長田弘「金木犀」(「文藝春秋」2014年03月号)
うーん、と唸ってしまった。感心したのではなく、考え込んでしまった。長田弘「金木犀」に。
「考える」と長田も書いている。だから、私もつられて(?)考えたのだと思うのだが、うーん、詩って考えるもの?
そうか……。
確かに、詩を読んで考えるということはあっても、私の場合、その考えは瞬間的に動く何か。じっくりと考えるというのとはちょっと違うなあ。
たとえば、この詩の場合、「金木犀」というタイトル、「人をふと立ち止まらせる/甘いつよい香りを放つ」という書き出しを読んで、「あれれ、三月号に金木犀か。季節外れだなあ」と思う。なぜ、いま、こんな詩を?と考える。でも、「静かな緑の沈黙の長くつづく/金木犀の日々がはじまる」まで読みすすむと、花(香り)の金木犀以外のことを書いているのだとわかる。ひとが目を向けない部分に長田はていねいに目を向けている。そうか、金木犀というのは常緑樹だったのか。私は甘い香りを放っているとき以外は金木犀があるということには気がつかない。香りの季節以外は見落としている。そういう見落としているものが私にはたくさんあるだろうなあ、と思う。考える。(思うと考えるは、このときほとんど区別がない。)
で、そういう見落としていたものをことばで追うと(長田が見落としていたもの、というのではないのだが……)、そこから、いままで知らなかったことばが動きだす。見落としていたものにとこばを与え、見落とされていたものがことばといっしょに立ち上がってくる。
その直前の「静かな緑の沈黙の長くつづく」は目で見たままである。木々は話さないから「沈黙」、常緑樹であるから「緑」。ふたつがあわさって、「長くつづく」。でも「ひたすら緑の充実を生きる、」は何か違う。目ではわからない。見ているだけではわからないことが書かれている。「緑の充実」は常緑樹だから「緑」は見たままということになるけれど、「充実を生きる」というのは、うーん、見えないね。
見えないけれど、でも、わかる。瞬間的にわかる。木は生きている。花が咲いているときだけではなく、花が咲いていないときも生きている。花を咲かせるために生きている。その「生きている」が「わかる」とういのは、どういうことなのだろうか。--と、私は考えはじめる。考えはじめると、ことばが、ごちゃごちゃしてくる。
「いきる」が「わかる」--そのとき、きっと自分の「生きる」を見直し、思い出しているのである。季節がかわるのにあわせて金木犀が花を咲かせ、散らせ、また咲かせる。その花と花の間、木はただ緑を守っているだけだ。人間も何か華々しいことと華々しいことの間は、黙って生きているのに似ているかなあ。知らずに、木に自分の人生を重ねる(自分の生きるを重ねている)。無意識的に「考えている」のである。あるいは「思っている」のである。
見ているだけではわからないことを、ことばをつかって内部から見つめる、ことばをつかって内側から生きる--ということを考える。「考える」とは、ことばをつかって見えないものを見えるようにする(見えたと錯覚する)、見えない世界へ飛躍する、ということかもしれない。
で、そこまで考えたとき、
この末尾の読点「、」に気づく。おもしろいなあ。なぜ「、」なのかなあ。
3行前の「静かな緑の沈黙の長くつづく」は「、」がない。そして、そのまま「金木犀の日々がはじまる」につながる。
「ひたすら緑の充実を生きる、」はどうだろう。
「ひたすら緑の充実を生きる大きな金木犀を見るたびに考える。」とつづいていかないのだろうか。「生きる木」。「生きる」は連体形ではないのか。
あるいは、前の行とつづいて「冬から春、そして夏へ、ひたすら緑の充実を生きる。」という文として完結しないのか。
微妙だね。
どっちとも、ありうるね。
ということかもしれない。「切断」と「接続」を交錯させて、瞬間的に別の次元へ突き進んでしまうこと、ことばが異質になってしまうこと--それを「考える」というのかもしれないなあ。ことばが異質になることを「飛躍」と言いなおすことができる。
で、「切断/接続」のなかで「異質」が生まれると、その「異質」はさらに飛躍する。ついていけないものになる。スピードが速すぎた追いついていけない。
長田は何か言おうとしている。その「言おうとしている」ということは「わかる」が、「何を」言いたいのか、よくわからない。長田が考えたことは、
その補ったことばをたよりに、金木犀に結びつけてみる。
金木犀の生は金木犀の花(かおり)にあるのではない。金木犀の生は花がないとき、常緑樹として緑そのものを生きているときにもある。
では、その「生」が、わざわざ「生の自由」と言い換えられるのは?
考えないといけない。長田は書いているのだろうけれど、さっと読んだだけでは「生の自由」とはなんなのかわからない。
ひとは金木犀の花(香り)に注目して、甘い香りを放つという行為(動詞)を金木犀の特徴(生の特徴)と考えがちだが、それだけが金木犀の充実ではない。金木犀は香りを放って注目を集めているとき以外も生きている。緑を充実させて生きている。
生は「充実」していないといけない。
その「充実」と結びつける形で「自由」が考えられているのかもしれない。生の充実は行為じゃない。生の充実は存在なんだ。そこに存在しているということ、それだけで充実する生き方がある。
そういうことだろうか。
わからないまま、私のことばは、こんな具合に動いた。こんな具合にことばを動かすことが「考える」ということかもしれない。
うーん、と唸ってしまった。感心したのではなく、考え込んでしまった。長田弘「金木犀」に。
人をふと立ち止まらせる
甘いつよい香りを放つ
金色の小さな花々が散って
金色の雪片のように降り積もると、
静かな緑の沈黙の長くつづく
金木犀の日々がはじまる
冬から春、そして夏へ、
ひたすら緑の充実を生きる、
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。
「考える」と長田も書いている。だから、私もつられて(?)考えたのだと思うのだが、うーん、詩って考えるもの?
