詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「戻らないよ」、中村梨々「現在地」

2014-02-06 10:05:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「戻らないよ」、中村梨々「現在地」(「おもちゃ箱の午後」07、2014年01月31日発行)

 北川朱実「戻らないよ」を読みながら、私は少し奇妙なことを考えた。

どこにも人影がなく
窓は閉まったままなのに
どこかから息が漏れる家がある

屋根の上で太陽光パネルだけが輝いている
玄関先の傘立てから
確かにあたらしい雨が流れ出ている

 世界が静止して見える。とても静かだ。
 私は、いろいろことばをつかみ取るとき「動詞」が重要だと考えている。「ことばの肉体」と「人間の肉体」は「動詞」で重なる。私の「感覚の意見」では、どんな外国語にも「動詞」はあって、その動詞は動詞であるかぎり外国人にもつたわる。翻訳できる。
 日本語を読んでいると(?)、どうも日本語というのは動詞ではなく、名詞で動いている。主語を省略できる日本語という特徴からみると、いや日本語こそ動詞で動いている(世界を識別している)という意見が聞こえてきそうだが、どうも違う。主語(名詞)を省略できるのは、それだけ強く主語(名詞)を意識しているからだ。常に、名詞(主語)に意識が支配されている--ということではないだろうか。
 この北川の詩でも、もし私が「外国人」なら、動詞を「いる」「ある」という状態ではなく、(英語ならbe動詞?)ではなく、一般動詞にするだろう。


どこにも人影がなく
窓は閉まったままなのに
家がどこかから息を「漏らす」(あるいは、家のどこかから息が漏れる)

屋根の上で太陽光パネルだけが「輝く」
玄関先の傘立てから
確かにあたらしい雨が流れ「出す」

 「いる」「ある」ではなく「洩らす(漏れる)」「輝く」「出す」という具合にすると、みつめている対象と私の肉体が「動詞」のなかで重なる。「いる」「ある」だと、どうも私と対象が「分離」している感じがする。私がいて、外側に「世界」がある、という感じ。(まあ、人間は「世界内存在である」という言い方にしたがえば、北川の文体の方が正しいのかもしれないけれど……。)
 北川の文体(私は、これを「思想/肉体」とも呼びかえることがあるのだが)では、文ことばを読み終わるごとに「家」「太陽光パネル」「雨(水)」が印象に残る。「いる」「ある」では「名詞(もの)」が私の意識を引っ張りまわす。肉体がついていかない。肉体は置いてきぼりにされて「見た影像」が「頭」を引っぱる感じがする。
 で、だんだん、私の「頭」のなかが「もの」でごちゃごちゃになってきて、あ、苦しいなあ、思う。これが「洩らす」「輝く」「流れだす」だと、その動きが「肉体」に分散されて「頭」が重くならない。「頭でっかち」にならない。--という感じ。
 こういうことは、詩の感想からかけ離れていくことかもしれないけれど、とても重要なことだと思う。

 で、なぜ、こんなことを書いたかというと。
 最初に引用した書き出しの2連では、その書き方がそんなに「不自然」(独特)という印象ではないのだけれど……。

鯨と旅をした作り話は 荒野にする
天気のいい日は流星にする

 この最後の方の行になると「鯨と旅をした作り話」という「主語」が「荒野」「流星」に乗っ取られて、あれ、どっちが主語?と奇妙な酔いのようなものに襲われるのである。「する」という「動詞」さえ、北川はまるで「ある」「いる」のようにつかっている。作り話をするとき荒野が「ある」、流星が「ある」という感じ……。 
 でも、

