詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

夏目美知子「出来ることなら夜空へ」ほか

2014-02-12 11:52:17 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「出来ることなら夜空へ」ほか(「乾河」69、2014年02月01日発行) 

 「乾河」の詩人たちは、だれのことばも簡潔で美しい。同じことばを動かすひとが集まったのか、集まってきて同じことばの動きをするようになったのか。
 夏目美知子「出来ることなら夜空へ」の2連目。

子供の自転車が転がる庭。植木鉢が枯れて門の外にそ
のまま出ている。不在がわかる。若い家庭だったが。
枝の先に私は止まり、消えてしまった子供達とここの
主婦を思い出している。夫が朝夕、車で出入りする気
配はある。

 「不在がわかる。」という短い文章がいい。静かな庭、倒れている自転車--そういうものをみながら、この家にはだれもいないということが、わかる。「不在」は名詞だが、その名詞のなかには「いない」という「動詞」がある。「動詞」であるから、それにつづけて「動詞」が動く。自転車に乗って子供が「遊ぶ」、子供に声をかけながら家のなか主婦が「働く」、そして朝夕は夫か車で家を「出て」、家に「帰ってくる」。
 「わかる」のは、「動詞」である。「動詞」がわかるということは、その「動詞」を意識のなかで動かすとき、夏目はその「動詞」の主語になっている。つまり、子供になって自転車に乗り、主婦になって家事をし、夫になって出勤し、夫になって帰宅している。「動詞」を動かすとき、ひとはだれでも「他人」になる。「他人」になることができる。
 「子供」「主婦」「夫」という「名詞」だけでは、自分と他人をつなくものがない。そこには「断絶(切断)」しかない。「名詞」は世界を切断(分類)し、「動詞」は世界を結びつける。
 だから、いろいろな「動詞」を経たあと、終わりから2連目で、夏目はつぎのように書く。

私は今日、つぶれたパン屋の夫婦だった。折れ曲がる
木の枝だった。オレンジ色の動かないシャッターだっ
た。風に舞う銀杏の葉っぱだった。オオヤマネコだっ
た。森の管理人だった。置き去りの自転車だった。出
ていった若い妻だった。適当な相づちを打つ薬剤師だ
った。暗い顔をした年賀状売りだった。私はオオヤマ
ネコを思って涙を止めることが出来ない。
 
 それぞれの「動詞」に自分の「肉体」を重ねる。「肉体」を重ねるというのはセックスである。つまり「気持ち」を重ねることである。それが「他人」になるということ。そして、そのとき「他人」になりながらも、夏目は夏目自身だから、複数の主語を「だった」として「ひとつ」にすることもできるのである。



冨岡郁子「忘却-兎-」の書き出しも美しい。


覚えている?
走る貨物列車の車両を数えたことを?
それは現われたかと思うと見る見るうちに迫り
こちらの方が明らかに優勢だった
なのに--
力と確かさでわたしたちを魅了し
線路脇で辛抱強く数えていた車両は
目の前を
瞬時に通りぬけ
おしまいの方は
いつも数えられなくなる

 「力と確かさ」。この抽象名詞の奥にあるのも、やはり「動詞」だろう。力は貨物列車の走る力、貨車を引っぱる力、重いもの引っぱって走るには力がいる。「わたしたち」は見ているのだが、見ながら「肉体」は何かを引っぱること、走ること--その「動作(動詞)」を繰り返している。だから、私にはそんなことはできない、なんてすごいんだ、と魅了される。
 「確かさ」もの同じ。何かをつくる。「わたしたち(こども)」のつくるものはかよわい。どんな工作もすぐにこわれてしまう。貨車のように大きな重たい箱はつくれない。貨車はこわれない。(石をぶつけたってこわれない、石をはねつける--というようなことは書いてないのだが、そふ思う。)そこには、何か巨大なものを「つくる」という「動詞」が隠れている。その「動詞」にはなれない、という思いが魅了するのだ。
 遠くにあるときは、その「名詞」も「動詞」もなんともないが、目の前に迫ると圧倒される。特に、「名詞」よりも、「動詞」に。とまっている貨車よりも「駆け抜ける」という動詞とともにある貨車に。「駆け抜ける」という「動詞」に。


私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社
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西脇順三郎の一行(87)

2014-02-12 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(87)

「壌歌 Ⅱ」

でも永遠は永遠にのこる                      (99ページ)

 同義語の繰り返しを文学はあまり好まない。同じことばの繰り返しは語彙の貧困を想像させるからだろうか。しかし西脇にはこの繰り返しが多い。
 繰り返すと意味が違ってくる。
 この詩の場合、最初の「永遠」は概念である。しかし、繰り返される「永遠」は概念ではなく、具体的な「とき」(場所のような「とき」)である。--と書いてみても、それは抽象にすぎないのだが。概念にすぎないのだが。
 概念と概念がぶつかり、その瞬間に概念以外のものがみえたように錯覚する。
 詩というのは、こういう一瞬の錯覚のことかもしれない。
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