倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』(2)(思潮社、2014年02月25日発行)
詩は不思議なもので、なぜその詩が好きなのかわからない。いや、好きなところはわかっているのだが、そこが好きと言って、他人にわかってもらえるかどうかわからない。書いた詩人に対しても、ここが好きというと変な顔をするだろうなあ、と思うことがある。たとえば「足裏に汗が」。
これが詩の前半。「おばば」の出てくる詩は何か「物語」を隠しているような感じがする。死の匂いもする。で、この詩--いちばん印象的なのはどこか。私の場合、
これである。
読みながら、あ、このことばについて感想を書きたい、と思った。あ、ここに倉橋がいると思ったのである。「おばば」が出てきて、なにやら、ありそうでなさそうな、どこか記憶をひっかきまわすような「物語」は、倉橋には申し訳ないが、一連の作品だなあという印象のなかに消えていく。私は「物語」あるいは「寓意」というものに関心をもちつづけることができないのかもしれない。ストーリーのなかで、ストーリーとは別の「現実」を考えるというのがめんどうくさいのかもしれない。
で、「いつのまにか」。
これはいったい何だろうなあ。いや、「意味」ならわかる。わかっているつもりである。「いつ」とはっきり自覚できないうちに、知らないうちに、ということだろう。でも、やっぱり、これは何なのだろうとつまずいてしまう。言い換えると--「いつのまにか」というのは、必要なことば? 「いつのまにか」がないと「意味」はかわる? 「寓意」はかわる?
私には、かわらないように感じる。
と、同時に、倉橋の書いている「いつのまにか」は、そこにだけ姿を見せているけれど、ほかにも隠れていると感じてしまう。
たとえば、
という具合。
うたた寝をするふりをしていたら「いつのまにか」というのは「流通言語」的には不自然な表現になる。ふつうは、うたた寝をするふりをしていたら「そのとき」という感じになるのだと思う。何かをしているとき、その「とき」に重なるように別なものがあらわれて、それに気がつく--それが「いつのまにか」(知らないうちに)ということになると思う。
で、その何か(A)をしている間に、別の何か(B)が起きていて、それが意識できないうちにAとBがいれかわる。意識しなかった「運動」があらわれて、意識をすりかえてしまう。
この「すりかえ(?)」こそが倉橋の書きたいものなんだなあと感じるのである。
その極端な例が「空腹になる」と「淫蕩になる」のすりかえ、あるいは移行。「空腹になる」というのと「淫蕩になる」というのは別なことである。食欲と性欲は違った名前で呼ばれるのだから違った欲望のはずであるけれど、どこかでつながっていて、それが入れ替わる。「いつ」とは言えない。「いつのまにか」としか言えない。そこに人間の「秘密」がある。「いのち」の秘密がある。
倉橋は、そんなふうに感じているんだなあ、と私は「誤読」する。こういう瞬間、私はひとに触れたような奇妙な生々しさを感じる。「肉体」にじかに触れてしまったような、こまったなあ、という感じ。気がつかなかったふりをして去っていけばいいのかもしれないけれど、あ、ここを触りつづけるとおもしろいかも、なんて思ってしまう。人間の、へんなところに触れることができるぞ、と好奇心を駆り立てられてしまうのである。セックスをする感じ。他人の「肉体」に触れながら、自分の「肉体」を発見する。欲望を発見する感じだなあ。
そうか。人間というのは、かならずしも意識的に生きられるわけではなく、知らないうちに何かと入れ替わる。「いつのまにか」そうなってしまう、ということがあるのだな。そして、「いつのまにか」何か違ったものになるのだけれど、それは切断されない。どこまでいっても、何かがつづいている。その何かは、まあ、「肉体」なのだけれど……。ふーん、と思ってしまうのである。
この「いつのまにか」。ほかのことばでは何というのだろう。私は「知らないうちに」というようなことばで考え直してみたが、倉橋は、ほかのことばで言いなおしていないだろうか。
このぽつんと書かれた一行。それが「いつのまにか」に似ていると私には感じられる。一方で何かを「思い」、他方で別のことをする。おばばが呼んでくれたはずと思いながら、「辺りを見渡す」。そのとき、思考(思う)と見渡すという運動が「肉体」のなかで出会い、すれ違っている。そして「いつのまにか」仕方がないから正座するか、うたた寝するかと「思い」がかわっていく。「思いながら」のなかには(奥には?)、「いつのまにか」とつながるものがある。
いや、「ながら」のなかに、「いつのまにか」があるのかな?
