詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

振り返ると、

2014-02-25 11:04:03 | 
振り返ると、

歩いてきた歩道は振り返るとアメリカスズカケの根元が暗くなった。
風が出てきたのか、自転車店のウインドーで光と影が散らばった。
もう昔のことになってしまうが、開いた自動扉の右と左ですれ違いざまに振り返った。
その出会いとは違う場所で、どこでだったか忘れてしまったが、
互いに振り返る姿をみつめあって別れてしまった。



詩は以下のURLで書いています。
https://www.facebook.com/pages/%E8%B1%A1%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%AE%A4/118161841615735

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山本純子「一日いちど」ほか

2014-02-25 09:50:05 | 詩(雑誌・同人誌)
山本純子「一日いちど」ほか(「息のダンス」11、2014年03月01日発行)

 山本純子の詩は読んでいて「声」が聞こえる。その声は谷川俊太郎の書いている「声」とはかなり違う。「かっぱらっぱかっぱらった」のような、「音」を聞かせるぞ、という「意図」のようなものが少ない。自然に、そうなるまで待っていた、という感じがする。「楽しんでいる」という感じが、そのぶん少ないのだけれど、その「少なさ」が不思議と気持ちがいい。
 「一日いちど」の全行。

一日いちど
あちこちの
しらない人のことを
かんがえる

みんな、あしたも
きげんがいいか

よる
天気よほうをみる
だけだけれど

 天気予報を見ながら、知らない土地の知らない人のことをちょっと思う。そういうことを書いているだけなのだけれど。なぜか、何度も読んでしまった。
 1連目の「しらない人のことを」がとても印象に残る。違った「音」が聞こえてくるような感じがする。
 よく読むと(よく見ると?)、1行目は「い」の音が多い。2行目は「あ」の音が大岩家ではないが、1行目の「い」に対して「あ」の音が印象的だ。3行目は、ある意味では「い」の音がたくさん出てくるのだけれど、「い」単独ではひとつ。あとは「し」「ひ」と微妙な子音が前についている。すごく弱い音だねえ。その「弱さ」に何か引き込まれる感じがする。そして4行目「かんがえる」でまた「あ」が明るく響くので、よけいに3行目の「し」「ひ」の子音の弱さが際立つ。
 2連目の「きげんがいいか」は「意味」的に飛躍があるのだけれど、なるほどなあ、そういうことを考えていたのか、と3連目で納得する。
 そして、この「きげん」なのだが、何度も何度も口のなかでころがして見つけたんだろうなあ。「天気がいい」に似たことばってないかなあ。「元気がいい」、ちょっと違うなあ。「気分がいいか」これも違う。「きげんがいいか」。なんとなく、これがぴったり。「きげん」は「きぶん」よりも天気屋という感じもするねえ。
 茶の間で(いまでもあるんだろうか)、そんなことを口走って、そのあとで3連目のように、ちょっと「いいわけ」をする。このリズム、意識のリズムが、そこに「人間」を浮かび上がらせる。
 山本は「少年詩篇」というくくりで書いているのだが、そうだね、ちょっとだけ「おしゃま」な少年、少し大人ぶっている少年の意識と肉体のリズムが、ここにあると思う。山本は谷川俊太郎とはまた違った耳で、他人の「呼吸」のようなもの、「息」のようなものをつかみとり、それを自分の「肉体」をとおして確かめているのだろうなあ。
 なぜだかわからないが、時間をかけて、それが生まれてくるのを待ってことばにした、という印象がある。谷川も時間をかけるのだろうけれど、その時間のかけ方は、谷川自身の内部での時間。山本は、他人がそれを発見するまで待っているという時間--そういう違いがあると思う。

 「はおと」も気持ちがいい。

ぶんぶんと
はおとのおおきい
むしがとぶ

しーんと
はおとのちいさい
むしがとぶ

ひとに
きこえる
きこえない

きこえた?

むしのはーとが
はおとをたてて
とんでいく

 最後の連の「はーと」を「はあと」と書き直してみたい気持ちに襲われる。「はあと」「はおと」と繰り返しながら、小さな虫になってしまう。そうか、あれは羽根の音ではなくて「はあと(心臓)」の小さな小さな音だったのか。
 ほんの少しの思いつき(?)なのだろうけれど、「はおと」と「はあと」が似てるなあ、と気づくまで、そてその気づいたことを、こんなふうにことばにするまで、少年なら(少女なら)、ずいぶん口のなかでことばを転がしたんだろうなあ。そういうことがなんとなく想像される。そういう印象が、なぜか、私の「肉体」をくすぐる。
 谷川俊太郎のことば遊び歌を読むと私はこどもになってしまうが、山本の詩を読むとこどもを見守っているおとなになって、あ、こどもはかわいいなあ、こどもの息はおもしろいなあ、と思う。
 そういう違いがある。

あまのがわ―詩集
山本 純子
花神社
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西脇順三郎の一行(100 )

2014-02-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(100 )

「ヒルガオ」

漢人は「セン」といつて心の中で反動する             ( 110ページ)

 この作品も長いので1ページ1行を選んでみる。
 「セン」は「ヒルガオ」の中国語(?)の呼び方。このあと、ミルトン、ランボー、羅馬人、希人は「ヒルガオ」をどう呼ぶかが書かれていく。「音」がカタカナで再現される。どのように描写しているか、ということだけではなく、必ず「音」が書かれている。このことは、西脇が「もの(対象)」そのものに対して接近しているだけではなく、必ず「音」として「もの」を把握していることを意味するだろう。
 この詩には、たとえば「あの花のうすもも色は/地球上何属にも見られない/薄暮の最高の哀愁の色だ」というような行があるので、西脇が「絵画的詩人」であるというふうにとらえる人もいると思う。
 私は、そういうイメージの結晶のような部分よりも、「音」を手がかりに散らばっていくイメージの方が西脇の本質であると思う。イメージを固定化するのではなく、壊していく。乱していく。そういう部分が好きだ。乱調のなかで、乱調を越えて輝く美しさが好きだ。
コメント (1)
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