石毛拓郎「熟柿(ずくし)をたなごころで喰う」(「飛脚」6、2014年02月10日発行)
石毛拓郎「熟柿(ずくし)をたなごころで喰う」が書いていることは、私がこれからかくことよりももっと思想的な(?)ことを書いているのだけれど、そういうことはちょっと無視して感想を書く。前半に、その「思想」につながる大事なことが書いてあるのだが、そこを無視して、後半。
老婆(ホームレス?)が熟柿(私は「じゅくし」と読むのだが、石毛は「ずくし」と読んでいる)を食べている。熟柿は硬くない、かぶりつくとやわらかいトマトのように内部から崩れるから手のひらでつつみ、手のひらに顔をうずめるように喰う。その姿(様子)を書いているだけなのだが、奇妙におもしろい。「喰う」という動きは「口」だけの仕事のように思っていたが、そうではないことがわかる。石毛は、手のひらで包み込むようにして(手のひらで掬うようにして、こぼさないようにして)喰うことに、ある「思想」を見ているのだが、うーん、その細部(?)にだけ思想があるのではない。--ということが、この「喰う」描写からわかる。
「喰う」とき、老婆はぺたりと座っている。肉体を落ち着かせている。労力を余分なところにつかわない。立って、でもなく、歩きながらでもない。「ぺたり」と座る。自分を大地に固定している。そうすることで「肉体」を「口」と「手」だけにしてしまう。
「手」は、まず「食い物」をつかむ。食い物を自分に引きつける。(「バッグ」ではなく「バック」から、と書いているのは石毛が九州の訛りを生きているからか、と私は、詩とは直接関係がない「肉体」のことをも思ったのだけれど、省略)。
そのあと、「目」も「喰う」ためにつかう。「茜色の かたまり」以下の描写は、詩人(石毛)が見た描写のようでもあるが、老婆自身の見ている世界でもある。「見る(目)」をとおして、老婆と石毛が「一体」になっている。
「目を奪われ 足がとまった」とき、石毛は、老婆になって「ぺたりと座っている」。その「肉体」そのものを生きている。
で、
の「喰うか?」は実際に老婆が言ったわけではなく、「老婆と一体になった石毛」が声を出しているのである。老婆と一体になっているから「喰うか?」という声が出るのである。
だからそのあとの描写も、それは石毛がみた老婆の姿ではなく、石毛自身の姿なのである。石毛は老婆になって、ぺたりと座り、熟柿を手のひらでつつみこみ、その真ん中に顔をうずめて、柿にくらいついている。その口元から熟れた柿を汁を垂らしている。
なのに。
最後に、石毛は「……を見た」と、老婆から「目」をつかって離れていく。「目」で「距離」をつくりだす。重なっていた肉体を引き剥がす。
きのう私は、大西美千代と早矢仕典子の詩にふれて「重なる/距離」というものについて書いたけれど、石毛は、老婆と重なりながらも自分を引き剥がしている。「目」をつかって老婆を客観化する。「喰う」ということを客観化する。客観を「思想」にしようとしている。
ここがつまらない。
せっかく肉体の動きをていねいにひとつひとつ書くことで、老婆の肉体そのものを「思想」として取り込んでいるのに、それを客観化してしまっている。
書いていることが前後してしまうが。
他人の肉体を逐一ていねいにことばにする。描写する。そのとき、描写したひと(詩人/石毛)の肉体は対象と重なり、区別がつかなくなる。(たぶん、ひとは自分にできる肉体の動きしか、ほんとうの動きとして描写することができない。自分の肉体を動かせないような領域では、描写をできない。たとえばスキーのジャンプで、どの位置まで来たら腰をいったん落とす、踏み切るときの足の力はつま先に力を入れるか、膝に力をいれるか、というようなことは「想像」は勝手だが、ジャンプをしたことをのない人間にはできない。)肉体を描写することは、他人の肉体を自分で体験することであり、きちんと体験すると、それは自分自身の肉体の動きになる。そして実際に肉体を動かしてみるから、そのときいっしょに思想(感情/気持ち)も動く。
私はこれからこれを喰う。うまそうだろう。喰うか? やるもんか。そういうときひとは「にこと笑う」。自慢げに、意地悪な感じ、人懐っこい感じに。「一瞥」というのも、いいなあ。おまえなんかには、やらない、という気持ちがたっぷりでている。ひとをうらやましがらせる気持ちがあふれている。
そこに「喰う」ことの、整理できない「思想」がある。「喰う」のは、なんとも自己中心的な行為なのだ。「喰う」はひとりの「肉体」のなかで完結するしかないものだ。だれかの替わりに「喰う」なんてことは、「毒味」くらいのときであって、みんな自分のために喰う。
「目を奪われて」(こころも奪われて)、そういうところにまでたどり着いているのに、そこから引き返してきては、だめなのだ。そこまで行ったら、もう「石毛」にもどってはだめ。老婆になってしまってこそ、詩なのだ。
そうならずに「見た」という具合に石毛自身に引き返してしまっては、そこにある「思想」が老婆のものであって、石毛のものではない、「借り物」であるという「証明(証拠?)」になってしまう。それまでの石毛のことばに共感してきた読者の「共感」も、そのとき「借り物」になってしまう。
別な言い方をすると。
最後の「を見た」がないと、どうなる?