「いつのまにか」は必ず「……していたら、いつのまにか」という具合の「文体」を動くものなのかな? たぶん、そうなのだと思う。
そうだとして、倉橋の場合、その「……していたら、いつのまにか」が明確になるのは、この詩でわかるように「思いながら」である。倉橋は、「思う」ということと「肉体」のすれ違い、そこからはじまる奇妙な変化(寓話的な変化)へと動いていくんだなあ。
で、ここから私は一気に「飛躍」するのだが。(私は眼が悪くて、パソコンに向かっている時間が40分を越えると、文字が読みづらくなり、考えることも端折ってしまうのである。休憩すると、その間に考えも変わってしまうので、中断もできないから「飛躍」するのだが。)
倉橋の「いつのまにか」には、もうひとつ特徴がある。「いつのまにか……している」というとき、ふつうは、その「いつ」というのは「過去」なのだが、倉橋の場合は「過去」に時間が限定されない。「未来」を含んでいる。「未来」への持続を含んでいる。まあ、考えてみれば、どういうことでも持続の先に「未来」があるのだから、だれの場合でも「いつのまにか」は「未来」を含むだろうけれど、倉橋の「いつのまにか」は、「いつのまにか……している」、だからそれをやめてもとに戻る、ということをしない。「いつのまにか……している」。そして、その「……している」をさらにつづけて、また「いつのまにか……する」とつながっていく。けっして、新たにはじめたことをやめて「過去へ戻る」ということはしない。
その結果(?)、とても奇妙なことが起きる。
「いつのまにか」が「一瞬」ではなく、「永遠」になる。言い換えると「いつのまにか」という運動だけが「いま」として居すわる。拡大し、何もかもをのみこむ。そういう運動をする。「いつのまにか」のなかで、俳句でいう遠心・求心が出会い、無限になる、という感じだ。
「足裏に汗が」は詩の半分しか引用しなかったが、そこに起きていることは「過去」なのか「いま」なのか「未来」なのかわからない--時制が消え、そこに時制のない時空間が、つまり「永遠」があらわれる。「時制のなさ」が本質なのに、それでは形が定まらないので、倉橋は「寓話」という形式を借りているのだろう。
そして、と急に追加しておくと。
きのう書いた「ずるずる」というのは、きょう書いた「いつのまにか」の区切りのなさと、どとかつながっている。「延長」、区切りなくのびてゆき、その「のびる」(拡大する?)「こと」のなかに、倉橋の書いている「世界」があるのだと思う。
(また、駆け足の、しり切れとんぼのような感想になってしまった。)
詩は不思議なもので、なぜその詩が好きなのかわからない。いや、好きなところはわかっているのだが、そこが好きと言って、他人にわかってもらえるかどうかわからない。書いた詩人に対しても、ここが好きというと変な顔をするだろうなあ、と思うことがある。たとえば「足裏に汗が」。
飯(いい)だといわれて
厨(くりや)にいったら
膳の上には砂を盛った朱塗りの椀があって
長い唐(から)箸が挿してある
ひと気がなくて
梁からは雫が落ちている
たしかにおばばが呼んでくれたはずなのに
と思いながら
辺りを見渡して
仕方がないので膳の前に正座して
うたた寝をするふりをしていたら
箸が木に成長したら風呂に入れ
と今度ははっきり背後からおばばの声がした
といって相変わらずひと気はない
ただ雫の落ちる辺りからは
いつのまにか味噌汁の匂いがする
嗅いでいると
空腹にもなり淫蕩にもなってきた
これが詩の前半。「おばば」の出てくる詩は何か「物語」を隠しているような感じがする。死の匂いもする。で、この詩--いちばん印象的なのはどこか。私の場合、
いつのまにか
これである。
読みながら、あ、このことばについて感想を書きたい、と思った。あ、ここに倉橋がいると思ったのである。「おばば」が出てきて、なにやら、ありそうでなさそうな、どこか記憶をひっかきまわすような「物語」は、倉橋には申し訳ないが、一連の作品だなあという印象のなかに消えていく。私は「物語」あるいは「寓意」というものに関心をもちつづけることができないのかもしれない。ストーリーのなかで、ストーリーとは別の「現実」を考えるというのがめんどうくさいのかもしれない。
で、「いつのまにか」。
これはいったい何だろうなあ。いや、「意味」ならわかる。わかっているつもりである。「いつ」とはっきり自覚できないうちに、知らないうちに、ということだろう。でも、やっぱり、これは何なのだろうとつまずいてしまう。言い換えると--「いつのまにか」というのは、必要なことば? 「いつのまにか」がないと「意味」はかわる? 「寓意」はかわる?
