新城兵一『弟または二人三脚』(あすら舎、2013年11月20日発行)
新城兵一『弟または二人三脚』を読みながら、音と肉体の関係を少し考えた。「ハミング」という作品。
「音」はたしかに「肉体(耳)」の外にある。--とは限らない。この詩が書いてるように、それが外側にあるのは耳が外側に向かって開いているからである。開いているということが、肉体と音を分ける。存在のあり方をわける。
でも、
この声はどこから聞こえてくるのか。「外側」だろうか。だれが「聞かねばならぬ」と言ったのだろうか。「耳の宿命」だと言ったのだろうか。
この声を「自分の内部」、たとえば「こころの声」と言うのは簡単だ。「常套句」である。そういう言い方は「流通言語」になっている。
新城のことばもそれに似ている。一見、そう言っているようにみえる。けれど、違ったところがある。「こころの声」を聞く--そのとき、耳はどうするのか。
「耳自身をうらがえし」。ここに新城の独自性(思想/肉体)がある。「こころの声」を聞くとき、「耳自身をうらがえす」。内側へ向けて開くというより、その開くは「裏」がえすなのだ。それも「耳自身」を「裏」がえすのである。
外側に向いていたものを内側に裏返すと、内側が外側になる。なる、というより、してしまう、かもしれない。
私はなんだか自分の肉体が別のものになってしまうような、奇妙な感覚に襲われる。そこに書いてあることが、意味として「理解」できるというよりも、「わかる」のである。耳を裏返すことはできないのだけれど、裏返る耳というものが生えてきて、その成長にあわせて世界の内部と外部が裏返る--逆転する、その感じが「わかる」。そのとき見えない「内部」が、見える(触れる、聞こえる)外部として生えてくる。にょきにょきと形になってくる。その生々しさが肉体を刺戟してくる。つまり「わかる」。それがなんだか理解できるわけではないが、そこに「ある」ということが「わかる」。肉体が刺戟される。
どうも言いきれた感じがしないので、繰り返すけれど。
「内部」が「外部」になる--というと変なのだけれど、「内部」が「外部」になるというのは、「内部」が自分より大きな空間(自分を包み込む「外部」)になるということだ。自分の「内部」に入っていくには、自分が自分より小さくならないといけないけれど(「ミクロの決死圏」みたいだね)、それは「外部」の内側に「内部」があるときであってて、「内部」と「外部」を裏返してしまう(逆転してしまう)なら、自分は小さくならずに入っていける。新城は自分の「肉体」は小さくさせずに、自分の大きさは変えずに、「耳の裏返し」にあわせて世界の構造を「裏返し」、「内部」に入っていく--言いなおすと「外部」に入っていく。
「内耳の小さな階段」の「小さな」がそんなことを感じをきちんととらえている。
もし、自分が小さくなって階段をおりていくのなら、それは「小さい」階段ではない。「ミクロの決死圏」では何もかもが巨大だ。まあ、その「巨大」なもののなかで比較すれば内耳の階段は「小さい」になるのだろうけれど、小さくなったものからは、そこにあるものは「大きな」だったり、「長い」だったりする。それが「ミクロの決死圏」の登場人物が感じるように「巨大」ではなく「小さい」と感じるのは、自分の大きさが変わらないからこそなのだ。だから、この階段は「小さい」は、「内部」ではない、つまり「外部」なのだ。「外部」である証拠、新城が自分の大きさを変えずに別の世界へ入って行ったという「証拠」なのである。
「裏返し」と「小さい」は、この詩のポイントなのである。
新城の入って行った世界が「外部」だからこそ、そこには内臓だとか、こころではなく、「水辺」がある。もちろんこの水辺を「心象風景」ととらえる見方もあるだろう。(「流通解釈」では、そうなるだろう。)でも、これは「心象」というものではなく、あくまでも「もの」なのである。「もの」としての「外部」なのである。「外部(もの)」とは「他人」でもある。「外部」では「他人(もの)」と「他人(もの)」がぶつかりあう。ときには「他人(もの)」に「自分(こころ)」がぶつかる。「もの」と「もの」はぶつかれば、たいてい「音」がする。そして、そこに特有の「音楽」がある。
そのあと、
「遠いとおい沈黙のハミング」と「おまえ」が「他人」とぶつかるときの悲鳴だ。「おまえ」の悲鳴は、痛々しい声にはならず、怒りのことばにもならず、ハミングに隠したおだやかな(静かな)音--「おまえ」は悲鳴を「ハミング」に隠してしまったのだ。
そう読み進んできて……。
ここには、ことばの不思議な「矛盾」、あるいは「ずれ」があると気づく。「矛盾」(ずれ)としかいいようのない「事実」があると「わかる」。