老婆が熟柿を喰うのを石毛が「見た」かどうかわからなくなる? そんなことはない。「見た」がなくても、石毛はそれを「見た」ことがわかる。「見た」だけでなく、老婆の「肉体」を体験したこと、熟柿を喰うを体験をしたことが「わかる」。「肉体」がうごいたことが「わかる」。
「見る」から「わかる」へと動いた「肉体」が、ふたたび「見る」へ引き返してしまっては、詩が詩ではなくなる。
石毛の詩は、私は大好きだ。大好きだからこそ、こんなことをしていてはだめ、と書いておく。
で、もうひとつ追加しておくと。
こんなふうにだれかを切り離し対象化して、そこに「思想」があるという書き方では、「それがどうした、おれとは関係ないぞ」という気持ちを読者に(私に)引き起こしてしまう。前半に書かれている青年の「思想」はそれ自体として立派なものであっても、「立派な青年がいました」で終わってしまう。その人物と「重なる/距離がなくなる(一体になる)」覚悟がないと、どんな「思想」を書かれても、それは「絵空事」。
ひとのためにならないようなこと、隠れてひとりだけ熟柿を喰うというとこであっても、(老婆は隠れて食っているわけではないが)、その老婆と「肉体」が重なるとき、そこに「喰う」ということの「肉体の本質(思想)」が「事実」になる。
「目を奪われ」、老婆と一体になった石毛に感動し、「見た」と自分を引き離す石毛にがっかりした。馬鹿野郎、と石を投げつけたくなった。
石毛拓郎「熟柿(ずくし)をたなごころで喰う」が書いていることは、私がこれからかくことよりももっと思想的な(?)ことを書いているのだけれど、そういうことはちょっと無視して感想を書く。前半に、その「思想」につながる大事なことが書いてあるのだが、そこを無視して、後半。
段丘をくねりながら架かる 霞橋のたもとに
老婆がひとり ぺたりと座っていた
まだ 暖が 恋しいというわけでもないのに
彼女は 襟巻きで頬被りをしていた
無造作に投げ出したバックから ビニル袋を取り出した
鮮やかな茜色の かたまり
野鳥の気を引く かがやき
彼女の 手のひらで光る 一果の露の玉
いかにも愛くるしい姿に 目を奪われて 足がとまった
老婆は顔をあげ こちらを一瞥し にこと笑い
手を突き出し 「喰うか?」というような仕草をみせてから
そのたなごころに 顔をうめた
朝日は 段丘の高さに隠れ 薄く陽光を散らすばかりで頼りない
彼女の口元から 熟れた柿の果汁が ぬると垂れたのを見た
老婆(ホームレス?)が熟柿(私は「じゅくし」と読むのだが、石毛は「ずくし」と読んでいる)を食べている。熟柿は硬くない、かぶりつくとやわらかいトマトのように内部から崩れるから手のひらでつつみ、手のひらに顔をうずめるように喰う。その姿(様子)を書いているだけなのだが、奇妙におもしろい。「喰う」という動きは「口」だけの仕事のように思っていたが、そうではないことがわかる。石毛は、手のひらで包み込むようにして(手のひらで掬うようにして、こぼさないようにして)喰うことに、ある「思想」を見ているのだが、うーん、その細部(?)にだけ思想があるのではない。--ということが、この「喰う」描写からわかる。
「喰う」とき、老婆はぺたりと座っている。肉体を落ち着かせている。労力を余分なところにつかわない。立って、でもなく、歩きながらでもない。「ぺたり」と座る。自分を大地に固定している。そうすることで「肉体」を「口」と「手」だけにしてしまう。
「手」は、まず「食い物」をつかむ。食い物を自分に引きつける。(「バッグ」ではなく「バック」から、と書いているのは石毛が九州の訛りを生きているからか、と私は、詩とは直接関係がない「肉体」のことをも思ったのだけれど、省略)。
そのあと、「目」も「喰う」ためにつかう。「茜色の かたまり」以下の描写は、詩人(石毛)が見た描写のようでもあるが、老婆自身の見ている世界でもある。「見る(目)」をとおして、老婆と石毛が「一体」になっている。
「目を奪われ 足がとまった」とき、石毛は、老婆になって「ぺたりと座っている」。その「肉体」そのものを生きている。
で、
老婆は顔をあげ こちらを一瞥し にこと笑い
手を突き出し 「喰うか?」というような仕草をみせてから
の「喰うか?」は実際に老婆が言ったわけではなく、「老婆と一体になった石毛」が声を出しているのである。老婆と一体になっているから「喰うか?」という声が出るのである。
