監督 ダニス・タノビッチ 出演 セナダ・アリマノビッチ、ナジフ・ムジチ
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このシーンが好き、というと、どうして?と聞かれると思うが、このシーンが好き。どのシーンかというと、主人公の男が車を動かす前にフロントガラスやバックミラーなどの雪をこそげ落とすシーンである。冷たい雪がガラスにはりついている。なかなか取れない。表面の白い雪はとれるがガラスに食い込むように凍り付いた氷が取れない。ふつうは水や湯で溶かすのだが、そういうものをつかわない。へらのようなもので、ごしごしとこそげ落とす。水や湯は、また氷になってはりつくから--という理由よりも、水や湯をむだにしたくないから? そうかもしれないが、なんとなくそれ以上の何かを感じる。
薪がなくなって、山へ木を伐りにいくシーンもいいなあ。一本だけ切り倒す。小枝をきちんと切りおとし、必要な幹だけを持って帰る。むだな木を伐らない。木といっしょに生活している。この「いっしょ」には、不思議な密着感がある。
車のガラスから雪をこそげ落とすシーンも、こういう言い方が適切かどうかわからないが、雪といっしょに生きているという感じがするのかもしれない。水や湯をかけて雪を消してしまうのではなくて、雪は雪のままにしておいて、車からはがしてしまう。そこにも何か密着感がある。雪をこそげ落とすときの、雪とガラスの両方に、主人公の肉体が「密着」していく感じがある。雪から手につたわってくる冷たさ、それといっしょに生きている感じがある。雪が溶けてガラスに凍ってはりつく--ということのなかにさえ、何か密着感がある。
うーん、変かなあ。変だろうなあ、こういう感覚は。
私は雪国生まれて雪が好きだから、雪に思い入れがあってそんなことを思うのかもしれないけれど……。
でも。
何かといっしょに生きている、密着して生きている。それが楽しい--という感覚は、この映画に満ちあふれている。密着していないかぎり生きていることにならないという感じがこの映画にあふれている。
妻が流産し、手術しないといのちが危ない。でも健康保険証がないので治療費が高額。どうすることもできない--という映画に、この「いっしょに生きている」という感覚が楽しいという感想はにつかわしくない。そうなんだけれど、でも、いっしょに生きている、ただそれだけが楽しいというのが、この映画の「思想」なのだと思う。
たとえば、義理の妹の保険証を借りて、妹になりすまして手術を受けるとき。病院の廊下ではこどもふたりが遊んでいる。椅子に座って手術が終わるのを待っているという具合にいかない。そのふたりに対して、父親は少し注意はするけれど、怒ったりはしない。ふつうは神経が昂っているから、こういうときって、人間は怒鳴り散らす。でも、この主人公は違うんだね。こども二人の様子をそのまま受け入れる。いっしょに生きているのだから、そういう「楽しみ」を壊すようなことはしてはいけない。そんな感じがする。
だいたい小さなこどもが病院で何時間も待ちきれるはずがないから、こういうときこどもは誰かにあずけていく、というのが一般的に考えられることだけれど、主人公たちはそんなことをしない。いっしょに連れていく。そして、そばで待っている。ここにも「密着感」がある。いっしょにくっついている。そうすると生きている感じがする。
映画のなかをふいに横切っていく犬の歩き方、そんなところにさえいっしょに生きている。密着している。そして、そのことが安心というか、こころの安らぎになる。そういう感じに満ちあふれている。声高に主張しているわけではないのだが。
いっしょに生きる--それだけを「守る」ために生きている。余分な軋轢を避けて「楽しく」いっしょに生きていく。それだけを願っている、そんな感じがする。
健康保険証がないから手術費は高額になる。払えるか。払えないなら手術はできない、と病院から言われても、主人公たちは怒らない。なんとかならないかと頼みはするが、医者がそんな非人道的なことをしていいのか、というような怒ったりはしない。福祉事務所に訴えたときも、説明を聞いて引き下がる。理不尽な社会に対して怒るということはしない。「正義」を主張することはしない。まるで、怒ると密着感が消えるから、怒らない--そういう感じかなあ。いやあ、不思議だなあ。
