北川朱実「戻らないよ」、中村梨々「現在地」(「おもちゃ箱の午後」07、2014年01月31日発行)
北川朱実「戻らないよ」を読みながら、私は少し奇妙なことを考えた。
世界が静止して見える。とても静かだ。
私は、いろいろことばをつかみ取るとき「動詞」が重要だと考えている。「ことばの肉体」と「人間の肉体」は「動詞」で重なる。私の「感覚の意見」では、どんな外国語にも「動詞」はあって、その動詞は動詞であるかぎり外国人にもつたわる。翻訳できる。
日本語を読んでいると(?)、どうも日本語というのは動詞ではなく、名詞で動いている。主語を省略できる日本語という特徴からみると、いや日本語こそ動詞で動いている(世界を識別している)という意見が聞こえてきそうだが、どうも違う。主語(名詞)を省略できるのは、それだけ強く主語(名詞)を意識しているからだ。常に、名詞(主語)に意識が支配されている--ということではないだろうか。
この北川の詩でも、もし私が「外国人」なら、動詞を「いる」「ある」という状態ではなく、(英語ならbe動詞?)ではなく、一般動詞にするだろう。
「いる」「ある」ではなく「洩らす(漏れる)」「輝く」「出す」という具合にすると、みつめている対象と私の肉体が「動詞」のなかで重なる。「いる」「ある」だと、どうも私と対象が「分離」している感じがする。私がいて、外側に「世界」がある、という感じ。(まあ、人間は「世界内存在である」という言い方にしたがえば、北川の文体の方が正しいのかもしれないけれど……。)
北川の文体(私は、これを「思想/肉体」とも呼びかえることがあるのだが)では、文ことばを読み終わるごとに「家」「太陽光パネル」「雨(水)」が印象に残る。「いる」「ある」では「名詞(もの)」が私の意識を引っ張りまわす。肉体がついていかない。肉体は置いてきぼりにされて「見た影像」が「頭」を引っぱる感じがする。
で、だんだん、私の「頭」のなかが「もの」でごちゃごちゃになってきて、あ、苦しいなあ、思う。これが「洩らす」「輝く」「流れだす」だと、その動きが「肉体」に分散されて「頭」が重くならない。「頭でっかち」にならない。--という感じ。
こういうことは、詩の感想からかけ離れていくことかもしれないけれど、とても重要なことだと思う。
で、なぜ、こんなことを書いたかというと。
最初に引用した書き出しの2連では、その書き方がそんなに「不自然」(独特)という印象ではないのだけれど……。
この最後の方の行になると「鯨と旅をした作り話」という「主語」が「荒野」「流星」に乗っ取られて、あれ、どっちが主語?と奇妙な酔いのようなものに襲われるのである。「する」という「動詞」さえ、北川はまるで「ある」「いる」のようにつかっている。作り話をするとき荒野が「ある」、流星が「ある」という感じ……。
でも、
こうすると「作り話をする」という「肉体」がより鮮明になる。私には北川が話している姿が見えてくる。顔が見えてくる。北川の書き方だと、北川が消えて「荒野」と「流星」というかっこいい「名詞」がちらついてしまう。
これは私の「感覚の意見」なので、ほかのひとは別な感じをもつかもしれないけれど。
で、そこまで考えたとき、私は私の「誤読」の仕方がわかった。あ、そうか、私は北川の詩を読むとき、「いる」「ある」と「静止状態」として世界を見つめなおすのではなく、一度「一般動詞」に置き換えて、「動詞」を主体にして北川に近づいて行っていたのだなあ、と思い出すのである。
私はときどき(ほんとうに時々だが)、「思いもよらなかった感想」という私信をもらうことがあるが、たぶんその「思いもよらない」は、私が作者が「名詞」を書いているのに、私がそれを「動詞」と読んでいるからなんだろうなあ。
私は「誤読」する。けれど、私は、動詞こそがことばの原点という気持ちがする。「名詞」はいくつもあるが人間の肉体はひとつであって、たとえば「水を飲む」の「水」は外国語で何種類あるか知らないけれど「飲む」という「動詞」は「ことば」をつかわずにつたえることができる。飲んで見せれば、つたわる。飲んで見せれば、飲んでも大丈夫ということが他人につたわる。「水」といくら言っても、それを飲んでいいかどうか、はっきりとはわからない。動詞は「肉体」をつかった「保証」「アリバイ」のようなものなのだ。「肉体」が見えてくると、私は安心するのである。その人が好きになる。
だから、「動詞」が前面に出てくる詩の方に、私はよりすばやく接近していく。「肉体」に触りたくなる。
