詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(番外)

2014-02-09 15:06:48 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(番外)

 きょうの読売新聞日曜版の「名言巡礼」に西脇の詩が取り上げられている。

(覆された宝石)のやうな朝

 詩はどう読んでもかってなものであるけれど、「名言巡礼」の筆者(前田恭二)の書いていることについては、いくつか疑問がある。そのことを書いて置きたい。

1行目は早朝の光を宿し、詩史にも燦然と輝くが、とはいえ理屈で分かろうとすると、難しい。
 覆された宝石とは、つまり光の充満した宝石をめくり返し、内部の光を一面に放ったということか--と独り合点したこともあるが、調べてみると、この思いつきはたちまち覆される。
 実は英国の詩人、キーツの物語詩にある「an upturn'd gem 」の引用なのだという。

 私がまったくわからないのが「理屈で分かろうとする」という態度。それから「調べてみると」という態度。
 詩は「理屈」で分かることではないだろう。また、「調べて」分かることでもないだろう。「理屈」は、まだ自分で考える(自分の知っていることを点検する)ことだから、それが「独り合点」という美しさにたどりつくが、「調べてみる」というのは、いったい何だろう。
 と、他人を批判するより、私の考えを書いた方が早いか。

 私もこの行は好きだ。好きだけれど、「西脇の一行」を書きはじめるときに、それを取り上げなかった。理由は簡単である。私は「覆された宝石」を見たことがないからである。「宝石」そのものを見たことがない。日本語には単数・複数の区別がないから、私はこの「宝石」を複数と思って読んだ。宝石箱に入っているいくつもの宝石。それがひっくり返される。「宝石」が覆されるのではなく、宝石箱が覆され、撒き散らされた宝石。光の乱反射。そういうものを想像した。そして、想像しながら、この「想像」は私にとっては嘘だとわかった。実感がともなわない。何の感想も動かない。美しいとは思わない。思えない。宝石と美しさを結びつけて体験したことがないからである。
 「覆された宝石」という「比喩」から私が実感できるのは「覆された」ということだけである。「覆す」という動詞がもっている乱暴(暴力)の汚さ(?)。覆されたものは、ばらばら(散らばっている)で、まあ、美しいとはいえない。ちゃぶ台(もう、どの家庭にもないけれど)が覆される。ひっくり返される。そうするとご飯だの、味噌汁だの、漬物だのが、その辺にぶちまけられる。散らばる。「覆される」とは、私にはそういう状態であり、これなら知っている。それは美しくない。
 その美しくないものが「宝石」という私の知らない美しいものと結びつけられて書かれている。そうか。そういう乱暴(暴力)と美というのは、どこかで結びつくのかもしれない。そういう未体験の美がここにある。それに対して衝撃は受けるが、これはあくまで「理屈」で考えたことであって、宝石が覆されたとき、それがどんなものか私は知らない。だから、その知らないものについては、私はそれ以上感想は書かない。
 いまでも、私は「覆された宝石」は見たことがない。宝石箱も見たことはない。貴金属点で宝石は見たことがあるけれど、それが「覆された」状態は、やはり未体験。何もいえない。だから、何も考えない。
 一方、「覆された」といえるかどうかわからないが。たしか瀬尾育生だったと思うが、何かの詩で「吐瀉物の花々」と書いていた。私はそれを真似して(剽窃して)、つかったこともある。「吐瀉物」というのは汚い。「花々」というのは美しい。その汚いものと美しいものの共存に詩を感じる。
 西脇の「覆された宝石」には、何かそういうものがある。乱暴な概念の衝突がある。それが朝の光のように新鮮に輝いている。輝くものは、いつでも、暴力的である。
 こういうことは、文献を「調べてみて」わかることではない。文献を調べる前に、自分の体験を調べるべきだと私は思う。詩を読むということは、自分の「肉体」が「おぼえていること」を読むことだ。自分の「肉体」は、他人の文献のなかにはない。

 こういうことといくらか関係があるのだが。
 西脇の明るさ、西洋嗜好(?)について書いた次の部分にも私は非常に違和感をもった。

雪もよいの中空に思い描いた西洋への思慕が、やがて硬質なイメージに結晶したということらしい。(略)雪国から遠くかなたを目指した大きな振幅こそが、澄み渡るほどにイメージの純化を高めたのではなかったか。

