尾花仙朔「百鬼夜行の世界の闇に冥府の雨が降っている」(「ココア共和国」14、2014年02月01日発行)
きのう読んだ文月悠光「真夜中の学習」は私にはとても読みづらい部分があった。書かれていることばは全部知っているのに、「わかる」という感じになれない部分があった。きょう取り上げる尾花仙朔「百鬼夜行の世界の闇に冥府の雨が降っている」は逆。書かれていることばを私は知っているわけではない。
タイトルからして、「百鬼夜行」「冥府」は、私は知らない。知らないけれど、「わかる」。直感的に「わかる」。「百鬼夜行」と「冥府」が重なること、さらに「闇」が共通項として、そこに「ある」ということが「わかる」。
これを言いなおすと……。
「百鬼夜行」とか「冥府」とか「闇」とかいうことばは、なんとなく一緒に私の耳に届いたことがあるということである。きのう読んだ文月の「ポットのお湯を流しにあけた」は、それぞれのことばは聞いたことがあるし、書かれている名詞が指し示す「もの」も知っているが、それがつながって私の耳に届いたことはない。別なことば、別なかたちで届いたことしかない。--私は、ことばを読むとき、その「単語」を読んでいるわけではない。私は「ことば」と「ことば」のつながり方を読んでいて、そこに「リズム(音楽)」を感じたとき、言い換えると、そういうことばのつながりをどこかで聞いたことがあるなあと感じたとき、それを「わかる」と感じるのだ。
この「わかる」は、だから「誤解(誤読)」をたくさん含んでいる。作者の言いたいこととは関係なく、私がこれまでに「聞いてきた」ことをたよりに「わかる」と言っているのだから。私は作者のことばを読んでいるのではなく、作者のことばをとおして、私自身の「肉体」を読んでいるのだ。
というのは、まあ、前置きだね。
私は尾花の詩から何を読んだのか。何を「わかった」と勘違いしたのか……。
「冥府」。これは、私は「わからない」。聞いて知っているし、読んだこともある。でも見たことはない。行ったこともない、と言いたいけれどよくわからない。もしかしたら「いま/ここ」が冥府かもしれない。私が実感できないだけかもしれない。そうか、実感がないということが、「わからない」なのか、といま自分で確かめている。
で、その「冥府」はきっと「百日百夜」、「とぎれない」ものなんだなあ、と思う。尾花は雨が「百日百夜とぎれなく」降っていると書いているのだけれど、そんなに長くとぎれなく降るから、きっとそこは「冥府」なのだろう。
ことばが言いなおされる。「雨が降る」が言いなおされているのだけれど、そのとき一緒に「冥府」も何か説明が付け加えられているのだと思う。
「冥府」は次に「この世ではない次元空間」と言いなおされ、「目に見えない」と言いなおされている。あ、この「目に見えない」は文法的には「雨」なのだけれど、「冥府の雨」と書かれることで、「冥府」の説明にもなっている。
こういう説明(?)の仕方、補足の仕方、というのは、大事なことがらについて話すときよく行なわれる。主語(説明の対象)が、どこかで重なり合う。ひとつのことがらのなかに、そのひとつと一緒にあるものが重なり合い、重なることで「見えてくる」感じがするものがある。音が「和音」になる感じだなあ。ひとつひとつでは「音」にすぎないのだけれど、重なると「和」が、おっ、これは気持ちいいなあと感じるようなものだね。
こういうことは、「感覚の意見」としか言いようがないのだけれど。こういうことを「音楽」と呼ぶのは、もしかしたら違っているのかもしれないのだけれど。それが、私が「音楽」、あるいは「リズム」と呼んでいるものだ。ことばとことばが呼びあい、そこに、単独では見えない何かを感じさせる--その感じさせ方のなかに「一貫したもの」があるとき、それが何か知らないくせに、私は「わかる」と言ってしまうのだ。「肉体」が「わかる」と言え、と強要するのである。
