詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「車内で」、岩佐なを「きげん」

2014-02-28 11:48:36 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「車内で」、岩佐なを「きげん」(「孔雀船」83、2014年01月15日発行)

 坂多瑩子「車内で」、岩佐なを「きげん」は、ともに電車のなかで隣り合った人との関係を描いている。知らない人とのあいだで、ことばはどう動くか。肉体(思想)はどう動くか。私は、こういうあからさまな(?)思想(肉体)が大好きである。
 まず、坂多瑩子「車内で」。

人違いです
で終わるはずが
嘘をついているだろう なぜ逃げる
顔がすっと近づいてきた
目のなかに豹変したとなりの男が坐っている
出ていってようなんて気の弱いわたしはいえない

 なんとなく都会で起きそうな人違い、言いがかり(?)、新手の軟派(古い!)のようでもあるけれど……。
 「目のなかに豹変したとなりの男が坐っている」の「目のなかに……坐っている」が、うーん、すごい。男と坂多の「目のなか」ではなく「隣の座席」に坐っている。それを坂多は「目で」見ている。でも、「目のなか」と感じる。それくらい男は坂多の「肉体」の内部にはいり込んでいる。そのとき坂多の「肉体」は「目」だけになってしまっている。「全身」が「目」なのである。こういう一言を読むと、もうそれだけで一篇の詩を読んでしまった感じ、一冊の詩集を読んでしまった感じになる。その詩人に会った気持ちになるなあ。
 だれかに夢中になっている人のこと、よく「目のなかに○○がはいり込んでいる(○○しか見ていない)」というような感じのことばでからかうことがあるが、坂多以外のひとから見たら、まあ、「夢中」ではないのだけれど、そんなふうに見えるくらいにその男の姿(態度)に釘付けになってしまっているということなのだろうけれど、そういうときの「客観」と「主観」が入り交じった感じだねえ。この「入り交じり」がおもしろいなあ。うん、わかる。坂多のことばを読んでいる(体験を聞いている)にもかかわらず、まるで自分で体験している感じ。
 で、次の「出ていってようなんて気の弱いわたしはいえない」にも、「主観」と「客観」が不思議に入り組む。「気の弱いわたし」って、「主観」、それとも「客観」? わからないけれど、私たちはしばしばこういう言い方をする。その変なまじり具合は「出ていってよう」の「よう」という引き延ばされた語尾のなかにも含まれている。「出ていって」あるいは「出ていって」というきっぱりした言い方ではなく、「困るんだけれど……」という「ニュアンス」を含んでいる。「意味」は「出ていって(近づかないで、離れて)」なのだが、そこに坂多の「心理」が、つまり「こころ」が含まれている。坂多は「困った」とは書いていないんだけれど、その「心理」がわかる。それは、単にそういう「語尾」を聞いたことがあるだけではなく、そういう「語尾」で何かを訴えたことがある--それを「肉体」がおぼえていて、よみがえるんだねえ。
 こういう「肉体」の反応(相手の「語尾」だとか、ほんの小さなしぐさ)というのは、ことばでいろいろ説明する以上に他人につたわる。他人というのは……自分の思いを伝えたくない人をも含む。たとえば、この詩の場合、男、だね。男にも坂多のこころは手にとるようにわかる。わかってしまっている。小さな「肉体」の変化で、「肉体」の外に出てしまっているんだからね。
 あ、こうなると、だめだねえ。
 「こころ」はいったん体の外に出てしまったら、「こころ」をつかまえられてしまう。それは「肉体」をつかまれたときより始末が悪い。坂多以外の人は、そこで起きている「こと」を知らない男と坂多の「肉体」の争い、ぶつかりあいではなく、「こころ」のつかみあいと見てしまうからね。簡単に言いなおすと、それは「男女のなれあい」に見えてしまう。「こころ」がつかみあいをしているのは、ふたりが「こころ」を通い合わせている仲、つまり知り合いと思われてしまう。
 この変な感じが、紆余曲折して(?)、

豹変男を真っ正面からにらみつけてやった
それで
一件落着したけど
乗客はいつのまにかいなくなって
うすぐらい車内には
わたしそっくり女がうすく立っている
豹変男はもっとうすくなっている
わたしと間違えられるといけませんから
こちらにきてかけませんか

