詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(161-180)

2014-02-08 23:34:14 | 連詩「千人のオフィーリア」
千人のオフィーリア(160- )

                                        161 金子忠政
オフイーリア、
船倉の鼠の足音だけが勇気づけるような
きわなく賢い世界は
ハミングしながらでも捨てることができる
という貴方の弱々しい観念は
中空に骨を刻むように
潮時を教えてくれる
「もう何もいらない」と静かに呟ける
オフイーリア、
時にセンチメンタルに泣く君の
小鳥のようにどぎまぎもする瞳を
探し、探しあぐね
やがて、その懐にどっぷり浸る

                                         162 橋本正秀
呟く瞳の奥底に据えられた冬の海をたぐり寄せる幻々としたフォルテピアノの調べに和する情緒の不在にドギマギとする手足の萎びた皮膚を凍える水が皺襞をたどってたどって這っていく感触のみが虚しい生の旋律を奏ではじめる

                                       163 谷内修三
波よ、知っているか
オフィーリアを殺したのは川でもなければ花でもない。
それは私だ、幽霊と会話する神経衰弱のハムレットだ、だが
波よ、知っているか、
オフィーリアを生かしているのは川でもなければ花でもない。
それは私だ、無慈悲なことば、ことば、ことばのハムレットだ。
波よ、知らぬのなら返せオフィーリアを、
波よ逆巻け、波よ女たちの涙の川を遡れ、
千人のオフィーリアとなって復讐せよ、

                                         164 橋本正秀
渦巻く、波に、
跳梁する、花々が、
波の、意思に、
おもねる。
彼女ら? 彼ら?は、
報復跋扈の、旅を、手始めに、
始める。
涙の、しぶきを、湛えた、
変幻自在の、優柔不断の、
戦士の、生誕と、滅亡を、
両天秤、さながらに、
水底の、起伏に、
寄り添う、ように、
羈旅歌に、思いを、
託す。

こみ上げる、嗚咽、
ぬめり光る、水面、
に、唾棄、しいしい、
険しく、波立つ、流れ、
に、固唾、のみのみ、
なお、なお、なお、
遡上する。
帯状に、廊下状に、
覆い被さる、水爆を、
睨む、眼光、らんらん、
猛禽類、そのままの、
光りを、双眸の、奥底から、
発射する。

                                         165 市堀玉宗
狐火や酒臭くして閨に入る涎の如く言葉濁して

                                       166 谷内修三
そのドアはなぜ開いているのか、
見つかったとき逃げるためか、
音を立てずに招き入れるためか、

そのドアはなぜ開いているか、
鏡でしか見たことのない形を見せるためにか、
ことばにならない声を聞かせるためにか、

そのドアはなぜ開いてるのか、
入ってくるのはいらただしい噂ばかり、
出て行くのは甘ったるい嘘ばかり、

                                        167 市堀玉宗
てのひらに鳥の記憶のありにけりドアの向かうに羽落つるかに

                                        168 山下晴代
鳥の祖先は、生物学の進化の歴史においては比較的遅く出現したと、カルヴィーノは、「鳥の起源」という短編の前書きに書いている。それはまだどこか爬虫類の特徴をいくつかそなえていたという。名前は、アルカエオプリックスと言った。

アルカエオプリックスは不死で、ゲーテが役人としてプロイセンへ赴任したときには、鉱山に現れて、その詩を祝福した。
また、ベケットがまだ二十代だった頃には、彼の頭蓋骨内に現れて詩を書くようにそそのかした。

アルカエオプリックスは、いま、どこでどうしているかといえば、なんと日本に飛来し、安倍首相が行かなかった、千鳥ケ淵戦没者墓苑の墓石の陰で、ケリー国務長官とヘーゲル国防長官の通訳をしていた……そうだ。なにぶん、ロシアのプーチン大統領が寝言で言ったことなので、その真偽は定かでない。その寝言は、ウィキィリークスによってリークされたが、ルートについては厳重に秘匿されているということだ。

おそらく、都知事候補の田母神ことタモやんが、ツィートしたのかもしれない。しかし、その鳥たちのつぶやきで溢れかえった「鳥かご」には、アルカエオプリックスはおらず、
ただ、凍りつくような闇夜の中から「コアクプフ、コアクプフ、コアアア……」と鳴く声だけが、幻聴のように聞こえてくるだけだ。

                                         169 橋本正秀
まもなく夕方を迎えようとしている空に、
原始の鳥らが群れている。
真っ黒な腹と胸をさらして、
ゆったりと空を占拠している。
どの鳥を長い尾をこれ見よがしに、
西から東に整然と進軍を続けている。
背から頭にかけてほんのりとピンクに染めて、
いるのは気の高ぶり。