脱線したが、詩にもどる。4行目で「見えない」ということばがくり返され、それに「暴虐(が地に満ちた世界)」とつづくと、あ、「冥府」というのは「暴虐が満ちた世界」なんだなあ、と「わかる」。さらに、その「暴虐」というのは「地に満ちている」からあたりまえなのかもしれないが、「隈なく」存在するものなのだ。「満ちる」と「隈なく」が重なり合って、「意味」を強く浮かび上がらせる。それは2行目に書かれていた「とぎれなく」にも通い合うし、「百日百夜」にもつながる。
で、私は「冥府」というのは「知らない」のだけれど、きっと暴虐(残虐)がびっしりとあふれていて、雨にぬれるように、体の芯まで、それに襲われるようなところなんだろうなあと「わかる」。私の誤解・誤読かもしれないけれど、私の「肉体」はそう感じる。そこに雨にぬれた経験や、暴力を見たときの気分なんかが重なる。
そして、この重なり合い、あるいは強調、あるいはそれが加速度をまして動いていくとき、その「広がり」が交響曲のように感じられるとき、それを文体の「音楽」と呼びたい気持ちになる。「暴虐」というようなものは、いわゆる音楽(音の悦び、楽しみ)とは違うかもしれないけれど、私には「音楽」なのだ。恐怖映画の効果音--それも音楽だからね。「もの」「こと」を貫いて動き、音とリズム(テンポ、の方がこの作品全体について書くときはふさわしいのかもしれないけれど)--それを「音楽」と私は呼ぶのだけれど。
で、この尾花の作品は、その音楽が、崩れない。
という具合に、ことばはつづいていく。パレスチナとイスラエル、政略、非道、無慈悲、アウシュビッツ、強制収容所--ということばが「冥府」と重なりながら動く。そうか、「冥府」というのは「この世ではない次元世界」だけれど、それと重なるものが「この世」にあるのだと「わかる」。
「冥府」は「無間地獄」とも言いなおされて、
という展開もある。「暴虐」と「愛」がすぐそばで互いの補色となる。強烈な「和音」となる。それが壮大に鳴り響く。互いの「楽器」が強烈に自己主張しながら「和音」だけは守り通すという感じだなあ。
この作品から、思想とか政治とか状況論とか--いろいろなことが言えるんだろうけれど、私は、ただ「音楽」についてだけ書いておくことにする。
尾花の今回の作品は、書き出し部分からわかるように、とてもていねいな「音」の動かし方をしている。ゆっくりと音を重ねあわせて「和音」をつくり動いていく。
音楽の、もう一つ要素、リズムの面からも、とても読みやすい。すでに引用した部分でわかるように、尾花のことばは、基本的に1行1文章である。1行ごとに文意が完結する。完結しながら、補足し、動いていく。これが、実に読みやすい。「世界」がくっきりと浮かび上がるときの力になっている。
で、ときに、
とねちっこく(1行では完結しないことばで)詩人批判もするのだが、この対比もおもしろいなあ。この部分は、交響曲の演奏で言えば、テンポを極端に落として、それぞれの楽器の音を細部の細部まで聞かせるようなところなんだろうねえ。
詩は「音楽」、文体は「音楽」ということが「わかる」作品だ。尾花が書きたいのは、そういうことではなく、「意味」なのかもしれないけれど、「意味」についてなら、ほかの詩人があれこれ書くだろうと思うので、「音楽」だけにしぼって、とっかかりだけ書いてみた。これ以上は1時間では書けない。私の目がつづかない。
きのう読んだ文月悠光「真夜中の学習」は私にはとても読みづらい部分があった。書かれていることばは全部知っているのに、「わかる」という感じになれない部分があった。きょう取り上げる尾花仙朔「百鬼夜行の世界の闇に冥府の雨が降っている」は逆。書かれていることばを私は知っているわけではない。
タイトルからして、「百鬼夜行」「冥府」は、私は知らない。知らないけれど、「わかる」。直感的に「わかる」。「百鬼夜行」と「冥府」が重なること、さらに「闇」が共通項として、そこに「ある」ということが「わかる」。