 西脇の故郷は新潟県。雪国である。その暗いイメージの対極にある西洋(ギリシャ/地中海)の明るい光。--見出しには「雪国との距離が生んだ光」とあり、そう書かれてしまうと、そうかなあ、と思うひともいるかもしれないが。
 北陸の冬(特に雪の多かった昔)はたしかに暗い。光が少ない。けれど、北陸の冬でも晴れ間は光が明るい。雪に反射したまぶしい光は、「宝石」みたいなものかもしれない。晴れた夜の、月の光に青くなった雪、凍ってきらきら光る色は、とても美しい。夏の光も美しい。簡単に「雪国との距離」などとは言えない。
 それにギリシャ(地中海)にも雪は降る。ギリシャの冬(雪)は海が近いせいか、まるで北陸の雪のように見える。(テオ・アンゲロプロスの映画で見た雪だけれど。)だいたいアテネというのは新潟と似たような緯度にあって、雪の降らない南国ではないのだ。沖縄のような場所ではないのだ。ギリシャは私の知るかぎり、海岸線が複雑でまるで上空から見ると「島国」にも見える。アテネを歩いてみると坂が多く、近くに山があって(どこまでも平野であるというわけではなくて)、まるで日本である。
 頭の中にある「雪国・新潟」と「光あふれるギリシャ」を対比させ、そこに「距離」を見るなら、その「距離」はあくまでそのひとの「頭の中の距離」にすぎない。西脇の「肉体」を感じるというのは難しいから、せめて自分の「肉体」と「肉体で体験したこと(肉体がおぼえていること)」基本に解説(批評?)を書いてもらいたいなあ、と思う。
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時里二郎「歌窯」

2014-02-09 12:35:17 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「歌窯」(「ロッジア」13、2014年02月発行)

 時里二郎「歌窯」の次の部分をどう読めばいいのだろうか。

 歌を紡ぐのに生身の身体はいらない。生身の身体に付随するヒトの霊が邪魔なのである。木偶(でぐ)にはそれがない。それがないかわりに木偶の身体はその欠落を埋めるべく言の霊を付着させる奥部(おうぶ)を持っている。凹部(おうぶ)とも表記するが、かといって、それは身体のどこにも仕組まれていない。つまり、木偶そのものが、(人形そのものが)、奥部であり、凹部なのだ。負の身体とでも呼べばいいだろうか。木偶は物であり、見られ、触られするが、それは仮象にすぎない。言の霊が憑くときにだけ、存在し、歌をこの世に伝える。皮肉なことに、その時木偶の身体は見えない。言の霊が憑けば、当然人形の身体ではなくなるからである。

 ヒトは「生身の身体」を持っている。木偶(人形)は生身の身体を持っていない。人形は生身の身体を欠落している。しかし、それは「生身」を欠落しているのであって、身体そのものの欠落ではない。身体はある。
 このとき「生身」とは何か。それを問うかわりに、時里は奇妙な論理を展開している。

歌を紡ぐのに生身の身体はいらない。

 問題の主語は「歌」、あるいは「歌を紡ぐ」である。この「歌を紡ぐ」ということはどういうことなのかを明らかにするために、時里は「ヒト」と「人形」を対比させている。ヒトと人形の違いはどこにあるか、と問われたとき、多くの人は感情(気持ち)を持っているか持っていないかと答える。時里は、感情(歌の主題?)を持っているかどうかをわきに置いておいて、「生身の身体」「生身ではない身体」というところから接近する。
 その上で、「感情」の問題を取り上げる。時里は「感情」ということばをつかっていないのだが、とりあえず、そう呼んでおく。--と、書きながら、私はすぐに修正するのだが……。時里は、「感情」というかわりに「霊」ということばをつかう。「ヒトの霊」。しかし、それが「歌を紡ぐ」のに「邪魔」だという。
 何か、変だねえ。常識に反するねえ。歌が「感情」を読む(紡ぐ)ものだとすると、まず感情(ヒトの霊)がないといけない。ところが、時里は、それが「邪魔」と断定する。
 じゃあ、歌は「何を」紡ぐ(詠む)ものなのか。
 この問題に対して時里はまっすぐには答えない。「何を」をわきにずらして、飛躍する。
 人形は「生身」の身体を持っていない(欠落している)かわりに、その欠落を埋めるための「言の霊」を持っている。
 いや、間違えた。
 人形は「言の霊」を付着させるための奥部(凹部)を持っている。

 あれっ、このことばの運動って論理的?

 何が主題だった? ヒトの「生身の身体」、人形の「生身ではない身体」と「歌を紡ぐ」ときの関係?