荒野に 鯨と旅をした作り話をする
天気のいい日には流星に向かってその作り話をする

 こうすると「作り話をする」という「肉体」がより鮮明になる。私には北川が話している姿が見えてくる。顔が見えてくる。北川の書き方だと、北川が消えて「荒野」と「流星」というかっこいい「名詞」がちらついてしまう。
 これは私の「感覚の意見」なので、ほかのひとは別な感じをもつかもしれないけれど。
 で、そこまで考えたとき、私は私の「誤読」の仕方がわかった。あ、そうか、私は北川の詩を読むとき、「いる」「ある」と「静止状態」として世界を見つめなおすのではなく、一度「一般動詞」に置き換えて、「動詞」を主体にして北川に近づいて行っていたのだなあ、と思い出すのである。
 私はときどき(ほんとうに時々だが)、「思いもよらなかった感想」という私信をもらうことがあるが、たぶんその「思いもよらない」は、私が作者が「名詞」を書いているのに、私がそれを「動詞」と読んでいるからなんだろうなあ。
 私は「誤読」する。けれど、私は、動詞こそがことばの原点という気持ちがする。「名詞」はいくつもあるが人間の肉体はひとつであって、たとえば「水を飲む」の「水」は外国語で何種類あるか知らないけれど「飲む」という「動詞」は「ことば」をつかわずにつたえることができる。飲んで見せれば、つたわる。飲んで見せれば、飲んでも大丈夫ということが他人につたわる。「水」といくら言っても、それを飲んでいいかどうか、はっきりとはわからない。動詞は「肉体」をつかった「保証」「アリバイ」のようなものなのだ。「肉体」が見えてくると、私は安心するのである。その人が好きになる。
 だから、「動詞」が前面に出てくる詩の方に、私はよりすばやく接近していく。「肉体」に触りたくなる。
 「おもちゃ箱の午後」では、そういう作品は中村梨々の「現在地」。

どちらにも向かずに座っていると
空が青いですね
椅子に座っていれば足を宙に投げ出して
ぱったりと笑い転げてみたい

 「ですね」は「いる」「ある」に近いけれど、この「です」は現代口語が生み出した無用のことば。「青い」で十分。「青い」は「動詞」のように活用する。「青い」ということばで空が「青くなる」。「青い」は「体言」ではなく「用言」。この「用言」を「体言」ふうにしてしまうのが「です」という奇妙な口語だ。
 意地悪いひとは、じゃあ、中村も北川と同じように「いる」「ある」と書いていることになるじゃないか、と指摘するかもしれないけれど。
 でも、私の「感覚の意見」では、そうじゃない。--というか、私は読むときに、自然に「です」を省略して「青いね」と用言としてつかみとる。「です」は口調の問題だ。
 で、この詩。
 「座っている」と「青い」が「主語」を超越して結びつく。「どちらにも向かずに座っていると」という「私」の状態とは無関係に空は「青い」。空の青さと中村の肉体とは無関係である。その無関係が「動詞」の並列で、ひとつの「肉体」のなかで結びつく。
 きのう読んだ豊原の詩に関連づけて言えば、「凝縮」する。
 その「凝縮」の中心に「肉体」がある。「座る」という動詞がある。そうやって「肉体」が「絶対」にかわる。「肉体」が「絶対」になれば、その動きは「世界(宇宙)」を動かしてしまう。「世界」は静止していられない。「肉体」といっしょ動く。

椅子に座っていれば足を宙に投げ出して
ぱったりと笑い転げてみたい

 「私」が「笑い転げる」(そうしたい)と書いているのだが、このことばを読んだ瞬間、宇宙そのものが中村の肉体のまわりで笑い転げる感じがするのは、「肉体」のなかに「宇宙」が凝縮し、中村の肉体が「絶対」になっているからだ。
 だから、ほら。
 おんなじように、椅子に座って、どちらにも向かず、足を投げ出して、それからぱったりと倒れて、そのまま笑い転げたいという気持ちになるでしょ?
たくさんの窓から手を振る―中村梨々詩集
中村 梨々
ふらんす堂
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西脇順三郎の一行(81)

2014-02-06 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(81)

「壌歌」(Ⅱ)

生存競争は自然の法則である                    (93ページ)

 この詩も長いので、1ページから1行を選んで書いていく。
 引用した行は冒頭の一行。とてもスピードがある。そのスピードは、そこに書かれていることが誰もがうすうす「わかっている」ことだからである。「わかっている」ことは、次のことばを動かす。あるいは、わかっていることに乗って次のことばが動いていく。加速する。加速しすぎて脱線する。そして脱線するのは「知性」というものにきまっている。
 この加速、逸脱と向き合っているのが、このページの後半にある次のことば。1ページ1行というのルールに反するが引用しよう。

「月もおちて星の蝋燭が
一本もついていない
天国もこのごろ不景気で
節約しているんだべ」

 知性でしかたどりつけないような表現のあとに「……だべ」という口語が飛び出す。野蛮が飛び出す。野蛮が、知性を突き破って、笑いになる。この破壊は、加速というよりも知性の暴走を無にしてしまう破壊である。ブレーキというよりも破壊としての、笑いとしての野蛮。
 そこに音楽がある。破壊の激しい笑いの音楽がある。乱調の音楽と定義すれば、西脇が多用する「行わたり」のリズムと通じることになるかもしれない。

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