これを言いなおすと……。
「百鬼夜行」とか「冥府」とか「闇」とかいうことばは、なんとなく一緒に私の耳に届いたことがあるということである。きのう読んだ文月の「ポットのお湯を流しにあけた」は、それぞれのことばは聞いたことがあるし、書かれている名詞が指し示す「もの」も知っているが、それがつながって私の耳に届いたことはない。別なことば、別なかたちで届いたことしかない。--私は、ことばを読むとき、その「単語」を読んでいるわけではない。私は「ことば」と「ことば」のつながり方を読んでいて、そこに「リズム(音楽)」を感じたとき、言い換えると、そういうことばのつながりをどこかで聞いたことがあるなあと感じたとき、それを「わかる」と感じるのだ。
この「わかる」は、だから「誤解(誤読)」をたくさん含んでいる。作者の言いたいこととは関係なく、私がこれまでに「聞いてきた」ことをたよりに「わかる」と言っているのだから。私は作者のことばを読んでいるのではなく、作者のことばをとおして、私自身の「肉体」を読んでいるのだ。
というのは、まあ、前置きだね。
私は尾花の詩から何を読んだのか。何を「わかった」と勘違いしたのか……。
冥府の雨が降っている
百日百夜とぎれなく冥府の雨が降っている
この世でない次元空間から降る雨だから冥府の雨は目に見えない
見えないけれど暴虐が地に満ちた世界に隈なく降っている
「冥府」。これは、私は「わからない」。聞いて知っているし、読んだこともある。でも見たことはない。行ったこともない、と言いたいけれどよくわからない。もしかしたら「いま/ここ」が冥府かもしれない。私が実感できないだけかもしれない。そうか、実感がないということが、「わからない」なのか、といま自分で確かめている。
で、その「冥府」はきっと「百日百夜」、「とぎれない」ものなんだなあ、と思う。尾花は雨が「百日百夜とぎれなく」降っていると書いているのだけれど、そんなに長くとぎれなく降るから、きっとそこは「冥府」なのだろう。
ことばが言いなおされる。「雨が降る」が言いなおされているのだけれど、そのとき一緒に「冥府」も何か説明が付け加えられているのだと思う。
「冥府」は次に「この世ではない次元空間」と言いなおされ、「目に見えない」と言いなおされている。あ、この「目に見えない」は文法的には「雨」なのだけれど、「冥府の雨」と書かれることで、「冥府」の説明にもなっている。
こういう説明(?)の仕方、補足の仕方、というのは、大事なことがらについて話すときよく行なわれる。主語(説明の対象)が、どこかで重なり合う。ひとつのことがらのなかに、そのひとつと一緒にあるものが重なり合い、重なることで「見えてくる」感じがするものがある。音が「和音」になる感じだなあ。ひとつひとつでは「音」にすぎないのだけれど、重なると「和」が、おっ、これは気持ちいいなあと感じるようなものだね。
こういうことは、「感覚の意見」としか言いようがないのだけれど。こういうことを「音楽」と呼ぶのは、もしかしたら違っているのかもしれないのだけれど。それが、私が「音楽」、あるいは「リズム」と呼んでいるものだ。ことばとことばが呼びあい、そこに、単独では見えない何かを感じさせる--その感じさせ方のなかに「一貫したもの」があるとき、それが何か知らないくせに、私は「わかる」と言ってしまうのだ。「肉体」が「わかる」と言え、と強要するのである。
脱線したが、詩にもどる。4行目で「見えない」ということばがくり返され、それに「暴虐(が地に満ちた世界)」とつづくと、あ、「冥府」というのは「暴虐が満ちた世界」なんだなあ、と「わかる」。さらに、その「暴虐」というのは「地に満ちている」からあたりまえなのかもしれないが、「隈なく」存在するものなのだ。「満ちる」と「隈なく」が重なり合って、「意味」を強く浮かび上がらせる。それは2行目に書かれていた「とぎれなく」にも通い合うし、「百日百夜」にもつながる。