間もなく闇黒ショーの開演を告げる
鬨の声が放たれるその時。
鋭い嘴が雷光のように狂い、
雷鳴のような鳴き声が地に響く。
暗褐色の羽毛が粛々と地を覆う。
目に見えない羽毛によって、
地軸が23.44度に傾いた。
北回帰線は己が居場所を移し澄ましている。

鳥ガラ骨になった夜が明ける。
夜明けとともに叫びとなったあなた。
夢のないあなたの夢は、
西の山懐に掃き集められた。
開け放たれたドアから、
明鏡止水の「嘘つきめ」たちが、
明るい陽の光を浴びて、
出入りを繰り返している。

                                          170 西川仁
ジュピターもその傍らの凍て月も瞑る鳥の闇に番ひて

                                         171 市堀玉宗
愛を語れば星が鳴りだす寒さあり語れぬ愛の空々しくも

                                         172 金子忠政
天文台で、冬の夜空へ行く。直径2㎝くらいの環がかすかにゆらめいている、古い白黒映画のように。パレスチナの星、Saturn、クロノス、すべてを食い尽くす自己破壊的な流れ、すべてがうまくいかない遅鈍、陰気、あるいは生真面目、用心深さ、あるいは臆病、節約家、いわゆる、メランコリー気質。1938年、ナチスに追われ、国境で自殺した、しなる思想家の肖像写真。「私は土星のーこのもっともゆっくり回る星、迂回と遅延とをこととする惑星のもとに生まれた」右手を頬にあててうつむいている。眼鏡の奥の、近視のひとに特有の、静謐でやわらかい、夢見るような視線が、写真の左下にたゆたっている。

                                         173 橋本正秀
カチッと響かせた音を残して、彼女は星をでる。
迷いを感じさせないしまった横顔を覗かせて、
忌々しくもおぞましいまでの、
この星のくらしのやましさに、
心のもつれをゆりほどく気力も萎えた、
家族写真がそれぞれの思惑を、
淫らな笑みにひそめて飾られている。
近視と乱視と遠視、
これだけが着実な歩みを進めた障害を、
100円ショップの眼鏡で、
老眼のみを無理矢理矯正させた眼が、
地球を見据えて佇んである。
もはや、
愛の言葉に応えてくれる星などどこにもいない。
たとえプラネタリウムに通ったとしても、
火の鳥のファゴットが、
喉を引き絞った悲鳴をあげるのみ。

                                         174 市堀玉宗
死ぬる世のうつくし雪の白いこと

175 山下晴代
どんな惑星にも必ず終わりがある
どんな宇宙にも必ず終わりがある
どんな物語にも必ず終わりがある

死んでる人も
生きてる人も
死につつある人も
生まれつつある人も
いつかは消える

どんな理論にも必ず終わりがある
どんな時間にも必ず終わりがある
どんな空間にも必ず終わりがある

幸せなひとも
不幸なひとも
人間でないものも
生命のないものも
いつかは果てる

その日のために鍛えておこう
きみの暗黒物質のすべてを
ニュートン、アインシュタイン、ホーキング

176 橋本正秀
澱り汚れた胎内の記憶を
たどりたどって
生かして生きて
いま在る我ら
我らから抜け出す日を夢見る
我に新たなる月のあり

この世にも
あの世にも
あたら命のある限り
あたら形のある限り
あたら物語のある限り
閉じるステージの
幕明け切らぬ
無念・残念・正念の連鎖あり

月白く美しく
寒夜に浮かぶ
腸(はらわた)えぐるそのときの
夜にまみえる
友の眼のあればこそ
小窓の一輪挿しに
冷たき月光の去来あり

月光と辻を撚り合わせて
月夜の影踏み遊びのさなか
人間の業と夢と希望が
闇黒の中にその実体を溶け込ませて
とぐろを巻いて渦巻いてくだを巻く
どよめきわめいてどよめいて
今はただ
鰤起こしの咆哮をあげるのみ

                                       177 市堀玉宗
恋人と光りを競ひ落ちてゆくオフィーリアといふ名のゆりかもめ

                                         178 山下晴代
ハムレットは力なげにオフィーリアの手を執(と)れり。オフィーリアは涙に汚れたる男の顔をいと懇(ねんごろ)に拭(ぬぐ)いたり。

「ああ、おフィさんこうして二人が一処にいるのも今夜限りだ。お前が僕を介抱してくれるのも今夜限り、僕がお前に物を言うのも今夜限りだよ。一月十七日、おフィさん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、ハムは何処でこの月を見るのだか! 再来年の…………十年後(のち)の今月今夜…………一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死でも僕は忘れんよ! いいか、おフィさん、一月十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が…………月が…………月が…………曇ったらば、ハムレットは何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」

