文月悠光「真夜中の学習」(「つばさ」12、2013年12月01日発行)
ことばが遠く感じられる日がある。どこから近づいて行っていいのか、わからない。近づかずに離れていればいいのかもしれないが。
文月悠光「真夜中の学習」。
「お湯」ということば私はつまずく。「流し」にもつまずき、「あけた」にもつまずいた。全部「知っている」ことばである。知っているけれど、私は「わからない」。私の「肉体」がおぼえていることばとまったく違うからである。ひとはそれぞれのことばをもっているから、そして詩はそれぞれの「個人語(固有の外国語のようなもの)」であるから違いがなくては困るのだが……。
もっと簡単な言い方をしてみる。私は「お湯」とは書かない。言うけれども、自分のことばとしては書かない。「流し」ということばは、書くけれども、もう言わない。「あけた」は、とてもなつかしい何かを肉体の奥からよみがえらせる。「あけた」は、言わないし、書かない。私は「ポットの湯を(台所の)シンクに捨てた」「湯を台所に捨てた」と書くと思う。言うときは「お湯を台所に捨てた」かなあ。「湯」は、一音節で発音しにくいから「お湯」になる。関西人なら「ゆー」と音引きつきで言うところだね。関西人なら「お湯」などという面倒くさいことばはつかわないだろうなあ、と思う。
次の行の「またたくまに」ということばも、どうも私の「肉体」になじまない。私は「またたくまに」ということばを、たぶん言わない。書かない。読んで「意味」はわかるが、それが「肉体」をくぐりぬけないのである。
ことばが遠い--と感じる。そこに「ある」のが、ことばかどうかわからない。と言うのは、うーん、変だね。ことばなのだけれど、そのことばを発しているひとの「肉体」が見えない。ことばの遠さが、とても気持ち悪く感じられるのである。
そのくせ、
あ、これが刺戟的なんだなあ。湯気はつかまえられない、というのは「肉体」がおぼえていることとつながる。それは、実にまっとうな、というか、言わなくても誰もが「わかっている」ことである。それが「食べられず」ということばといっしょになって動いている。湯気が食べられないことも、私は「知っている」。しかし、それを「わかっている」かというと、ちょっとあやしい。湯気をつかまえようとしたことはあったが、湯気ではなくて風でもいいのだが、そういう空中に存在する(と思われる?)つかみどことろのないものをつかもうとしたことは、肉体で試したことはあるが、湯気を食べるというのはないなあ。そして、食べようとしたこともないのに「食べられず」が「わかる」。直感的に「わかる」。「肉体」を刺戟する。「肉体」は「湯気は食べられない」を納得する。
で、そのとき、「湯気を食べようとした肉体」「湯気をつかもうとした肉体」が、そこにくっきりと見える。「ポットのお湯を流しにあけた」肉体は、「意味」としてはわかるが「存在」としては「わからない」のに対し、「湯気を食べようとした肉体」は「存在」として「わかる」。ことばと「肉体」が、それ以外の形ではありえない緊密さで「融合」しているのが「わかる」。どきっ、とする。裸の人間(裸の文月)を見たような感じで、そこに誘われてしまう。もっと見たい、と欲望(欲情)してしまう。
でも、その「どきっ」は一瞬である。
「この」にどうしようもないナルシズムを感じる。シンクに湯を捨て、その湯気がたちこめる。そのとき「この(文月の)」肉体以外に、どんな肉体があるのか。「この」と特定(強調?)しなければならない「根拠(肉体の側からの申し立て)」は一体何なのか。無用なことばだ。そこに文月の特徴があるといえばあるのだけれど、私は、どうもいやな気分になる。
この行にも「肉体」というよりは、「肉体」ではないものを感じる。「ほのか」「甘い」なんて「流通センチメンタル」である。(「またたくまに」というのも「流通言語」である。)
「湿る」(触覚)「におう」(嗅覚)が出てくるのに、どうも「肉体」が薄っぺらになっていく感じがする。「食べられず」という強いことばをつかみとった「肉体」は、そこにあるはずなのに、何か見えなくなってしまう。(「ポットのお湯を流しにあけた」と同じように、「意味」としては「理解」できるけれど、「わかる」とは言えない存在になってしまう。)
文月は、いったいどこにいるのかなあ。
「手と手にぎり合って」の「合って」。ここに、いるのかもしれない。自分のなかで完結する。閉じ込める。そして「確かめる」。他者を必要としていない。
雨に濡れた「肉体」の部分では、さらにそのことが強調される。そこでは「雨(他者)」と「肉体」が向き合うのではなく、雨にぬれた「肉体」とまだ濡れていない「肉体」とが出会い、それがしだいに「雨(他者)」影響を受けながら区別をなくしていくのだが、それを外側からではなく、あくまで「内緒話(内部の問題)」としてとらえる。
雨にぬれた、体が冷えた、だから抱いてあたためて--という具合に文月は他者に甘えたり、甘えるふりをして支配したりはしないのだ。自分の「肉体」の問題は自分で解決する。