「おもちゃ箱の午後」では、そういう作品は中村梨々の「現在地」。
「ですね」は「いる」「ある」に近いけれど、この「です」は現代口語が生み出した無用のことば。「青い」で十分。「青い」は「動詞」のように活用する。「青い」ということばで空が「青くなる」。「青い」は「体言」ではなく「用言」。この「用言」を「体言」ふうにしてしまうのが「です」という奇妙な口語だ。
意地悪いひとは、じゃあ、中村も北川と同じように「いる」「ある」と書いていることになるじゃないか、と指摘するかもしれないけれど。
でも、私の「感覚の意見」では、そうじゃない。--というか、私は読むときに、自然に「です」を省略して「青いね」と用言としてつかみとる。「です」は口調の問題だ。
で、この詩。
「座っている」と「青い」が「主語」を超越して結びつく。「どちらにも向かずに座っていると」という「私」の状態とは無関係に空は「青い」。空の青さと中村の肉体とは無関係である。その無関係が「動詞」の並列で、ひとつの「肉体」のなかで結びつく。
きのう読んだ豊原の詩に関連づけて言えば、「凝縮」する。
その「凝縮」の中心に「肉体」がある。「座る」という動詞がある。そうやって「肉体」が「絶対」にかわる。「肉体」が「絶対」になれば、その動きは「世界(宇宙)」を動かしてしまう。「世界」は静止していられない。「肉体」といっしょ動く。
「私」が「笑い転げる」(そうしたい)と書いているのだが、このことばを読んだ瞬間、宇宙そのものが中村の肉体のまわりで笑い転げる感じがするのは、「肉体」のなかに「宇宙」が凝縮し、中村の肉体が「絶対」になっているからだ。
だから、ほら。
おんなじように、椅子に座って、どちらにも向かず、足を投げ出して、それからぱったりと倒れて、そのまま笑い転げたいという気持ちになるでしょ?
北川朱実「戻らないよ」を読みながら、私は少し奇妙なことを考えた。
どこにも人影がなく
窓は閉まったままなのに
どこかから息が漏れる家がある
屋根の上で太陽光パネルだけが輝いている
玄関先の傘立てから
確かにあたらしい雨が流れ出ている
世界が静止して見える。とても静かだ。
私は、いろいろことばをつかみ取るとき「動詞」が重要だと考えている。「ことばの肉体」と「人間の肉体」は「動詞」で重なる。私の「感覚の意見」では、どんな外国語にも「動詞」はあって、その動詞は動詞であるかぎり外国人にもつたわる。翻訳できる。
日本語を読んでいると(?)、どうも日本語というのは動詞ではなく、名詞で動いている。主語を省略できる日本語という特徴からみると、いや日本語こそ動詞で動いている(世界を識別している)という意見が聞こえてきそうだが、どうも違う。主語(名詞)を省略できるのは、それだけ強く主語(名詞)を意識しているからだ。常に、名詞(主語)に意識が支配されている--ということではないだろうか。
この北川の詩でも、もし私が「外国人」なら、動詞を「いる」「ある」という状態ではなく、(英語ならbe動詞?)ではなく、一般動詞にするだろう。
どこにも人影がなく
窓は閉まったままなのに
家がどこかから息を「漏らす」(あるいは、家のどこかから息が漏れる)
屋根の上で太陽光パネルだけが「輝く」
玄関先の傘立てから
確かにあたらしい雨が流れ「出す」
「いる」「ある」ではなく「洩らす(漏れる)」「輝く」「出す」という具合にすると、みつめている対象と私の肉体が「動詞」のなかで重なる。「いる」「ある」だと、どうも私と対象が「分離」している感じがする。私がいて、外側に「世界」がある、という感じ。(まあ、人間は「世界内存在である」という言い方にしたがえば、北川の文体の方が正しいのかもしれないけれど……。)
北川の文体(私は、これを「思想/肉体」とも呼びかえることがあるのだが)では、文ことばを読み終わるごとに「家」「太陽光パネル」「雨(水)」が印象に残る。「いる」「ある」では「名詞(もの)」が私の意識を引っ張りまわす。肉体がついていかない。肉体は置いてきぼりにされて「見た影像」が「頭」を引っぱる感じがする。
で、だんだん、私の「頭」のなかが「もの」でごちゃごちゃになってきて、あ、苦しいなあ、思う。これが「洩らす」「輝く」「流れだす」だと、その動きが「肉体」に分散されて「頭」が重くならない。「頭でっかち」にならない。--という感じ。
こういうことは、詩の感想からかけ離れていくことかもしれないけれど、とても重要なことだと思う。
で、なぜ、こんなことを書いたかというと。