 そうしてデンマークの王子は、蒲郡風太郎と名前を変え、「銭ゲバ」となったということである。美しかった風貌も整形手術でわざと醜くし、行動に合った外見にしたということである。その子孫は、再び美貌を取り戻し、俳優となった。名を、マッツ・ミケルセンという────。

                                         179谷内修三
愛の嘘を見抜いたのなら、
なぜ嘘の理由を見抜けなかったのだろう。
だまされるのとどちらが愚かだろう。

投函しなかった手紙を繰り返し読む。
受け取った手紙を書いたひとの前で読む。
どちらが淫らだろう。

180 橋本正秀
ユーラシア中北部から、
愛の手紙を携えて、
飛来する鳥の群れ。
嘴には愛の言葉が詰め込まれ、
ついばみとともに、
地に愛が溢れる。
はずであった。

夏には黒く、冬には白くなる、
頭の中は、
愛の言葉の増殖器。
さえずり散らす、
くちばしは、
愛の唄の放射器。

愛は嘘の虚飾をまとって
愛となり、
嘘は愛の力で
飾られた。

騙し騙され
伴侶の鑑となって、
オフィさまの王国を
愛と嘘を綯(な)い交(ま)ぜにした
幻影で都を呑み込み、
忘却させる。

わが思ふ人はありやなしや



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時里二郎「月をかたしく あるいは《月歌論》のための仮縫い」

2014-02-08 08:51:03 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「月をかたしく あるいは《月歌論》のための仮縫い」(「ロッジア」13、2014年02月発行)

 時里二郎「月をかたしく あるいは《月歌論》のための仮縫い」はタイトルにあるように「論」なのかもしれない。私は「論」であろうが(散文であろうが)、詩であろうが、区別をしない。そこに「ことば」がある--というだけで読むのだが。
 読みながら、思わず傍線をひいてしまったところが2か所ある。ともに13ページ。「結論」の部分といえるかもしれない。

 西行の歌が調和的な満月を目指しているとすれば、定家は逆に朔へ向かうベクトルを持つ歌といえるだろう。見える月の部分よりも見えない月をことばによって見ようとする。
 ことばが提示して初めて月の光が生ずるような歌である。

 西行も定家もほうりだして、これは時里が時里自身の詩について語ったことばのように私には思える。思わず、こんなふうに書き換えてしまう。、

 見える世界の部分よりも見えない世界をことばによって見ようとする。ことばが提示して初めて世界の構造が生ずるような詩(ことばの運動)である。

 このとき肝要なのは、月の見えない部分(満ち欠けの、「欠け」の部分)を、時里は月の見える部分(満月)のように、はっきりと「おぼえている」ということだ。
 ことばが提示して、その結果「初めて構造が生ずる」、ことばの運動とともに世界が立ち現れてくるように見えるが、それは読んでいる私にとってそう感じられるだけであって、時里はことばの運動と同時に何かを発見しているわけではない。時里にはわかっている。時里は、それをおぼえている。おぼえていることを、ていねいにそれを再現する。

 先の引用のあとには、

橋姫伝説があって、宇治十帖があって(つまり、ことばがまず設えられて)そこに月の光が溶かしこまれるわけだから、月はいきおい幻想の光を帯びる道理である。

 この部分も、

 いくつもの「文学(世界構造を描き出すことばの運動)」があって(それを時里は満月のようにくまなくおぼえていて)、そこに時里は強調したい世界構造をことばで上書きするのわけだから、ことばは二重構造になり、いきおい幻想の闇を深める道理である。


 という具合に、書き直してみたくなる。そういうことばが、さーっと動いてしまう。私が時里になってしまう。時里が動かしていることばなのに、まるで自分のなかからあふれてきたことばのように錯覚してしまう。自分のことばが頭の中をひっかきまわし、幻を捏造しているように感じる。そういう錯覚を引き起こすくらい、時里のことばにはスピードと強靱さがある。何か、脳を直接刺戟してくる電流のようなものがある。

 もう一か所は次の部分。

 わたしたちは、月の引力が潮の干満を操り、ヒトの身体にも影響を及ぼしていることを自明のこととしているにもかかわらず、月の引力が、歌という詩型を決定づけていることについてはあまりにも無自覚である。歌の三十一文字と月の満ち欠けの周期がほぼ釣り合っているのは偶然ではない。家人はみずからの歌語の息づきに月の光が溶かしこまれていることに気づいていない。家人はみずからの歌の調べに月が関与していることを知らない。