そうか……。
確かに、詩を読んで考えるということはあっても、私の場合、その考えは瞬間的に動く何か。じっくりと考えるというのとはちょっと違うなあ。
たとえば、この詩の場合、「金木犀」というタイトル、「人をふと立ち止まらせる/甘いつよい香りを放つ」という書き出しを読んで、「あれれ、三月号に金木犀か。季節外れだなあ」と思う。なぜ、いま、こんな詩を?と考える。でも、「静かな緑の沈黙の長くつづく/金木犀の日々がはじまる」まで読みすすむと、花(香り)の金木犀以外のことを書いているのだとわかる。ひとが目を向けない部分に長田はていねいに目を向けている。そうか、金木犀というのは常緑樹だったのか。私は甘い香りを放っているとき以外は金木犀があるということには気がつかない。香りの季節以外は見落としている。そういう見落としているものが私にはたくさんあるだろうなあ、と思う。考える。(思うと考えるは、このときほとんど区別がない。)
で、そういう見落としていたものをことばで追うと(長田が見落としていたもの、というのではないのだが……)、そこから、いままで知らなかったことばが動きだす。見落としていたものにとこばを与え、見落とされていたものがことばといっしょに立ち上がってくる。
ひたすら緑の充実を生きる、
その直前の「静かな緑の沈黙の長くつづく」は目で見たままである。木々は話さないから「沈黙」、常緑樹であるから「緑」。ふたつがあわさって、「長くつづく」。でも「ひたすら緑の充実を生きる、」は何か違う。目ではわからない。見ているだけではわからないことが書かれている。「緑の充実」は常緑樹だから「緑」は見たままということになるけれど、「充実を生きる」というのは、うーん、見えないね。
見えないけれど、でも、わかる。瞬間的にわかる。木は生きている。花が咲いているときだけではなく、花が咲いていないときも生きている。花を咲かせるために生きている。その「生きている」が「わかる」とういのは、どういうことなのだろうか。--と、私は考えはじめる。考えはじめると、ことばが、ごちゃごちゃしてくる。
「いきる」が「わかる」--そのとき、きっと自分の「生きる」を見直し、思い出しているのである。季節がかわるのにあわせて金木犀が花を咲かせ、散らせ、また咲かせる。その花と花の間、木はただ緑を守っているだけだ。人間も何か華々しいことと華々しいことの間は、黙って生きているのに似ているかなあ。知らずに、木に自分の人生を重ねる(自分の生きるを重ねている)。無意識的に「考えている」のである。あるいは「思っている」のである。
見ているだけではわからないことを、ことばをつかって内部から見つめる、ことばをつかって内側から生きる--ということを考える。「考える」とは、ことばをつかって見えないものを見えるようにする(見えたと錯覚する)、見えない世界へ飛躍する、ということかもしれない。
で、そこまで考えたとき、
ひたすら緑の充実を生きる、
この末尾の読点「、」に気づく。おもしろいなあ。なぜ「、」なのかなあ。
3行前の「静かな緑の沈黙の長くつづく」は「、」がない。そして、そのまま「金木犀の日々がはじまる」につながる。
「ひたすら緑の充実を生きる、」はどうだろう。
「ひたすら緑の充実を生きる大きな金木犀を見るたびに考える。」とつづいていかないのだろうか。「生きる木」。「生きる」は連体形ではないのか。
あるいは、前の行とつづいて「冬から春、そして夏へ、ひたすら緑の充実を生きる。」という文として完結しないのか。
微妙だね。
どっちとも、ありうるね。
冬から春、そして夏へ、
ひたすら緑の充実を生きる「。その」、
大きな金木犀を見るたびに考える。
ということかもしれない。「切断」と「接続」を交錯させて、瞬間的に別の次元へ突き進んでしまうこと、ことばが異質になってしまうこと--それを「考える」というのかもしれないなあ。ことばが異質になることを「飛躍」と言いなおすことができる。
で、「切断/接続」のなかで「異質」が生まれると、その「異質」はさらに飛躍する。ついていけないものになる。スピードが速すぎた追いついていけない。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。
長田は何か言おうとしている。その「言おうとしている」ということは「わかる」が、「何を」言いたいのか、よくわからない。長田が考えたことは、
「生(の自由)は」行為じゃない。生の自由は存在である--ということかもしれない。ことばを補うと、そういう形になるかもしれない。
その補ったことばをたよりに、金木犀に結びつけてみる。
金木犀の生は金木犀の花(かおり)にあるのではない。金木犀の生は花がないとき、常緑樹として緑そのものを生きているときにもある。
では、その「生」が、わざわざ「生の自由」と言い換えられるのは?
考えないといけない。長田は書いているのだろうけれど、さっと読んだだけでは「生の自由」とはなんなのかわからない。
ひとは金木犀の花(香り)に注目して、甘い香りを放つという行為(動詞)を金木犀の特徴(生の特徴)と考えがちだが、それだけが金木犀の充実ではない。金木犀は香りを放って注目を集めているとき以外も生きている。緑を充実させて生きている。
生は「充実」していないといけない。
その「充実」と結びつける形で「自由」が考えられているのかもしれない。生の充実は行為じゃない。生の充実は存在なんだ。そこに存在しているということ、それだけで充実する生き方がある。
そういうことだろうか。
わからないまま、私のことばは、こんな具合に動いた。こんな具合にことばを動かすことが「考える」ということかもしれない。
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