最初に引用した書き出しの2連では、その書き方がそんなに「不自然」(独特)という印象ではないのだけれど……。
鯨と旅をした作り話は 荒野にする
天気のいい日は流星にする
この最後の方の行になると「鯨と旅をした作り話」という「主語」が「荒野」「流星」に乗っ取られて、あれ、どっちが主語?と奇妙な酔いのようなものに襲われるのである。「する」という「動詞」さえ、北川はまるで「ある」「いる」のようにつかっている。作り話をするとき荒野が「ある」、流星が「ある」という感じ……。
でも、
荒野に 鯨と旅をした作り話をする
天気のいい日には流星に向かってその作り話をする
こうすると「作り話をする」という「肉体」がより鮮明になる。私には北川が話している姿が見えてくる。顔が見えてくる。北川の書き方だと、北川が消えて「荒野」と「流星」というかっこいい「名詞」がちらついてしまう。
これは私の「感覚の意見」なので、ほかのひとは別な感じをもつかもしれないけれど。
で、そこまで考えたとき、私は私の「誤読」の仕方がわかった。あ、そうか、私は北川の詩を読むとき、「いる」「ある」と「静止状態」として世界を見つめなおすのではなく、一度「一般動詞」に置き換えて、「動詞」を主体にして北川に近づいて行っていたのだなあ、と思い出すのである。
私はときどき(ほんとうに時々だが)、「思いもよらなかった感想」という私信をもらうことがあるが、たぶんその「思いもよらない」は、私が作者が「名詞」を書いているのに、私がそれを「動詞」と読んでいるからなんだろうなあ。
私は「誤読」する。けれど、私は、動詞こそがことばの原点という気持ちがする。「名詞」はいくつもあるが人間の肉体はひとつであって、たとえば「水を飲む」の「水」は外国語で何種類あるか知らないけれど「飲む」という「動詞」は「ことば」をつかわずにつたえることができる。飲んで見せれば、つたわる。飲んで見せれば、飲んでも大丈夫ということが他人につたわる。「水」といくら言っても、それを飲んでいいかどうか、はっきりとはわからない。動詞は「肉体」をつかった「保証」「アリバイ」のようなものなのだ。「肉体」が見えてくると、私は安心するのである。その人が好きになる。
だから、「動詞」が前面に出てくる詩の方に、私はよりすばやく接近していく。「肉体」に触りたくなる。
「おもちゃ箱の午後」では、そういう作品は中村梨々の「現在地」。
どちらにも向かずに座っていると
空が青いですね
椅子に座っていれば足を宙に投げ出して
ぱったりと笑い転げてみたい
「ですね」は「いる」「ある」に近いけれど、この「です」は現代口語が生み出した無用のことば。「青い」で十分。「青い」は「動詞」のように活用する。「青い」ということばで空が「青くなる」。「青い」は「体言」ではなく「用言」。この「用言」を「体言」ふうにしてしまうのが「です」という奇妙な口語だ。
意地悪いひとは、じゃあ、中村も北川と同じように「いる」「ある」と書いていることになるじゃないか、と指摘するかもしれないけれど。
でも、私の「感覚の意見」では、そうじゃない。--というか、私は読むときに、自然に「です」を省略して「青いね」と用言としてつかみとる。「です」は口調の問題だ。
で、この詩。
「座っている」と「青い」が「主語」を超越して結びつく。「どちらにも向かずに座っていると」という「私」の状態とは無関係に空は「青い」。空の青さと中村の肉体とは無関係である。その無関係が「動詞」の並列で、ひとつの「肉体」のなかで結びつく。
きのう読んだ豊原の詩に関連づけて言えば、「凝縮」する。
その「凝縮」の中心に「肉体」がある。「座る」という動詞がある。そうやって「肉体」が「絶対」にかわる。「肉体」が「絶対」になれば、その動きは「世界(宇宙)」を動かしてしまう。「世界」は静止していられない。「肉体」といっしょ動く。
椅子に座っていれば足を宙に投げ出して
ぱったりと笑い転げてみたい
「私」が「笑い転げる」(そうしたい)と書いているのだが、このことばを読んだ瞬間、宇宙そのものが中村の肉体のまわりで笑い転げる感じがするのは、「肉体」のなかに「宇宙」が凝縮し、中村の肉体が「絶対」になっているからだ。
だから、ほら。
おんなじように、椅子に座って、どちらにも向かず、足を投げ出して、それからぱったりと倒れて、そのまま笑い転げたいという気持ちになるでしょ?
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