詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ケイト・ショートランド監督「さよなら、アドルフ」(★★★)

2014-02-07 10:11:24 | 映画
監督ケイト・ショートランド 出演 サスキア・ローゼンタール、カイ・マリーナ



 アップが非常に多い作品である。ドイツ敗戦後、ヒトラーの親衛隊(?)だった父親の娘が、兄弟5人をひきつれて、ドイツのある街から別の街へ祖母を訪ねて旅をする。アップばかりなので、その「距離感」がまったくわからない。ドイツ人にはわかるかもしれないけれど、私にはドイツの地理感覚がないので、どのシーンを見ても「ここはどこ?」「どこまで来た?」がわからない。
 でも、これはわからなくていい。
 主人公にしても、「ここがどこか」ということよりも、「いま/ここ」を生きていくことだけで精一杯。祖母の家を目指すということ以外は「わからない」。
 それ以外は「わからない」と言いながら、うーん、「わかってしまう」ことがある。少女は乳飲み子をつれて逃避行をする。どう見たって乳飲み子は旅の邪魔である。乳をどうするかという大問題もある。で、母親も娘に兄弟をあずけるとき「赤ん坊は、この家の人に任せて」というようなことを言う。だが、少女は乳飲み子をつれて旅をする。
 最初は兄弟愛から、と思っていたが、単純にそうとはいえない。赤ん坊は大事にされる。それを本能的に知っている。赤ん坊がいると食料などを優先的にもらえる。そう知っていて、手放すことができない。途中で合流するユダヤ人(?)の青年も、親切心もあるが、赤ん坊がいる方がひとの助けを受けやすいということを知っていて少女たちに接近する。
 これは途中で助けをもとめた農家でのやりとりでもはっきりする。助けてくれたおばさん(おばあさん?)は赤ん坊をつれて旅するのでは赤ん坊がかわいそう。置いて行きなさい、というのだが、赤ん坊がいれば食料をもらえるからでもある。食料調達の苦労が半減する。
 みんな自分が生きることに必死で、他人になどかまっていられない。
 その世界の「全体像」が赤ん坊を中心に浮き彫りになる。赤ん坊というの絶対的な「近景」、他の人間に頼ることでしか生きていけない人間の存在が、逆に人間の世界の構造を知らせる。間接的に知らせる。直接肌に抱きしめて守るしかない人間(守られるしかない人間)が、より遠くのものを見せてくれる。
 赤ん坊は、いわばこの映画の「アップ」の象徴である。絶対的に「独立」できない存在が、その密接なつながりが、逆に全体の構造を浮かび上がらせる。
 逃避行の森の中では、「森」しか見えない。その森をどこの国が何のために、どのように支配しているか--そんなことはわからないが、何かのためにどこかの国が支配していること、人がいない森でさえ気ままに、安全には生きられないという構造を浮かび上がらせる。「いま/ここ」という「局所」こそが「全体」なのだ。
 生きるために、鰻とりをしている男を殺す。生きるために、銃撃され死んでしまった弟を森の中に置いて逃げる。--そういうこともする。そのとき、少女のこころのなかに何が起きたのか、だれも知らない。少女は、それをどんなふうに人に語っていいかわからない。ただ、何かを感じている、ということを、まるで肉体の奥をえぐるようにしてアップ、アップで迫っていく。アップを見つづけることで、少女の肉体そのものが私の肉体と重なってしまう。
 やっと祖母の家にたどりつく。そしてラストシーン間際、朝食の時間。祖母は少女たちにやさしいと同時にきびしい。パンにかってに手をのばした弟に「しつけが悪い」と叱る。一度手でさわったパンはパンかごへ戻してはダメだと叱る。そのとき少女は反抗して、パンをむしゃむしゃ食べはじめる。ミルクをわざとテーブルにこぼして、それを手で掬って飲む。織機とか行儀などというのはどうでもいい。ただ、自分の肉体ひとつで生きてきたのである。そこに食べ物があれば食べる。飲めるものがあれば飲む。手で掬う。ときには直接口をつけてすすったかもしれない。そういうことを感じさせる「肉体」と「もの」との直接的なぶつかりあい。それを乗り越えないと、生きていけないのだ。赤ん坊が乳房にしがみつくように、少女は「もの」に直接しがみついて生きてきた。兄弟たちを、「もの」に直接しがみつかせて生き抜いてきた。その姿を祖母に見せつける。祖母が、そして、そのほかの大人たちがみつめようとしないものを、肉体に視線を引きつける形で見せつける。