「無音のささめき」「狂いだす」。あ、しかし、その「肉体」は迫ってこない。とても遠いところで、ひとりで狂っている、ということに自己陶酔している感じだなあ。その狂いのために自分が脅かされるという感じがしてこないなあ。別世界/別次元のことだなあ、と感じてしまう。書いている「意味」は、「ポットのお湯を流しにあけた」と同じように、「理解」できるが、ことばと肉体がちぐはぐだなあ。文月の内部で完結する「意味/内緒話」は、おもしろくないなあ。「内緒話(個人的意味)」なんて、誰もがもっている。隠すことで、それを強調しなくても、そんなことは誰もが「わかっている」。
「内緒話(個人的意味)」を捨ててしまって、それでも存在する「肉体」、それはいったいなぜ存在するのか、肉体のなかに未生の何があるのか、それはどんなことばになろうとしているのか、それを読みたいなあ。
とも文月は書いているが、どうも私には、文月は「残像」をつくっているように見えてしまう。「意味」と、「意味」のための「流通言語」が文月の「肉体」を遠ざける。--まあ、逆に、「意味」と「意味のための流通言語」を突き破って動くことば、「食べられず、つかまえられず、」の行から文月の「肉体」が見える、と書いてもいいのだけれど。私には、せっかく魅力的な「肉体」を隠すようにして文月はことばを動かしているというふうに感じられる。その「隠す」操作が、ことばを遠くしているように思える。
*
詩の前後の行変えの部分を読まなかったとことにし、「体温もわたしはであることを……」から「残像すら、世界はわたしに許さない)」までを独立した作品として読むならば、それはそれで違った「肉体」が見えてくる。「無音のささめき」云々も、自己陶酔には違いないけれど、誘われるままにその陶酔のなかに入っていくのもいいかなあ、とも思う。ことばをつらぬくリズム(音楽)がとても気持ちがいい。「にぎり合って」も「確かめていた」も「境目」も「内緒話」も「無音」も「残像」も、文月の「音楽」であると感じる。
一連目と、最後の部分が、私には、なんとも気持ちの悪い「音楽」なので、こんな感想になってしまった。
ことばが遠く感じられる日がある。どこから近づいて行っていいのか、わからない。近づかずに離れていればいいのかもしれないが。
文月悠光「真夜中の学習」。
夜をただしく満たせずに
ポットのお湯を流しにあけた。
またたくまに上がる白い湯気は
食べられず、つかまえられず、
かすめたこの頬を湿らせていった。
ほのかに五月雨の甘いにおいがした。
「お湯」ということば私はつまずく。「流し」にもつまずき、「あけた」にもつまずいた。全部「知っている」ことばである。知っているけれど、私は「わからない」。私の「肉体」がおぼえていることばとまったく違うからである。ひとはそれぞれのことばをもっているから、そして詩はそれぞれの「個人語(固有の外国語のようなもの)」であるから違いがなくては困るのだが……。
もっと簡単な言い方をしてみる。私は「お湯」とは書かない。言うけれども、自分のことばとしては書かない。「流し」ということばは、書くけれども、もう言わない。「あけた」は、とてもなつかしい何かを肉体の奥からよみがえらせる。「あけた」は、言わないし、書かない。私は「ポットの湯を(台所の)シンクに捨てた」「湯を台所に捨てた」と書くと思う。言うときは「お湯を台所に捨てた」かなあ。「湯」は、一音節で発音しにくいから「お湯」になる。関西人なら「ゆー」と音引きつきで言うところだね。関西人なら「お湯」などという面倒くさいことばはつかわないだろうなあ、と思う。
次の行の「またたくまに」ということばも、どうも私の「肉体」になじまない。私は「またたくまに」ということばを、たぶん言わない。書かない。読んで「意味」はわかるが、それが「肉体」をくぐりぬけないのである。
ことばが遠い--と感じる。そこに「ある」のが、ことばかどうかわからない。と言うのは、うーん、変だね。ことばなのだけれど、そのことばを発しているひとの「肉体」が見えない。ことばの遠さが、とても気持ち悪く感じられるのである。
そのくせ、
食べられず、つかまえられず、
あ、これが刺戟的なんだなあ。湯気はつかまえられない、というのは「肉体」がおぼえていることとつながる。それは、実にまっとうな、というか、言わなくても誰もが「わかっている」ことである。それが「食べられず」ということばといっしょになって動いている。湯気が食べられないことも、私は「知っている」。しかし、それを「わかっている」かというと、ちょっとあやしい。湯気をつかまえようとしたことはあったが、湯気ではなくて風でもいいのだが、そういう空中に存在する(と思われる?)つかみどことろのないものをつかもうとしたことは、肉体で試したことはあるが、湯気を食べるというのはないなあ。そして、食べようとしたこともないのに「食べられず」が「わかる」。直感的に「わかる」。「肉体」を刺戟する。「肉体」は「湯気は食べられない」を納得する。