で、私は「冥府」というのは「知らない」のだけれど、きっと暴虐(残虐)がびっしりとあふれていて、雨にぬれるように、体の芯まで、それに襲われるようなところなんだろうなあと「わかる」。私の誤解・誤読かもしれないけれど、私の「肉体」はそう感じる。そこに雨にぬれた経験や、暴力を見たときの気分なんかが重なる。
そして、この重なり合い、あるいは強調、あるいはそれが加速度をまして動いていくとき、その「広がり」が交響曲のように感じられるとき、それを文体の「音楽」と呼びたい気持ちになる。「暴虐」というようなものは、いわゆる音楽(音の悦び、楽しみ)とは違うかもしれないけれど、私には「音楽」なのだ。恐怖映画の効果音--それも音楽だからね。「もの」「こと」を貫いて動き、音とリズム(テンポ、の方がこの作品全体について書くときはふさわしいのかもしれないけれど)--それを「音楽」と私は呼ぶのだけれど。
で、この尾花の作品は、その音楽が、崩れない。
自由の海の民の末裔パレスチナにも降っている
旧約(トーラー)の神の国の選民イスラエルにも降っている
旧約の神の国の政略は非道で無慈悲だ
地つづきの二つの民族を隔てる分離壁
さながらアウシュヴィッツの強制収容所を思わせる
という具合に、ことばはつづいていく。パレスチナとイスラエル、政略、非道、無慈悲、アウシュビッツ、強制収容所--ということばが「冥府」と重なりながら動く。そうか、「冥府」というのは「この世ではない次元世界」だけれど、それと重なるものが「この世」にあるのだと「わかる」。
「冥府」は「無間地獄」とも言いなおされて、
この世の無間地獄に冥府の雨が降っている
冥府の縫い目から きれぎれに
あどけない幼い娘の声がきこえてくる
《オカアサン ワタシノ顔ドコヘ
トンデ行ッタノ》
《いつも添寝していた母娘(おやこ)だもの》
--と魂の母が応えている
《きっと吹きとばされたわたしの
胸乳のそばでしょうね》
という展開もある。「暴虐」と「愛」がすぐそばで互いの補色となる。強烈な「和音」となる。それが壮大に鳴り響く。互いの「楽器」が強烈に自己主張しながら「和音」だけは守り通すという感じだなあ。
この作品から、思想とか政治とか状況論とか--いろいろなことが言えるんだろうけれど、私は、ただ「音楽」についてだけ書いておくことにする。
尾花の今回の作品は、書き出し部分からわかるように、とてもていねいな「音」の動かし方をしている。ゆっくりと音を重ねあわせて「和音」をつくり動いていく。
音楽の、もう一つ要素、リズムの面からも、とても読みやすい。すでに引用した部分でわかるように、尾花のことばは、基本的に1行1文章である。1行ごとに文意が完結する。完結しながら、補足し、動いていく。これが、実に読みやすい。「世界」がくっきりと浮かび上がるときの力になっている。
で、ときに、
翼賛詩人はみな雲隠れ 朦朧として霧の中
と思いきや 日本文化伝統の((あいまいな美徳))の免罪符が貼り出され
名だたる詩歌句の歴々が 闇市場のいまだ硝煙臭う回廊の薄暗がりから
光を帯びて立ち現れ扨てもめでたく宗匠の席に着座して
光太郎ひとりが冥府の雨に打たれながら歴史の土間に坐っている
とねちっこく(1行では完結しないことばで)詩人批判もするのだが、この対比もおもしろいなあ。この部分は、交響曲の演奏で言えば、テンポを極端に落として、それぞれの楽器の音を細部の細部まで聞かせるようなところなんだろうねえ。
詩は「音楽」、文体は「音楽」ということが「わかる」作品だ。尾花が書きたいのは、そういうことではなく、「意味」なのかもしれないけれど、「意味」についてなら、ほかの詩人があれこれ書くだろうと思うので、「音楽」だけにしぼって、とっかかりだけ書いてみた。これ以上は1時間では書けない。私の目がつづかない。
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