私には、かわらないように感じる。
と、同時に、倉橋の書いている「いつのまにか」は、そこにだけ姿を見せているけれど、ほかにも隠れていると感じてしまう。
たとえば、
辺りを見渡して
仕方がないので膳の前に正座して
うたた寝をするふりをしていたら「いつのまにか」
箸が木に成長したら風呂に入れ
と今度ははっきり背後からおばばの声がした
嗅いでいると「いつのまにか」
空腹にもなり「いつのまにか」淫蕩にもなってきた
という具合。
うたた寝をするふりをしていたら「いつのまにか」というのは「流通言語」的には不自然な表現になる。ふつうは、うたた寝をするふりをしていたら「そのとき」という感じになるのだと思う。何かをしているとき、その「とき」に重なるように別なものがあらわれて、それに気がつく--それが「いつのまにか」(知らないうちに)ということになると思う。
で、その何か(A)をしている間に、別の何か(B)が起きていて、それが意識できないうちにAとBがいれかわる。意識しなかった「運動」があらわれて、意識をすりかえてしまう。
この「すりかえ(?)」こそが倉橋の書きたいものなんだなあと感じるのである。
その極端な例が「空腹になる」と「淫蕩になる」のすりかえ、あるいは移行。「空腹になる」というのと「淫蕩になる」というのは別なことである。食欲と性欲は違った名前で呼ばれるのだから違った欲望のはずであるけれど、どこかでつながっていて、それが入れ替わる。「いつ」とは言えない。「いつのまにか」としか言えない。そこに人間の「秘密」がある。「いのち」の秘密がある。
倉橋は、そんなふうに感じているんだなあ、と私は「誤読」する。こういう瞬間、私はひとに触れたような奇妙な生々しさを感じる。「肉体」にじかに触れてしまったような、こまったなあ、という感じ。気がつかなかったふりをして去っていけばいいのかもしれないけれど、あ、ここを触りつづけるとおもしろいかも、なんて思ってしまう。人間の、へんなところに触れることができるぞ、と好奇心を駆り立てられてしまうのである。セックスをする感じ。他人の「肉体」に触れながら、自分の「肉体」を発見する。欲望を発見する感じだなあ。
そうか。人間というのは、かならずしも意識的に生きられるわけではなく、知らないうちに何かと入れ替わる。「いつのまにか」そうなってしまう、ということがあるのだな。そして、「いつのまにか」何か違ったものになるのだけれど、それは切断されない。どこまでいっても、何かがつづいている。その何かは、まあ、「肉体」なのだけれど……。ふーん、と思ってしまうのである。
この「いつのまにか」。ほかのことばでは何というのだろう。私は「知らないうちに」というようなことばで考え直してみたが、倉橋は、ほかのことばで言いなおしていないだろうか。
と思いながら
このぽつんと書かれた一行。それが「いつのまにか」に似ていると私には感じられる。一方で何かを「思い」、他方で別のことをする。おばばが呼んでくれたはずと思いながら、「辺りを見渡す」。そのとき、思考(思う)と見渡すという運動が「肉体」のなかで出会い、すれ違っている。そして「いつのまにか」仕方がないから正座するか、うたた寝するかと「思い」がかわっていく。「思いながら」のなかには(奥には?)、「いつのまにか」とつながるものがある。
いや、「ながら」のなかに、「いつのまにか」があるのかな?
「いつのまにか」は必ず「……していたら、いつのまにか」という具合の「文体」を動くものなのかな? たぶん、そうなのだと思う。
そうだとして、倉橋の場合、その「……していたら、いつのまにか」が明確になるのは、この詩でわかるように「思いながら」である。倉橋は、「思う」ということと「肉体」のすれ違い、そこからはじまる奇妙な変化(寓話的な変化)へと動いていくんだなあ。
で、ここから私は一気に「飛躍」するのだが。(私は眼が悪くて、パソコンに向かっている時間が40分を越えると、文字が読みづらくなり、考えることも端折ってしまうのである。休憩すると、その間に考えも変わってしまうので、中断もできないから「飛躍」するのだが。)
倉橋の「いつのまにか」には、もうひとつ特徴がある。「いつのまにか……している」というとき、ふつうは、その「いつ」というのは「過去」なのだが、倉橋の場合は「過去」に時間が限定されない。「未来」を含んでいる。「未来」への持続を含んでいる。まあ、考えてみれば、どういうことでも持続の先に「未来」があるのだから、だれの場合でも「いつのまにか」は「未来」を含むだろうけれど、倉橋の「いつのまにか」は、「いつのまにか……している」、だからそれをやめてもとに戻る、ということをしない。「いつのまにか……している」。そして、その「……している」をさらにつづけて、また「いつのまにか……する」とつながっていく。けっして、新たにはじめたことをやめて「過去へ戻る」ということはしない。
その結果(?)、とても奇妙なことが起きる。
「いつのまにか」が「一瞬」ではなく、「永遠」になる。言い換えると「いつのまにか」という運動だけが「いま」として居すわる。拡大し、何もかもをのみこむ。そういう運動をする。「いつのまにか」のなかで、俳句でいう遠心・求心が出会い、無限になる、という感じだ。
「足裏に汗が」は詩の半分しか引用しなかったが、そこに起きていることは「過去」なのか「いま」なのか「未来」なのかわからない--時制が消え、そこに時制のない時空間が、つまり「永遠」があらわれる。「時制のなさ」が本質なのに、それでは形が定まらないので、倉橋は「寓話」という形式を借りているのだろう。
そして、と急に追加しておくと。
きのう書いた「ずるずる」というのは、きょう書いた「いつのまにか」の区切りのなさと、どとかつながっている。「延長」、区切りなくのびてゆき、その「のびる」(拡大する?)「こと」のなかに、倉橋の書いている「世界」があるのだと思う。
(また、駆け足の、しり切れとんぼのような感想になってしまった。)
詩が円熟するとき―詩的60年代環流 | |
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