 アップは、カメラが少女に近づいていったからアップなのではない。少女がカメラを自分に引きつけるのである。テーブルにこぼれたミルクを手で掬い取ってなめる、なめるように飲む--というような肉体のあり方には、思わず目が吸い寄せられてしまう。そういうアップなのである。
 少女が体験してきた、この「直接性」をだれも知らない。大人はだれも知ろうとはしない。--知っているから、「知らない」と言い張ろうとするのかもしれない。「行儀」などという「間接的接触方法」を守ること--それが大人の、自分を守る方法なのかもしれないが、少女には、そこまではわからない。ただ、大人は何も知らない。大人は子供に嘘をつくだけだ、という思いを植えつける。それに対して少女は怒る。「私を見ろ」と怒る。それが「アップ」なのである。カメラは客観的に位置にあるのではない。カメラは少女の側の方にある。カメラと少女が一体になっているのが、この映画のアップなのだ。
 少女の怒り、アップの力で、そのまま観客を引き込む。アップの大きさで観客を少女の肉体の内部に飲み込み、閉じ込める。閉じ込められて、観客(私)は少女の肉体の内部に直接触れる。少女の怒り、悲しみがスクリーンからあふれ、観客に覆いかぶさる--というのではなく、少女になって、いっしょに怒りだしてしまう。--私は少女の悲しみ、怒りがわかったとは言わないが、そういう人間がいること、そしてそこで苦しんでいること、悲しんでいこと「直接」体験する。少女になってしまう。
 ラストのラスト。少女は母親が大事にしていた鹿の陶器のおもちゃ(飾り)を叩き壊す。部屋にはほかにも同じようなおもちゃがたくさんある。それを次々とこわし、最後に母親の鹿のおもちゃを床に置く。そして、足で踏み砕く。お母さんが好き、お母さんに会いたい、お母さんの宝物--そう思い大事にしてきたのだが、少女はこのとき母よりも自分を選んだのだ。母親に頼ること、大人に頼ること、ドイツの敗戦という状況をつくりだした大人に頼ることを拒絶したのだと言えるかもしれない。投げ捨てるのではなく、自分の足できちんと、「直接」砕く。投げ捨てたのでは、ものが砕けるときの感覚が肉体にはつたわってこない。足で踏んで砕くとき、足の裏から、ものの動きがじかにつたわってくる。それを「肉体」にしっかりと吸収する。その「肉体」に入ってくる感じが「アップ」なのだ。
 最後の最後になって、アップが「近づいて撮影する」ではなく、逆に引き寄せられて見つめてしまう(見つめろ--という激しい怒りの欲望だとわかる)のだが、気づけばあらゆるものが「私を見つめろ」と叫んでいる。おなかがすいて、母親ではない女の乳房にすいつく赤ん坊、鰻とりの男に胸を開きながら青年を見つめる少女の目、検閲から逃れて列車を降りて去っていく青年が列車のなかの少女を見つめる目--ドイツの少女が見た来たもののすべてを、カメラは見つめろと主張している。、
                      (2014年02月05日、KBCシネマ2)



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西脇順三郎の一行(82)

2014-02-07 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(82)

「壌歌」(Ⅱ)

よく野原にみみをすましききいると                 (94ページ)

 この行は「よく」見ると、「みみ」と「きき」と同じ音の繰り返したことばが出てくる。これを「耳」「聞き」と書くと、音ではなく意味の方が強く前に出てくる。ひらがなで書かれているので読むスピードが落ちて、「みみ」「きき」が耳に響きやすくなる。さらに、すま「し」「きき」「い」ると、と「い」の音がつながって、おとが流れているのがわかる。
 この行をはさんで、詩は「ただコホロギが鳴いている」と抽象的な会話から、自然の描写へと転換する。その転換のポイントを「聞く」という動詞、そして「音」がつくりだしているところが西脇らしいと、私は感じる。
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