山本純子「一日いちど」ほか(「息のダンス」11、2014年03月01日発行)
山本純子の詩は読んでいて「声」が聞こえる。その声は谷川俊太郎の書いている「声」とはかなり違う。「かっぱらっぱかっぱらった」のような、「音」を聞かせるぞ、という「意図」のようなものが少ない。自然に、そうなるまで待っていた、という感じがする。「楽しんでいる」という感じが、そのぶん少ないのだけれど、その「少なさ」が不思議と気持ちがいい。
「一日いちど」の全行。
一日いちど
あちこちの
しらない人のことを
かんがえる
みんな、あしたも
きげんがいいか
よる
天気よほうをみる
だけだけれど
天気予報を見ながら、知らない土地の知らない人のことをちょっと思う。そういうことを書いているだけなのだけれど。なぜか、何度も読んでしまった。
1連目の「しらない人のことを」がとても印象に残る。違った「音」が聞こえてくるような感じがする。
よく読むと(よく見ると?)、1行目は「い」の音が多い。2行目は「あ」の音が大岩家ではないが、1行目の「い」に対して「あ」の音が印象的だ。3行目は、ある意味では「い」の音がたくさん出てくるのだけれど、「い」単独ではひとつ。あとは「し」「ひ」と微妙な子音が前についている。すごく弱い音だねえ。その「弱さ」に何か引き込まれる感じがする。そして4行目「かんがえる」でまた「あ」が明るく響くので、よけいに3行目の「し」「ひ」の子音の弱さが際立つ。
2連目の「きげんがいいか」は「意味」的に飛躍があるのだけれど、なるほどなあ、そういうことを考えていたのか、と3連目で納得する。
そして、この「きげん」なのだが、何度も何度も口のなかでころがして見つけたんだろうなあ。「天気がいい」に似たことばってないかなあ。「元気がいい」、ちょっと違うなあ。「気分がいいか」これも違う。「きげんがいいか」。なんとなく、これがぴったり。「きげん」は「きぶん」よりも天気屋という感じもするねえ。
茶の間で(いまでもあるんだろうか)、そんなことを口走って、そのあとで3連目のように、ちょっと「いいわけ」をする。このリズム、意識のリズムが、そこに「人間」を浮かび上がらせる。
山本は「少年詩篇」というくくりで書いているのだが、そうだね、ちょっとだけ「おしゃま」な少年、少し大人ぶっている少年の意識と肉体のリズムが、ここにあると思う。山本は谷川俊太郎とはまた違った耳で、他人の「呼吸」のようなもの、「息」のようなものをつかみとり、それを自分の「肉体」をとおして確かめているのだろうなあ。
なぜだかわからないが、時間をかけて、それが生まれてくるのを待ってことばにした、という印象がある。谷川も時間をかけるのだろうけれど、その時間のかけ方は、谷川自身の内部での時間。山本は、他人がそれを発見するまで待っているという時間--そういう違いがあると思う。
「はおと」も気持ちがいい。
ぶんぶんと
はおとのおおきい
むしがとぶ
しーんと
はおとのちいさい
むしがとぶ
ひとに
きこえる
きこえない
きこえた?
と
むしのはーとが
はおとをたてて
とんでいく
最後の連の「はーと」を「はあと」と書き直してみたい気持ちに襲われる。「はあと」「はおと」と繰り返しながら、小さな虫になってしまう。そうか、あれは羽根の音ではなくて「はあと(心臓)」の小さな小さな音だったのか。
ほんの少しの思いつき(?)なのだろうけれど、「はおと」と「はあと」が似てるなあ、と気づくまで、そてその気づいたことを、こんなふうにことばにするまで、少年なら(少女なら)、ずいぶん口のなかでことばを転がしたんだろうなあ。そういうことがなんとなく想像される。そういう印象が、なぜか、私の「肉体」をくすぐる。
谷川俊太郎のことば遊び歌を読むと私はこどもになってしまうが、山本の詩を読むとこどもを見守っているおとなになって、あ、こどもはかわいいなあ、こどもの息はおもしろいなあ、と思う。
そういう違いがある。