詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子「ひろやかに雲が」、山口賀代子「街」

2014-02-24 10:18:50 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「ひろやかに雲が」、山口賀代子「街」(「左庭」27、2014年02月15日発行)

 伊藤悠子「ひろやかに雲が」は短い詩である。したがって、情報量も少ない。

直に触れてはきっといけない
布を墓石にあて
洗礼名
氏名
年月日
そして年月日
とてのひらをあてていく
そしてもどり
洗礼名
氏名

カトリック府中墓地
ただひろやかに雲があたためている
白百合を持ってきました

 カトリックの墓地で墓石にそっと触れている。磨いている(汚れを落としている)のかもしれない。手で、そこに刻まれた名前、年月日をなぞっている。そこに眠っているのがだれなのか、伊藤とどういう関係にあるのか。そういうことは一切わからない。けれど、伊藤がその人を大事に思っていることがわかる。
 「直に触れてはきっといけない」「てのひらをあてていく」という行のなかにある「動詞」が「大事」を浮かび上がらせる。
 そこに美しさがある。
 そして、最後。

白百合を持ってきました

 これがいいなあ。
 ここには明瞭な情報がある。1連目はどんな情報も持っていないのに対して、いくつかの情報がある。墓のなかで眠っているひとは「白百合」が好きだった。そして伊藤は、そのことを知っている。だから白百合を持ってきたのだ。好きな花を持ってくるということは、また伊藤がその人を大切に思っている証拠でもある。
 それ以外にも、とてもとても重要な情報がある。
 この行には、実は、動詞がふたつある。
 ひとつは「持ってくる」。これは、読めばすぐにわかる。
 もうひとつは省略されている。書かれていない。この省略された動詞の方がもっと大切で感動的だ。
 省略されているのは、「語る(語った/話しかけた)」である。
 伊藤は白百合を持ってきただけではなく、「白百合を持ってきました」とその人に語りかけているのである。語りかけるとき、その人は伊藤の目の前にいる。
 この感じが、実にあたたかで、実に美しい。

 伊藤は、いつでもだれかに語りかけているのかもしれない。語るということばをつかわずに、直に、ただ語りかけた内容だけを書く。その語りかけは、読者には関係がない。伊藤は、伊藤の向き合っている「そのひと」にだけ語りかける。それは伊藤の肉体にしみついた思想なのである。直に、その人にだけ語りかける。それでいい、というの生き方。そのときの「直(直接性)」が、いいなあ。
 この「直」を知っているからこそなのだろう。伊藤は「直に触れてはいけない」何かも知っている。直接触れながら、同時に、その直接性から身を引くこと、相手に負担をかけないという方法も知っている。
 そういう「折り目正しさ」のようなものが静かで、とても美しい。



 山口賀代子「街」にも、はっとする1行がある。

橋をわたる
左岸から右岸へ
それだけのことなのに
とおい国へいくような
とおい国からきたような

こんなところに銭湯が
と おもう
駄菓子屋が ある
(略)

ぴらぴらの菫色のワンピースがなびいている
洋品店
だれがかうのだろう
犬と婆さんしかみかけない街角で
いつのまにかなじんでいる
この街へ

 「とおい国」のようなのに、「いつのまにかなじんでいる」。この「いつのまにか」が私はとても好きだ。むりやりではなく、「いつのまにか」。その「間」は、私の「感覚の意見」では、2連目に、少し姿をあらわしている。

こんなところに銭湯が
と おもう
駄菓子屋が ある

 改行と1字空き。そこにある「間」。一瞬立ち止まり、それから、そこにあるものを「事実」として受け止める。そのときの「間合い」。強引ではなく、かといって、なげやりでもなく、ゆっくりと自分の知っているものとそこにあるものを突き合わせてみつめる感じがする。そこにあるものと山口がおぼえているものを突き合わせ、「なじませ」、なじんだものをことばにしている。銭湯も駄菓子屋も、山口がおぼえている銭湯、駄菓子屋につながっている。つなげて「間」をうめている。「間」のなかに、山口の「肉体」が入っていく--という感じがする。
 こういう言い方は「あやふや」かもしれないが……。

きたことがあったのかどうか
あやふやでもある

 「間」がなじむと、「区切り」が「あやふや」になる。そういう「こと」を山口は、きちんと書いている。そこが、ていねいでおもしろい。



ろうそく町
伊藤 悠子
思潮社
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西脇順三郎の一行(99)

2014-02-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(99)

「しほつち」

すきとおるラムネビン色の

 ふつうに書けば「すきおとるラムネのビンの色の」かもしれない。西脇の大好きな「の」がここでは2回も省略されている。不自然なことばなのかもしれないが、その不自然さがラムネのビンのまがった形と色をひとつにしている。色だけがあるのではなく、形がいっしょに、そこにある。そこにはラムネの炭酸水の透明も含まれるのかもしれないが、ラムネが入っていなくても「ラムネビン」なのだ。形と色がラムネビン。
 この全体的な結合が美しい。「の」がないことによって結合が強くなる。
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