなど忘れて」と書いているが、その「忘れて」には「海の匂いがする」ということまで含めて「忘れて」なのだろうか。「海」を「忘れて」なのだろうか。
 私は直感的に違う、と思う。
 「今日の日のこと」というのはポストの前で会って「ありがとう」と言った/言われたということは忘れてだと思う。そのとき伊藤は「あの人」とはまだ「一体」ではなかった。「肉体」は別々だった。だから、それは「忘れる」ことができる。しかし、一度「肉体」で「一体」であることを「覚えてしまった」ら、それは「忘れる」ことができない。「肉体」が「海」になったことをしっかり覚えていて、そのためにそれ以外のことは忘れてしまうということだと思う。
 私がいま書いていることは、一種の「感覚の意見」であり、それが正しいかどうかはまったくわからないのだが、そんなふうに思う。
 そして、その「一体感」から、いま伊藤は「あの人」と出会ったこと(過去)と、いつか海で出会うこと(未来)を、伊藤という「肉体」のなかでつないでいる。あ、もしかすると「あの人」は「私」だったかもしれない。「私」は「あの人」だったかもしれない。「奥さん、ありがとう」と言ったのはほんとうは「あの人」ではなく「私」だったのだ。それは区別する必要のない「こと」なのである。「私」と「あの人」が会った「こと」、そして不思議な会話をした「こと」という「事実」があるとき、だれが「私」でありだれが「あの人」であっても、「こと」はかわらない。
 「こと」の不思議さが、突然「海」を伊藤にもたらしたのである。もしかしたら、海で「あの人」に会った「こと」が過去であり、今日ポストの前で会話した「こと」が「いつか(未来)」であるかもしれない。それはどっちでもいいのだ。

 どう書いても「説明」にはならないなあ。
 私は、どうやら伊藤の書いている「こと」のなかに、肉体ごと迷い込んでしまったらしい。
 説明にならないけれど、うーん、これはいい詩だなあ、悲しくてなつかしい詩だなあと思うのである。(いつかまた、この詩について書くことがあるかもしれない。)



 山口賀代子「霜月の月」もおもしろかった。

高層マンションの東の空に
ふわっと
なめれば
舌の上で
さらりと溶けてしまいそうな
しろい
やわらかい
レースで編んだ綿菓子みたいなのが
浮かんでいる
こんなにやさしい容をしているのに
昼の月は怖い
蒼い空のかなたは無限の夜だということをおもいだしてしまうから

 「ふわっと/なめれば/舌のうえで」という短いことばのリズムが最後に突然長くなる。(その前にも少しずつ長い行はあるけれど)。
 で、長いのだけれど、その長さはほんとうは「ふわっと」「なめれば」「舌のうえで」と同じ「意識」なの長さなのである。ことばの、音の数は違うけれど、それが「肉体」のなかを通る「時間」は同じなのだ。
 で、それが「怖い」。
 その「怖さ」のために、山口が書いている「怖さ」に私は感染してしまう。
 なぜ、短い行と長い行があるのか、特に最後だけなぜ飛び抜けて長いのか--それは山口には「説明」できないだろうと思う。もちろん説明しなくていい。できないからこそ、そこに「事実」がある。
 そういうことを感じさせてくれる詩である。


詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂
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