 人形は奥部(凹部)を持っているから、「ヒトの霊」ではなく「言の霊」を付着させることができる。その奥部(凹部)はヒトの「生身の身体」よりも「歌を紡ぐ」のに有効(?)である。
 時里のいう通りだとして、その人形の奥部(凹部)で、どこ? 「何が」奥部(凹部)? たとえばその人形が女だとして、人形の膣が、子宮が奥部(凹部)? 「生身の身体」ではないから、もちろんそういう名指しできる「部分」ではない。
 どこでもない。人形そのもの(全体)が奥部(凹部)、「負の身体」。
 うーん。
 「生身の身体」に対して「負の身体」、「現実の身体」に対して「虚構の身体」ということになるのだろうか。でも、「負」とはいいながら人形は「触る」ことができる。「見る」ことができる。「生身」は生身という具体なのに、奥部(凹部)は抽象という奇妙な論理のすれ違いがあるなあ。
 で、この「負の身体」を時里は「仮象」とも言い換えている。「奥部(凹部)」が抽象田から「仮象」という抽象表現が動くんだね。そうして「人形」が「仮象」なら「奥部(凹部)」もまた「仮象」であると論理を逆流させながら、「人形/奥部(凹部)/仮象」は、

言の霊が憑くときにだけ、存在し、歌をこの世に伝える。

 ええええっ。
 「歌」というのはことば(言の霊、といいかえていいのかな?)によって成り立っている。歌が成立するときだけ「人形」が存在する。歌によって、人形の「身体」が成立する。「人形」の身体の奥部(凹部)は、どこへ行った? はじめに「人形/奥部(凹部)」が存在したんじゃないの? 「人形/奥部(凹部)」はいったい何だった?
 歌は「何を」詠むという問いの「何」と同じように、「何か/どこか」というテーマのようなものが時里のことばの運動から、いつも消えてしまう。
 さらに、時里はことばを暴走させる。歌が成立したとき、人形は見えなくなる。なぜなら、

言の霊が憑けば、当然人形の身体ではなくなるからである。

 おかしいなあ。
 人形って存在したの? しなかったの?
 わからないねえ。何かだまされた感じになるねえ。一文一文は「論理的」に見えるのだけれど、どこか、何かが「ずれ」ていく。その「ずれ」を見極めようとする前に、ことばが先へ先へと進んで、最初に書いたことを消してしまう。「何」「どこ」がなくなってしまう。奇妙な言い方だが、そして「なくなってしまう」が「残る」(あらわれる)。「消失」という変化、「負(存在しなくなったのだから、正の反対のもの)」が「残る/あらわれる」。

 これって何?
 いまは数学の時間? 私は数学をやっている?

 時里の書いていることは、順序立てて、論理的(?)に追いかけてはだめなのだ。そんなことをすると、何が書いてあるかわからなくなる。(「何か」と無意識に書いてしまったが、そこには「もの」は書かれていないのだ。)
 じゃあ、どうするか。
 全体を丸ごとのみこんでしまう。そこに書かれているのは「もの」ではなく「関係」である。まるごとのみこんでしまうと「こと」が書かれているとわかる。「関係/つながり/変化」が書かれていることがわかる。
 「歌を紡ぐ」。そのとき必要なのは、ヒト(人間)ではない。「ヒトの霊(感情)」でもない。実体に歌を構成するのは「ことば(言の霊)」である。それは「生身の身体(実体)」とは相性がよくない。「生身の身体」は「生身」というくらいだから、もうそれ自体で「存在している」。存在しているものは、ことばで存在させなくてもいい。あるいは、存在しているものは、ことばの虚構を叩きこわしてしまう。必要なのは、ことばが自由に動き回れる「虚(生身ではない)」世界である。存在しない何か(仮象)が必要である。「欠落」が必要である。(欠落と負は同じ意味合いを持っている。)その欠落(負/虚)の世界で「ことば」が動く。そして「仮象」を浮かび上がらせる。その「仮象」が「実体」のように見えたとき、それが「歌」である。「生身の身体」が変化しないのに対し、それまで存在しなかったものがことばによって存在するという「変化」が歌である。
 ついでにいえば、それまで存在しなかったものが木の組み合わせ、木の加工によって人間の形になってあらわれてくるのが「人形」である。
 だから、歌は「ことば」によってあらわれてきた人間の「形」なのである。
 「歌」は存在しないものを「ことば」で「生身の身体」のように浮かび上がらせたものである。「存在する感情」をそのまま書くのではなく、存在しなかった感情をことばによってつくりだしてこそ「歌」になる。そのつくりだした感情によって「生身の身体」を感じさせてこそ「歌」なのだ。
 そして、その「ことばによる生身の身体」(これは、矛盾しているね。矛盾しているから思想であり、肉体であるのだが)が「歌」なのだ。これでは、同義反復になってしまうので、私はそこに「変化する/あらわれる」という動詞を紛れ込ませるだが……、わかりきったことを、わかるようにいうには、同義反復しかない。

