詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デビッド・O・ラッセル監督「アメリカン・ハッスル」(★★★★+★)

2014-02-03 10:25:26 | 映画
監督デビッド・O・ラッセル 出演 クリスチャン・ベール、ブラッドリー・クーパー、ジェレミー・レナー、エイミー・アダムス、ジェニファー・ローレンス、ロバート・デ・ニーロ


 詐欺師をまきこんでのFBIのおとり捜査が題材。で、途中でエイミー・アダムスが「だますのではなく、本気になってやる」というようなことを言うシーンがある。「本気になってFBI捜査官に惚れてやる、惚れさせてやる」と言って愛人を挑発するのだけれど。
 これがこの映画のポイントというか、テーマというか。
 映画というのはもともと虚構。芝居。本物じゃない。それを本物のように私は見てしまうけれど。
 そして詐欺というのも嘘。虚構。芝居。ひとは本物と信じてしまうけれど、嘘。その嘘を俳優が演じるのだから、これっていったい何? どこに本当がある?
 あ、わからなくていいんです。わかったって、しようがない。ブラッドリー・クーパーに、「あんた、だまされてるんだよ、振られるんだよ。脚本読んだの? そんな真剣に恋しちゃって」なんて言っても始まらない。結末を知っていても知らないふりをして「リアルタイム」を演じるのが役者なんだから。
 というようなことは、まあ、どうでもいいなあ。

 傑作は、ジェニファー・ローレンス。すごい。
 ジェニファー・ローレンスはこの映画ではただひとり、詐欺師ではない。ひとをだまさない役(夫にさえだまされている役)を演じているのだが、ほんとうに何も知らないという顔をして演じている。詐欺(おとり捜査)の結果はもちろん、詐欺が行なわれているということさえ知らないバカな主婦(?)を演じている。「脚本」なんか読んでいない。自分がどんな役回りをしているか知らない、という感じで存在している。彼女が出てくるシーンだけ、詐欺(ストーリー)から逸脱してゆく。まあ、「詐欺(ストーリー)」を知らない役なのだから、それ以外に演じようがないのかもしれないが、この「知らない」を演じるというのはすごいなあ。ストーリーを知らないから、何も組み立てない。ただ、「いま/ここ」があるだけ。「いま/ここ」は彼女のまわりで、彼女が動くたびに、嘘ではなくなってゆく。嘘のない「現実」に呑みこまれていく。(ふつうは、現実が嘘に呑みこまれていく--というのが虚構、映画というものだ)。彼女が動くたびに、現実がそこに「ある」。それが、なんともいえいない「安心感」を産む。「日常」を全部ジェニファー・ローレンスが支えている。
 いやあ、みとれてしまうなあ。
 で、そのジェニファー・ローレンスが、夫が詐欺師であることを知らずに、マフィアの恋人に、ふと夫の仕事を話すレストランでのシーン。ここで初めて、彼女はストーリーに組み込まれる。ストーリーを動かす人間になる。彼女は夫から「嘘」しか聞いていないから、それをそのまま話すのだが、聞いているマフィアは、「俺たちはだまされている」と気づく。そのとき。ジェニファー・ローレンスが、「あ、私はいま言ってはいけないことを言ったしまったんだ」とわかる。その瞬間に表情がかわる。これが、すごい。台詞はないのだけれど。ストーリーが彼女によって急展開することが、わかる。彼女自身にもわかるし、観客(私)にもわかる。見ていてジェニファー・ローレンスになってしまう。彼女の「はらはら、どきどき」、言い換えると「どうしよう、私はなんてバカなんだろう」が自分の肉体の中から聞こえてくる。それは、また相手のマフィアにも聞こえている声である。

 脚本/脚本家(劇/劇作家)というのは「他人の声」を集め、ことばにする仕事だとすれば、役者は「他人の声」を自分の声をとおして表現する仕事だ。声には、ことばになる声と、ことばにならない声がある。口を動かさずに、全身で声を発する。全身といっても常に体の全体をつかうわけではなく、一瞬の目の動き、頬の動き--そういうものも声なのだが、その声のつかい方がジェニファー・ローレンスは非常にうまいのだ。
 「あの日、欲望の大地で」で見たのが最初だが、あの映画のなかに、ボーイフレンドと野宿(?)するシーンがある。ボーイフレンドが火に焼けた何か(石だったか、ジャガイモだったか、卵だったか忘れたが……)をつかみ、あつくて思わず落としてしまう。それをジェニファー・ローレンスは平然とつかみ、ボーイ・フレンドを驚かしてしまう。彼女は、彼女のせいで母と恋人がキャンピングカーのなかで焼死したことを知っているので、熱さに対して一種の不感症(母の体験した熱さに比べれば、こんなことは何でもないという感じ)になっている。それを、やはり声をつかわずに、聞かせる。その声はポーいフレンドには聞こえないが観客(私)にははっきり聞こえる。
 で、こういう声が聞こえるというのは、ちょっと順序が逆になるかもしれないが、実際の声、台詞回しが、きっととてもうまいのだ。私は映画はわからないが、話すことばのスピード、間合いが、非常に自然なのだ。変化の仕方が自然なのだ。
 今回のマフィアとのデートでは無言の声を聞かせるが、その前に見た「世界にひとつのプレイブック」では恋人とデートしていて、なんだったか忘れたがぶちきれるシーンがある。そのときの変化の瞬間のことばのスピードがとてもよかった。ことばはわからなくても「音/声」で「肉体」のなかに動いているもののすべてが伝わってくる。肉体のあらゆる部分が「声」なのだと言えるかもしれない。

 私の基準でいうと美人ではないのだけれど、よし、追っかけをするぞ、と本気になってしまう役者だ。(私の基準ではナスターシャ・キンスキーを10点とするとナタリー・ポートマンは6点くらい。ジェニファー・ローレンスは5点から4点のあいだかなあ……。)
 あ、この映画、ラッセル監督組というのだろうか、「世界で……」のロバート・デニーロがマフィアのボスでちょっと顔を出している。クレジットには名前がなかった(見落とした?)ようなので、--あ、デニーロはジェニファー・ローレンスの出る映画に出たくて、むりやりもぐりこんだんだな、と思ったりした。こんなことを思うのは、デニーロに嫉妬しているから?
 そんなことを書かずにはいられないくらいジェニファー・ローレンスに、私は夢中だなあ。採点の+★は、もちろんジェニファー・ローレンスさまのためのもの。
                        (2014年02月02日、天神東宝3)

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東宝
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西脇順三郎の一行(78)

2014-02-03 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(78)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

あの秋の末のくさつた黄色い野菊だ                 (90ページ)

 西脇の書く自然は野蛮な味がする。きよらかな野蛮もあるが、汚い野蛮、酷たらしい野蛮もある。そして、逆説的な感覚になってしまうが、その汚らしく、酷いものが、なまなましいいのちを噴き出す。腐った野菊というのは死そのものだが、腐るところから生まれるどろどろしたいのちのようなものが、なんとも激しい。
 それは「知性」を破る野蛮の本質そのものである。
 西脇の知性はいつも野蛮と向き合っている感じがする。
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