新城は自分の耳を裏返し、自分の肉体のなかへおりてゆく。そうすると、そこには水辺があって、その水の音が聞こえてくる。ところが、それは新城自身の音楽ではなく、「おまえの/遠いとおい沈黙のハミング」。
新城は、自分の「肉体」のなかへ降りて行ったのではなく、「おまえ(弟)」の「肉体」のなかへ降りて行った。--この「肉体」の転換は、私がさっき書いたように、耳を裏返すことで肉体そのものが裏返り、内へ降りていくことは「外部」へ出て行くことだということにつながる。
そして、このとき、新城は「おまえ(弟)」の「肉体」そのものになっている。新城は自分の肉体ではなく、弟の肉体を発見している。弟が、自分がそうしたのと同じように、耳を裏返して自分の「沈黙のハミング」を聞いていたということを「わかる」。自分の悲鳴を聞いて苦しくなった「おまえ」がいる。悲鳴は「他人」に自分の苦しみを知らせるためのものだが、「おまえ」はそれを「内部」に隠して「沈黙」してしまった。その「沈黙」の「ハミング」が「外から」聞こえるのではなく、「内部から」新城には聞こえる。新城にとって「内側」とは「外側」であり、「外側」とは「内側」なのだ。
うまく、言えない。うまく書けない。
「内部」「外部」は区別がなくなり、新城と「おまえ(弟)」が「ひとり」になって苦悩している。弟の沈黙のハミングは弟がことばにできなかったもの。そして、それは弟がいなかったら新城もことばにすることはなかったものである。耳を裏返し、自分の声を聞くということも、新城はことばにすることができなかった、しようとは思わなかっただろう。
「外側の音」に苦しんでいた弟の「内部」、その「内部」を「外部」をつかみとるように、手触りのあるものとして「肉体」で感じ取ってしまった新城。
新城がこの詩を書いているのではない。弟が書かせているのだ。
新城兵一『弟または二人三脚』を読みながら、音と肉体の関係を少し考えた。「ハミング」という作品。
耳はいつも
そとがわへばかり
つねにその卵形の耳殻をひらき
決して閉じることがない。
だから いつまでも黙ったままで
聞かねばならぬ。それが耳の宿命。
「音」はたしかに「肉体(耳)」の外にある。--とは限らない。この詩が書いてるように、それが外側にあるのは耳が外側に向かって開いているからである。開いているということが、肉体と音を分ける。存在のあり方をわける。
でも、
だから いつまでも黙ったままで
聞かねばならぬ。それが耳の宿命。
この声はどこから聞こえてくるのか。「外側」だろうか。だれが「聞かねばならぬ」と言ったのだろうか。「耳の宿命」だと言ったのだろうか。
この声を「自分の内部」、たとえば「こころの声」と言うのは簡単だ。「常套句」である。そういう言い方は「流通言語」になっている。
新城のことばもそれに似ている。一見、そう言っているようにみえる。けれど、違ったところがある。「こころの声」を聞く--そのとき、耳はどうするのか。
耳はいっきょに耳自身をうらがえし
内部のぶあつい闇の向こうへ
かわいいラッパのようにひらいてゆけるか。
「耳自身をうらがえし」。ここに新城の独自性(思想/肉体)がある。「こころの声」を聞くとき、「耳自身をうらがえす」。内側へ向けて開くというより、その開くは「裏」がえすなのだ。それも「耳自身」を「裏」がえすのである。
外側に向いていたものを内側に裏返すと、内側が外側になる。なる、というより、してしまう、かもしれない。
私はなんだか自分の肉体が別のものになってしまうような、奇妙な感覚に襲われる。そこに書いてあることが、意味として「理解」できるというよりも、「わかる」のである。耳を裏返すことはできないのだけれど、裏返る耳というものが生えてきて、その成長にあわせて世界の内部と外部が裏返る--逆転する、その感じが「わかる」。そのとき見えない「内部」が、見える(触れる、聞こえる)外部として生えてくる。にょきにょきと形になってくる。その生々しさが肉体を刺戟してくる。つまり「わかる」。それがなんだか理解できるわけではないが、そこに「ある」ということが「わかる」。肉体が刺戟される。
たとえば 濁った音に震えつつ
かすかに反り返る鼓膜の渚をこえ
内耳の小さな骨の階段をおりていく。
するとほら そこが渦巻き状の
澄みきって細かくひかる水辺。
水がひたひたと無数の茎をひたし
微妙な音楽を奏でるところだ。
どうも言いきれた感じがしないので、繰り返すけれど。