 飛躍して、こう言ってしまえばいいのかもしれない。
 時里は、「歌を紡ぐ」ということばの運動を語るふりをして、その「語る」ということを「詩」にしている。語るという運動、語るときのことばの変化のあり方を詩にしている。「何を」書くかではなく、「どう」書くか--これが時里の詩の「肉体(思想)」の根幹である。
 「もの(生身の身体)」ではなく「こと」。「こと」とは「変化」である。関係が「どう」変わるかをことばにすると、そこに「こと(事件)」があらわれる。
 時里は、ことばの運動そのものを詩にしている。「語る」を詩にしている。それは「歌を紡ぐ」のと同じように、作者の「感情」とは無関係なことである。感情と無関係というと言いすぎになるのかもしれないけれど、少なくとも「生身の身体」とは無関係である。ことばにはことばの身体があり、それが自由に動いて、その動きが何らかの「運動」を生み出すことができれば、それが詩であり、歌である。ことばの運動、ことばの身体の動き--それが、見えればいい。それに、触れることができれば、それが詩、それが歌。

 でも、ことばって、触れないねえ。見えたとも思っても、そんなものは錯覚かもしれないねえ。つかんだと思っても、それは手の中(意識という手の中、あるいは自分のことばという手の中--という具合に比喩になってしまうしかないのだが)をすりぬけていく。かわりに、そこに「活字(ことば)」が残されている。
 それは実体? それとも仮象?

 わからない。わからなくたって、いい。私は、そう思っている。ひとの考えていることなんて、わかりっこないのである。わかったつもりになるだけなのである。私は、こういうことばを書く「時里」という人間がいるんだなあ、と「わかる」。時里には会ったことがないので、ほんとうに存在するかどうか知らない。もしかしたら誰かが「時里」という名前をつかってことばを動かしているだけなのかもしれない。そうだとしても、そこにそういうことばの運動をさせる人間がいる、ということが「わかる」。
 なぜ、それが「わかる」かといえば、そうしたことばの運動は私の動かしていることばとは違うからである。ことばの「肉体」が違う。言い換えると、その「全部」を私のことばでは追いきれない。つかみつれない。「誤読」するしかない。だから、そこに「ことば」があり、ことばがあるかぎり、そのことばを動かす人間がいる、ということが「わかる」。
 なんだか、めんどうくさいことを書いているね、私は。時里のことばの運動に汚染(感染?)されてしまったのかなあ。



 「ロッジア」には時里の歌も発表されている。

円周率をしづかにタイピングするサルのなかに棲むわたしくしが戻らない

ふる硝子ふる雨の滲むフィルム 路地裏でミシン踏む母を呼ぶ声

 ことばのなかにある「無音」の動きが非常にリズミカルだ。おもしろい。「無音」というのは、ほんとうはどう呼ぶのかわからないのだが、たとえば「タイピングする」の「す」の音、私はこれを「母音」をほとんど欠落させる形、「S」の擦過音だけで声にしてしまうのだが、その繰り返しがつくりだす「五七五七七」からずれていく響きが、とてもおもしろい。(私は音読はしない。黙読だけなのだが、無意識に発声器官と耳が動いて「無音」を肉体で感じてしまう。)
 別な言い方をすると、いまかかげた二首。これを「歌会始」のように朗々と音を引き延ばしながら歌うとすると、変でしょ? そういう古来(?)の歌とは違った「音楽」が時里の歌にはある。
 これはまた、別の機会に。




翅の伝記
時里 二郎
書肆山田
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西脇順三郎の一行(84)

2014-02-09 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(84)

わきで全くきこえない音を                     (96ページ)

 「全くきこえない」なら、それは「音」ではない。でも、西脇は「音」と書く。それ読むとき、不思議なことに私には「音」が聞こえる。この「聞こえる」はとても変な感覚だ。まわりにある音が、その「きこえない音」に向かって吸い込まれていく。消えていく。消えつづけていく。消えたと思ってもまだ消えていなくて、はてしなく消えていくという「運動する音」なのである。
 この「運動する音」というのは、この行につづく「出しているがそれも/果てしない永遠に向かつて/あこがれているのだ」という行によって強調されている。
 音が消えた瞬間の「無」になった「音」ではなく、「無」を生み出しつづける音。「生み出しつづける」という動きがあるために、その振動のために、「音」が聞こえる--と書いてしまうと理屈っぽくなるし、強引にもなるのだが……。
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