こんなに怒りを欠落させたまま、生きていけるのか。
生きていけるのである。
たとえば高い治療費を請求し手術を拒むという理不尽な「正義」に対しては、他人の保険証を借りて、他人になりすまして治療を受ける。「不正」といえば「不正」だが、助け合いといえば助け合いである。「密着」した関係にある人間が、その「密着」をつかって「不正」を内部に隠す。「いま/ここ」にあるもので、「いま/ここ」を生きる。
手術のあとは、薬代がいる。お金はない。さて、どうする? 主人公は廃車をみつけては解体し、それを鉄屑屋に売って生計を立てている。廃車はどこにでも落ちているというわけではない。で、最後に、自分の車を解体し、鉄屑を売って金を稼ぐ。自分が知っていること(自分に密着していること)を、そのまま実行する。
この不思議な「いっしょ(密着)」に、知らず知らずに引き込まれていくなあ。映画を見ているというより、実際に、その人にあって、その人に触れている感じがしてくる。映画のなかでは雪が降っているのに、とてもあたたかい。フロントガラスの雪をこそげ落としたあと、手に息をかけて、手をあたためる。そのときの、「はあああ」という息のあたたかさをそのまま手に感じるくらいにあたたかい。
そういうこととは少し離れるのだが。
この映画にはかなりおもしろいシーンがある。主人公が車で移動するときの風景がかわっている。影像がかわっている。駒落としみたいに、影像の数が少ない。フィルムをゆっくりまわしてふつうのスピードで再生したような、荒い影像である。じっくりと撮った方が、この映画のドキュメンタリータッチにあうのだけれど、そうしていない。どうしてかな? 節約だね。いかに安く映画を仕上げるか。無駄なく一本を作り上げるか。その工夫が、また影像そのものの密着感を強めている。リハーサルもなんにもなしに、いきなり撮影をはじめたような不思議な違和感がある。最初の方のこどものカメラ目線というか、あ、カメラが自分たちを映しているという感じの表情も、見終わったあとでは楽しい。撮影クルーと出演者が密着して、そこにある「空気」そのものをフィルムに定着させている。
(2014年02月16日、KBCシネマ2)
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このシーンが好き、というと、どうして?と聞かれると思うが、このシーンが好き。どのシーンかというと、主人公の男が車を動かす前にフロントガラスやバックミラーなどの雪をこそげ落とすシーンである。冷たい雪がガラスにはりついている。なかなか取れない。表面の白い雪はとれるがガラスに食い込むように凍り付いた氷が取れない。ふつうは水や湯で溶かすのだが、そういうものをつかわない。へらのようなもので、ごしごしとこそげ落とす。水や湯は、また氷になってはりつくから--という理由よりも、水や湯をむだにしたくないから? そうかもしれないが、なんとなくそれ以上の何かを感じる。
薪がなくなって、山へ木を伐りにいくシーンもいいなあ。一本だけ切り倒す。小枝をきちんと切りおとし、必要な幹だけを持って帰る。むだな木を伐らない。木といっしょに生活している。この「いっしょ」には、不思議な密着感がある。
車のガラスから雪をこそげ落とすシーンも、こういう言い方が適切かどうかわからないが、雪といっしょに生きているという感じがするのかもしれない。水や湯をかけて雪を消してしまうのではなくて、雪は雪のままにしておいて、車からはがしてしまう。そこにも何か密着感がある。雪をこそげ落とすときの、雪とガラスの両方に、主人公の肉体が「密着」していく感じがある。雪から手につたわってくる冷たさ、それといっしょに生きている感じがある。雪が溶けてガラスに凍ってはりつく--ということのなかにさえ、何か密着感がある。
うーん、変かなあ。変だろうなあ、こういう感覚は。
私は雪国生まれて雪が好きだから、雪に思い入れがあってそんなことを思うのかもしれないけれど……。
でも。
何かといっしょに生きている、密着して生きている。それが楽しい--という感覚は、この映画に満ちあふれている。密着していないかぎり生きていることにならないという感じがこの映画にあふれている。
妻が流産し、手術しないといのちが危ない。でも健康保険証がないので治療費が高額。どうすることもできない--という映画に、この「いっしょに生きている」という感覚が楽しいという感想はにつかわしくない。そうなんだけれど、でも、いっしょに生きている、ただそれだけが楽しいというのが、この映画の「思想」なのだと思う。