「内部」が「外部」になる--というと変なのだけれど、「内部」が「外部」になるというのは、「内部」が自分より大きな空間(自分を包み込む「外部」)になるということだ。自分の「内部」に入っていくには、自分が自分より小さくならないといけないけれど(「ミクロの決死圏」みたいだね)、それは「外部」の内側に「内部」があるときであってて、「内部」と「外部」を裏返してしまう(逆転してしまう)なら、自分は小さくならずに入っていける。新城は自分の「肉体」は小さくさせずに、自分の大きさは変えずに、「耳の裏返し」にあわせて世界の構造を「裏返し」、「内部」に入っていく--言いなおすと「外部」に入っていく。
「内耳の小さな階段」の「小さな」がそんなことを感じをきちんととらえている。
もし、自分が小さくなって階段をおりていくのなら、それは「小さい」階段ではない。「ミクロの決死圏」では何もかもが巨大だ。まあ、その「巨大」なもののなかで比較すれば内耳の階段は「小さい」になるのだろうけれど、小さくなったものからは、そこにあるものは「大きな」だったり、「長い」だったりする。それが「ミクロの決死圏」の登場人物が感じるように「巨大」ではなく「小さい」と感じるのは、自分の大きさが変わらないからこそなのだ。だから、この階段は「小さい」は、「内部」ではない、つまり「外部」なのだ。「外部」である証拠、新城が自分の大きさを変えずに別の世界へ入って行ったという「証拠」なのである。
「裏返し」と「小さい」は、この詩のポイントなのである。
新城の入って行った世界が「外部」だからこそ、そこには内臓だとか、こころではなく、「水辺」がある。もちろんこの水辺を「心象風景」ととらえる見方もあるだろう。(「流通解釈」では、そうなるだろう。)でも、これは「心象」というものではなく、あくまでも「もの」なのである。「もの」としての「外部」なのである。「外部(もの)」とは「他人」でもある。「外部」では「他人(もの)」と「他人(もの)」がぶつかりあう。ときには「他人(もの)」に「自分(こころ)」がぶつかる。「もの」と「もの」はぶつかれば、たいてい「音」がする。そして、そこに特有の「音楽」がある。
そのあと、
だから 耳を反転させ内側にひらき
深夜の敏感なアンテナになると
聞こえてくるのだ きょうも。
もう歌わなくなったおまえの
遠いとおい沈黙のハミング。
「遠いとおい沈黙のハミング」と「おまえ」が「他人」とぶつかるときの悲鳴だ。「おまえ」の悲鳴は、痛々しい声にはならず、怒りのことばにもならず、ハミングに隠したおだやかな(静かな)音--「おまえ」は悲鳴を「ハミング」に隠してしまったのだ。
そう読み進んできて……。
ここには、ことばの不思議な「矛盾」、あるいは「ずれ」があると気づく。「矛盾」(ずれ)としかいいようのない「事実」があると「わかる」。
新城は自分の耳を裏返し、自分の肉体のなかへおりてゆく。そうすると、そこには水辺があって、その水の音が聞こえてくる。ところが、それは新城自身の音楽ではなく、「おまえの/遠いとおい沈黙のハミング」。
新城は、自分の「肉体」のなかへ降りて行ったのではなく、「おまえ(弟)」の「肉体」のなかへ降りて行った。--この「肉体」の転換は、私がさっき書いたように、耳を裏返すことで肉体そのものが裏返り、内へ降りていくことは「外部」へ出て行くことだということにつながる。
そして、このとき、新城は「おまえ(弟)」の「肉体」そのものになっている。新城は自分の肉体ではなく、弟の肉体を発見している。弟が、自分がそうしたのと同じように、耳を裏返して自分の「沈黙のハミング」を聞いていたということを「わかる」。自分の悲鳴を聞いて苦しくなった「おまえ」がいる。悲鳴は「他人」に自分の苦しみを知らせるためのものだが、「おまえ」はそれを「内部」に隠して「沈黙」してしまった。その「沈黙」の「ハミング」が「外から」聞こえるのではなく、「内部から」新城には聞こえる。新城にとって「内側」とは「外側」であり、「外側」とは「内側」なのだ。
うまく、言えない。うまく書けない。
「内部」「外部」は区別がなくなり、新城と「おまえ(弟)」が「ひとり」になって苦悩している。弟の沈黙のハミングは弟がことばにできなかったもの。そして、それは弟がいなかったら新城もことばにすることはなかったものである。耳を裏返し、自分の声を聞くということも、新城はことばにすることができなかった、しようとは思わなかっただろう。
「外側の音」に苦しんでいた弟の「内部」、その「内部」を「外部」をつかみとるように、手触りのあるものとして「肉体」で感じ取ってしまった新城。
新城がこの詩を書いているのではない。弟が書かせているのだ。
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