で、そのとき、「湯気を食べようとした肉体」「湯気をつかもうとした肉体」が、そこにくっきりと見える。「ポットのお湯を流しにあけた」肉体は、「意味」としてはわかるが「存在」としては「わからない」のに対し、「湯気を食べようとした肉体」は「存在」として「わかる」。ことばと「肉体」が、それ以外の形ではありえない緊密さで「融合」しているのが「わかる」。どきっ、とする。裸の人間(裸の文月)を見たような感じで、そこに誘われてしまう。もっと見たい、と欲望(欲情)してしまう。
でも、その「どきっ」は一瞬である。
かすめたこの頬を湿らせていった。
「この」にどうしようもないナルシズムを感じる。シンクに湯を捨て、その湯気がたちこめる。そのとき「この(文月の)」肉体以外に、どんな肉体があるのか。「この」と特定(強調?)しなければならない「根拠(肉体の側からの申し立て)」は一体何なのか。無用なことばだ。そこに文月の特徴があるといえばあるのだけれど、私は、どうもいやな気分になる。
ほのかに五月雨の甘いにおいがした。
この行にも「肉体」というよりは、「肉体」ではないものを感じる。「ほのか」「甘い」なんて「流通センチメンタル」である。(「またたくまに」というのも「流通言語」である。)
「湿る」(触覚)「におう」(嗅覚)が出てくるのに、どうも「肉体」が薄っぺらになっていく感じがする。「食べられず」という強いことばをつかみとった「肉体」は、そこにあるはずなのに、何か見えなくなってしまう。(「ポットのお湯を流しにあけた」と同じように、「意味」としては「理解」できるけれど、「わかる」とは言えない存在になってしまう。)
文月は、いったいどこにいるのかなあ。
体温もわたしであることを自分の手と手にぎり合って確かめていた。
降りはじめた雨の濡れている部分と、まだ濡れていない部分。消え
ゆくその境目を指ではさんで、内緒話をしてみたい。雨の次に降り
かかるのは、無音のささめきに違いなく、わたしが狂いだすときも
おのずと見えてくるのです。
「手と手にぎり合って」の「合って」。ここに、いるのかもしれない。自分のなかで完結する。閉じ込める。そして「確かめる」。他者を必要としていない。
雨に濡れた「肉体」の部分では、さらにそのことが強調される。そこでは「雨(他者)」と「肉体」が向き合うのではなく、雨にぬれた「肉体」とまだ濡れていない「肉体」とが出会い、それがしだいに「雨(他者)」影響を受けながら区別をなくしていくのだが、それを外側からではなく、あくまで「内緒話(内部の問題)」としてとらえる。
雨にぬれた、体が冷えた、だから抱いてあたためて--という具合に文月は他者に甘えたり、甘えるふりをして支配したりはしないのだ。自分の「肉体」の問題は自分で解決する。
「無音のささめき」「狂いだす」。あ、しかし、その「肉体」は迫ってこない。とても遠いところで、ひとりで狂っている、ということに自己陶酔している感じだなあ。その狂いのために自分が脅かされるという感じがしてこないなあ。別世界/別次元のことだなあ、と感じてしまう。書いている「意味」は、「ポットのお湯を流しにあけた」と同じように、「理解」できるが、ことばと肉体がちぐはぐだなあ。文月の内部で完結する「意味/内緒話」は、おもしろくないなあ。「内緒話(個人的意味)」なんて、誰もがもっている。隠すことで、それを強調しなくても、そんなことは誰もが「わかっている」。
「内緒話(個人的意味)」を捨ててしまって、それでも存在する「肉体」、それはいったいなぜ存在するのか、肉体のなかに未生の何があるのか、それはどんなことばになろうとしているのか、それを読みたいなあ。
残像すら、世界はわたしに許さない。
とも文月は書いているが、どうも私には、文月は「残像」をつくっているように見えてしまう。「意味」と、「意味」のための「流通言語」が文月の「肉体」を遠ざける。--まあ、逆に、「意味」と「意味のための流通言語」を突き破って動くことば、「食べられず、つかまえられず、」の行から文月の「肉体」が見える、と書いてもいいのだけれど。私には、せっかく魅力的な「肉体」を隠すようにして文月はことばを動かしているというふうに感じられる。その「隠す」操作が、ことばを遠くしているように思える。
*
詩の前後の行変えの部分を読まなかったとことにし、「体温もわたしはであることを……」から「残像すら、世界はわたしに許さない)」までを独立した作品として読むならば、それはそれで違った「肉体」が見えてくる。「無音のささめき」云々も、自己陶酔には違いないけれど、誘われるままにその陶酔のなかに入っていくのもいいかなあ、とも思う。ことばをつらぬくリズム(音楽)がとても気持ちがいい。「にぎり合って」も「確かめていた」も「境目」も「内緒話」も「無音」も「残像」も、文月の「音楽」であると感じる。
一連目と、最後の部分が、私には、なんとも気持ちの悪い「音楽」なので、こんな感想になってしまった。
![]() | 屋根よりも深々と |
文月 悠光 | |
思潮社 |