たとえば、義理の妹の保険証を借りて、妹になりすまして手術を受けるとき。病院の廊下ではこどもふたりが遊んでいる。椅子に座って手術が終わるのを待っているという具合にいかない。そのふたりに対して、父親は少し注意はするけれど、怒ったりはしない。ふつうは神経が昂っているから、こういうときって、人間は怒鳴り散らす。でも、この主人公は違うんだね。こども二人の様子をそのまま受け入れる。いっしょに生きているのだから、そういう「楽しみ」を壊すようなことはしてはいけない。そんな感じがする。
だいたい小さなこどもが病院で何時間も待ちきれるはずがないから、こういうときこどもは誰かにあずけていく、というのが一般的に考えられることだけれど、主人公たちはそんなことをしない。いっしょに連れていく。そして、そばで待っている。ここにも「密着感」がある。いっしょにくっついている。そうすると生きている感じがする。
映画のなかをふいに横切っていく犬の歩き方、そんなところにさえいっしょに生きている。密着している。そして、そのことが安心というか、こころの安らぎになる。そういう感じに満ちあふれている。声高に主張しているわけではないのだが。
いっしょに生きる--それだけを「守る」ために生きている。余分な軋轢を避けて「楽しく」いっしょに生きていく。それだけを願っている、そんな感じがする。
健康保険証がないから手術費は高額になる。払えるか。払えないなら手術はできない、と病院から言われても、主人公たちは怒らない。なんとかならないかと頼みはするが、医者がそんな非人道的なことをしていいのか、というような怒ったりはしない。福祉事務所に訴えたときも、説明を聞いて引き下がる。理不尽な社会に対して怒るということはしない。「正義」を主張することはしない。まるで、怒ると密着感が消えるから、怒らない--そういう感じかなあ。いやあ、不思議だなあ。
こんなに怒りを欠落させたまま、生きていけるのか。
生きていけるのである。
たとえば高い治療費を請求し手術を拒むという理不尽な「正義」に対しては、他人の保険証を借りて、他人になりすまして治療を受ける。「不正」といえば「不正」だが、助け合いといえば助け合いである。「密着」した関係にある人間が、その「密着」をつかって「不正」を内部に隠す。「いま/ここ」にあるもので、「いま/ここ」を生きる。
手術のあとは、薬代がいる。お金はない。さて、どうする? 主人公は廃車をみつけては解体し、それを鉄屑屋に売って生計を立てている。廃車はどこにでも落ちているというわけではない。で、最後に、自分の車を解体し、鉄屑を売って金を稼ぐ。自分が知っていること(自分に密着していること)を、そのまま実行する。
この不思議な「いっしょ(密着)」に、知らず知らずに引き込まれていくなあ。映画を見ているというより、実際に、その人にあって、その人に触れている感じがしてくる。映画のなかでは雪が降っているのに、とてもあたたかい。フロントガラスの雪をこそげ落としたあと、手に息をかけて、手をあたためる。そのときの、「はあああ」という息のあたたかさをそのまま手に感じるくらいにあたたかい。
そういうこととは少し離れるのだが。
この映画にはかなりおもしろいシーンがある。主人公が車で移動するときの風景がかわっている。影像がかわっている。駒落としみたいに、影像の数が少ない。フィルムをゆっくりまわしてふつうのスピードで再生したような、荒い影像である。じっくりと撮った方が、この映画のドキュメンタリータッチにあうのだけれど、そうしていない。どうしてかな? 節約だね。いかに安く映画を仕上げるか。無駄なく一本を作り上げるか。その工夫が、また影像そのものの密着感を強めている。リハーサルもなんにもなしに、いきなり撮影をはじめたような不思議な違和感がある。最初の方のこどものカメラ目線というか、あ、カメラが自分たちを映しているという感じの表情も、見終わったあとでは楽しい。撮影クルーと出演者が密着して、そこにある「空気」そのものをフィルムに定着させている。
(2014年02月16日、KBCシネマ2)
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