 何か反論したい。特に「歌の三十一文字と月の満ち欠けの周期がほぼ釣り合っている」には反論したい。月の満ち欠けよりも歌のことばの方が確実に多い(過剰)なのに、それを「ほぼ」というのはおかしい。字余り、字足らずは30-32のあいだの揺らぎだと思うが、そこに29という文字数が入ることはめったにないのだから「ほぼ」というのはかなり強引だ、そういう反論を拒絶するスピードとリズムがある。それに呑みこまれてしまう。
 そして(という接続詞でいいのかどうか、よくわからないが……)。
 この部分には反論したい部分をわきにおいておいて、あ、語ってみたいと思う部分もある。
 「ヒトの身体にも影響を及ぼしている」ということばの「身体」、それから「月の光が溶かし込まれている」の「溶かし込む」という動詞。身体に何かが溶かし込まれることを時里は影響と言っている。「溶かし込む」だから、その何かは「身体」そのものと「ひとつ」になる。区別できないから「溶ける」である。でも「溶ける(溶けている)」ということは「わかる」。識別できるものと識別できないものが「ひとつ」になっている。それが「身体」という「場」である。
 あ、この部分をもっと書いてもらいたい。この部分から何か違ったものを聞きたいという欲望が、生まれる。でも、私は、それをどう書いていいかわからない。
 時里のことばは、肉体そのもので反復する動きというよりも、頭の中で組み立てなおして動く運動なのに、それがときどき「肉体」と何かぞくっとする感じで融合することがある。そこへ誘い込まれたいなあ、その奥へ行ってみたいなと思うが、何かうまい具合にゆかない。
 ことばと「身体(肉体)」が、どこかですれ違う。
 何なんだろうなあ……。

 そんなことを思っていたら、「歌窯」の次の部分。私は、ここまで書くつもりはなかったのだが--というか「月を……」を読んで何か書こうと思って書きはじめて、書けなくなってこれで「日記」はおしまいと思っていたのだが。少し時間があるので「ロッジア」をさらに読み進み、次の部分に出会ったのだ。(20-21ページ)

 歌を紡ぐのに生身の身体はいらない。生身の身体に付随するヒトの霊が邪魔なのである。木偶(でぐ)にはそれがない。それがないかわりに木偶の身体はその欠落を埋めるべく言の霊を付着させる奥部(おうぶ)を持っている。凹部(おうぶ)とも表記するが、かといって、それは身体のどこにも仕組まれていない。つまり、木偶そのものが、(人形そのものが)、奥部であり、凹部なのだ。負の身体とでも呼べばいいだろうか。木偶は物であり、見られ、触られするが、それは仮象にすぎない。言の霊が憑くときにだけ、存在し、歌をこの世に伝える。皮肉なことに、その時木偶の身体は見えない。言の霊が憑けば、当然人形の身体ではなくなるからである。

 あ、時里は「身体(肉体)」さえも、ことばによってのっとろうとしている。
 「付随する」「かわり」「仕組む」「負」「仮象」「存在する」「なくなる」--時里のことばの運動を語るためのことばがぎっしりつまっている。
 とりあえず、そうか時里は「身体(肉体)」を「人形」をつかって「虚構化」するのか。そのとき「世界とことば」は「身体と人形」が交錯するのだな。「世界」が「身体」であるとき、「ことば」は「人形」、あるいは「世界」が「ことば」であるとき「身体」は「人形」、いや「世界」が「ことば」であるとき「人形」が「身体」である、と時里ならいうかもしれないなあ。
 これは、また明日(あるいは別の機会)に考えよう。時間がきてしまった。(私は一日に40分しか書けない。目が疲れて、ことばが動かなくなる。最近は特に調子が悪く、パソコンモニターを見ると頭が重くなる。)







石目
時里 二郎
書肆山田
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西脇順三郎の一行(83)

2014-02-08 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(83)

「壌歌」(Ⅱ)

ミョーガをにた汁をかけ                      (95ページ)

 西脇の詩には野菜がよく出てくる。そしてその野菜は、私の感覚では青果店で売っている野菜ではない。畑になっている野菜、それをとって食べる自給自足の野菜である。
 この行のあとは「ウドンをたべるころは」とつづくので、ミョウガはウドンの薬味であることがわかる。ただし、それは出汁に散らす感じの薬味ではない。そういう洒落たことはせずに、出汁といっしょに薬味のミョウガを煮てしまっている。これは田舎ではよくやることである。百姓の暮らしではよくやることである。(というのは、私の体験である。私の家では刻んだミョウガをあとから薬味に散らすというようなめんどうなことはしなかった。)
 西脇の詩には、文学的(教養あふれる)会話がたくさんあるが、それと同時に、この行のように野性的な暮らしのことばや風物がよく出てくる。その二つは拮抗して不思議な「音楽」になる。手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いは、異質な「もの」の出会いだが、西脇の書いているのは異質な「世界/文体」の出会い/衝突である。
 「文体」というのは私の「感覚の意見」では、ひとつの「音楽」である。だから異質な文体の出会いというのは異質な音楽の出会いでもある。クラシック音楽と民謡が出会うように、違う性質の(違う歴史の)音楽が衝突する。
 それがとてもおもしろい。
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