 さて、「こちらにきてかけませんか」とは、坂多が、だれに対してかけたことばなのだろうか。「わたしそっくりの女」なのか。それとも「うすくなった豹変男」なのか。
 「意味」的には、「わたしそっくりの女」かもしれない。その女に、豹変男が近づいてく、そして「なぜ逃げる」と詰問する……そんなことが起きるといけないので、「こちら(わたしの)となりにきてかけませんか」と「こころ」のなかで言ってみる。
 「立っている女」は、一度は男から逃げるようにして席を立った坂多自身かもしれない。それを追いかけるようにして男が席を立った。そのしつこさに、坂多が「真っ正面からにらみつけ」、人違いだと言った。そのあと、少し気まずいような感じ、気まずい感じを男に与えてしまったという妙な気弱さのようなものが出て、それが「うすく」という印象なのかもしれない。
 で、そんなことろに立っていないで、あなたは(わたしは)悪くないのだから、もとの場所に座ろう、と自分自身に呼び掛けているのかもしれない。
 でもね、私は、坂多が男に対して、「こちらにきてかけませんか」と呼び掛けているように読むのもおもしろいかなあ、と思う。
 人違いを多くの人の前で、きっぱりと指摘され(人違いです、だけではなく、追いかけまわすのはやめてくださいというような調子で指摘され)、ちょっと困っている男。それは、いわば「嘘をついているだろう なぜ逃げる」と迫られたときの坂多のように困惑している。周りの人がみんな男の「目のなかに」視線を注いでいる。はいり込んでいる。
 それが、坂多には、わかる。「肉体」の感覚としてわかる。腹を抱えてうずくまっている人間を見るとその人が腹が痛いのだとわかるように、わかってしまう。だから、同情して(?)、思わず声をかけてしまう。
 そう読んでもおもしろいかなあ、と思う。そんなふうに、なんだか人間が入り乱れてしまった方が、坂多には申し訳ないが、おもしろいと思う。詩の最初に出てきた「目のなか」の「目(肉体)」の感じがずっとつづくようでおもしろいと思う。
 きっぱりとした態度よりも、何かあいまいに揺れてしまって、ほんとうはそんなことをしたくないのにしてしまった……というようなことのほうが、そういうことってあるよなあ、と肉体の奥を刺戟される感じがする。

 あ、こういうことの、どこが「思想」かって?
 「思想」というのは、別に、むずかしいことばで解きあかす「世界の秘密」ことではないからね。世界の構造分析することばが「思想」なのではなく、「いま/ここ」で生きている「肉体」といっしょにあるすべての「思い」、生きているときに生きているままのことばが「思想」というものだからね。
 幸せになりたい、幸せになるためにはどうすればいいか--それを語ることばはすべて「思想」。だれかが人違いして自分に近づいてくる。そのひとをどう振り切って、自由な自分になれるか、というのが、このときの坂多の思い。そして、実際に振り切ったあと、それとは違う「幸せ」をみつけて、その幸せにむけてことばを動かす。それが「思想」。そこにある「肉体の動き」が「思想」。この詩でいえば、ほら「こちらにきてかけませんか」と声をかけている。この「肉体」の動き、声をかけるという「動詞」が「思想」。
 という具合に、適当に書いておこう。

 岩佐なを「きげん」についてもいろいろ書きたいが、時間がなくなってしまった。(私は40分以上モニターに向かっていると目が働かなくなる。)で、端折って書く。

電車の中で目をあけると
となりに幼児がいる
幼児はきげんが、いい
拙者はきげんが、ない

 坂多のように「なぜ逃げる」ということばで追いかけては来ないが、「目」と「目」があってしまうと、人間関係がはじまってしまうから、やっかいだ。

幼児は手をのばしてくる
以前出合った子の
ひとみの中にはるりの海
はりの原があって
かがやいていた
まぶしすぎて返答に困った

 岩佐の書いていることは、私が引用したこととは別な部分に「ポイント(要点)」があるのかもしれないけれど、私は「意味」は気にしない人間なので、そこからちょっと逸脱した、こういう部分に立ち止まって、あ、ここはいいなあ、と思うのである。
 無垢なこどもの瑠璃、玻璃のようなひとみ。あまりに美しいので、ちいさなひとみが海原に見えてしまう。吸い込まれてしまう。実際に、その海のなかに岩佐は入ってしまったのだろう。そういう体験をできる肉体(目--「目をあけると」ということばで詩ははじまっていた)といっしょに動くことばが私は好きだ。


ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
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西脇順三郎の一行(102 )

2014-02-28 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(102 )

「ヒルガオ」

骨接ぎの入口のザクロの花に                   (112 ページ)

 「骨接ぎ」は「整骨院」のことである。いまは「骨接ぎ」とは言わないだろう。西脇がこの詩を書いた当時も医院(病院)には「整骨院」と書かれていると思う。しかし、西脇はそのとりすましたことばよりも、昔からひとが口にしている「音」が好きなのだろう。昔からある「音」は、それだけ「肉体」をくぐってきている。「肉体」によってととのえられた「思想」を含んでいる。
 それは「工業品(加工品)」の音ではなく、野菜や雑草のように、人間の「大地」から自然発生的に生まれてきた「音」になったことばである。「骨」を「整える」ではなく、あくまで「骨」を「接ぐ」。「接ぐ」には「整える」よりも生々しい肉体のうごきがある。
Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
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