だからそのあとの描写も、それは石毛がみた老婆の姿ではなく、石毛自身の姿なのである。石毛は老婆になって、ぺたりと座り、熟柿を手のひらでつつみこみ、その真ん中に顔をうずめて、柿にくらいついている。その口元から熟れた柿を汁を垂らしている。
なのに。
最後に、石毛は「……を見た」と、老婆から「目」をつかって離れていく。「目」で「距離」をつくりだす。重なっていた肉体を引き剥がす。
きのう私は、大西美千代と早矢仕典子の詩にふれて「重なる/距離」というものについて書いたけれど、石毛は、老婆と重なりながらも自分を引き剥がしている。「目」をつかって老婆を客観化する。「喰う」ということを客観化する。客観を「思想」にしようとしている。
ここがつまらない。
せっかく肉体の動きをていねいにひとつひとつ書くことで、老婆の肉体そのものを「思想」として取り込んでいるのに、それを客観化してしまっている。
書いていることが前後してしまうが。
他人の肉体を逐一ていねいにことばにする。描写する。そのとき、描写したひと(詩人/石毛)の肉体は対象と重なり、区別がつかなくなる。(たぶん、ひとは自分にできる肉体の動きしか、ほんとうの動きとして描写することができない。自分の肉体を動かせないような領域では、描写をできない。たとえばスキーのジャンプで、どの位置まで来たら腰をいったん落とす、踏み切るときの足の力はつま先に力を入れるか、膝に力をいれるか、というようなことは「想像」は勝手だが、ジャンプをしたことをのない人間にはできない。)肉体を描写することは、他人の肉体を自分で体験することであり、きちんと体験すると、それは自分自身の肉体の動きになる。そして実際に肉体を動かしてみるから、そのときいっしょに思想(感情/気持ち)も動く。
私はこれからこれを喰う。うまそうだろう。喰うか? やるもんか。そういうときひとは「にこと笑う」。自慢げに、意地悪な感じ、人懐っこい感じに。「一瞥」というのも、いいなあ。おまえなんかには、やらない、という気持ちがたっぷりでている。ひとをうらやましがらせる気持ちがあふれている。
そこに「喰う」ことの、整理できない「思想」がある。「喰う」のは、なんとも自己中心的な行為なのだ。「喰う」はひとりの「肉体」のなかで完結するしかないものだ。だれかの替わりに「喰う」なんてことは、「毒味」くらいのときであって、みんな自分のために喰う。
「目を奪われて」(こころも奪われて)、そういうところにまでたどり着いているのに、そこから引き返してきては、だめなのだ。そこまで行ったら、もう「石毛」にもどってはだめ。老婆になってしまってこそ、詩なのだ。
そうならずに「見た」という具合に石毛自身に引き返してしまっては、そこにある「思想」が老婆のものであって、石毛のものではない、「借り物」であるという「証明(証拠?)」になってしまう。それまでの石毛のことばに共感してきた読者の「共感」も、そのとき「借り物」になってしまう。
別な言い方をすると。
最後の「を見た」がないと、どうなる?
老婆が熟柿を喰うのを石毛が「見た」かどうかわからなくなる? そんなことはない。「見た」がなくても、石毛はそれを「見た」ことがわかる。「見た」だけでなく、老婆の「肉体」を体験したこと、熟柿を喰うを体験をしたことが「わかる」。「肉体」がうごいたことが「わかる」。
「見る」から「わかる」へと動いた「肉体」が、ふたたび「見る」へ引き返してしまっては、詩が詩ではなくなる。
石毛の詩は、私は大好きだ。大好きだからこそ、こんなことをしていてはだめ、と書いておく。
で、もうひとつ追加しておくと。
こんなふうにだれかを切り離し対象化して、そこに「思想」があるという書き方では、「それがどうした、おれとは関係ないぞ」という気持ちを読者に(私に)引き起こしてしまう。前半に書かれている青年の「思想」はそれ自体として立派なものであっても、「立派な青年がいました」で終わってしまう。その人物と「重なる/距離がなくなる(一体になる)」覚悟がないと、どんな「思想」を書かれても、それは「絵空事」。
ひとのためにならないようなこと、隠れてひとりだけ熟柿を喰うというとこであっても、(老婆は隠れて食っているわけではないが)、その老婆と「肉体」が重なるとき、そこに「喰う」ということの「肉体の本質(思想)」が「事実」になる。
「目を奪われ」、老婆と一体になった石毛に感動し、「見た」と自分を引き離す石毛にがっかりした。馬鹿野郎、と石を投げつけたくなった。
石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉) | |
石毛 拓郎 | |
思潮社 |