詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」(★★★★★)

2014-02-11 11:45:48 | 午前十時の映画祭
フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」(★★★★★)

監督  フランシス・フォード・コッポラ シュツエン マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デュヴァル

 3年前(?)、「午前10時の映画祭」で「ニュープリント」の「ゴッドファザー」を見たときは怒鳴り散らしたいくらいに頭に来た。冒頭の、マーロン・ブランドが「依頼」を受けるシーンの、漆黒の暗闇が薄っぺらい。昔見た、黒の輝きがない。外は結婚式で明るいのに、鎧戸をおろし、暗い室内で、暗いところでしか言えない会話をしている--その濃密な「闇」が「ニュープリント」では完全に変質していた。マフィアが着る礼服も、量販店で売っている礼服だってもっとしっかりした黒だぞ、といいたくなるくらいの安っぽい黒だった。特に屋外のシーンでは光が反射して、ほとんど灰色だった。
 デジタル版はどうなのか。それだけを確認するつもりで行ったのだが、よかった。見てよかった。艶やかと言っていいような闇が復活していた。礼服もきちんと黒。これでなくっちゃね。
 映画というのは、ストーリーよりも、影像情報そのものが大事だ。ストーリーに要約できない部分におもしろさがある。冒頭のマーロン・ブランドが口に綿を詰めてほほを膨らませ、年取った男を演じるシーンなんて、真似したくなるでしょ。部屋を暗くして、猫を撫でながら、ぼそぼそぼそ。白いシャツだけが、部屋中の光を集めて発光している--そんなポートレートとって、フェイスブックにのせてみたい。「あ、ゴッドファザーだ」と誰もが思う。そういうことが大事。そのためには影像はしっかりしていないと。色はきちんとしていないと……。
 映画はカメラがいのち。影像がいのち。と、書きながら思い出すのは、キューブリックの「バリー・リンドン」の女が入浴するシーン。ろうそくの明かりだけで撮っているのだけれど、あの時代の入浴は下着を着たまま。で、裸は見えないんだけれど、な、なんと。女が体をバスタブにひたすと下着が濡れて、透けて、恥毛が浮かび上がってくる。それを、あの時代にろうそくの光、薄暗い光のなかでしっかり影像にしている。なんでも焦点距離の非常に短いレンズで撮った(新しいカメラで撮った)という話だけれど、いやあ、すごいよねえ。
 それにしても、時代は変わるねえ。
 「ゴッドファザー」がはじめて公開されたとき、その暴力描写が残酷(リアル?)すぎると話題になったと思う。バーで、掌にナイフを突きたてられ、後ろから首を絞められるシーンとか、ジェームズ・カーンが高速道の入り口で銃弾を浴びるシーン、裏切り者が車の助手席で後ろから絞殺されるとき、足で車のフロントガラスを割るシーン(これは、私は大好きなシーンのひとつ)とか。でも、いま見ると、ごく普通。もっと激しい暴力シーンがあふれかえっている。人間というのは、こういう「過激さ」にはすぐに麻痺してしまうんだね。
 で、そんなことを考えると、やっぱり最後は過激でも何でもないシーンの美しさが映画の勝負どころという気がする。暴力シーンも、コッポラのこの作品はフロントガラスのシーンにしろ、何か「美しい」ものがある。(コーエン兄弟の「ノーマンズランド」の絞殺のシーン、首を絞められながら男が足をばたばたさせる。その足跡がリノリウムの床に花のような美しい模様を描く--というのは、絶対に「ゴッドファザー」の影響を受けている。)いままで見たことのない美を見るというのはうれしいねえ。

 と、書きながら。
 私は実は困っている。私は網膜剥離で眼の手術をしていらい、どうも眼が落ち着かない。デジタル画面がちらついて見える。私の眼のせいなのだろうけれど、デジタル版そのものにも問題はないのだろうか。フィルムの美しさがなつかしく思える。もう40年以上も前に見た最初の「ゴッドファザー」が忘れられない。
                       (2014年02月08日、天神東宝4)

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齋藤健一「療病」ほか

2014-02-11 11:13:53 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤健一「療病」ほか(「乾河」69、2014年02月01日発行)

 齋藤健一の詩は、いつ読んでもよくわからない。断片的で全体がつかめない。けれど、とても好き。考えてみれば、詩を読むとき、私は「全体」を気にかけてはいない。あることばに出会い、そのことばを中心に「誤読」をしているだけだ。だから全体などわからなくてもいいのだ。瞬間的に、あることばに引きつけられれば、それでいいのだ。
 たとえば「療病」。

電報が異国から来る。部屋の硝子はまっ暗である。この
世ならぬことではないのだ。ベッドの脚に似た嫌気が襲
う。ぼくは瞳を天井にふりむける。失笑のように黒ずん
でゆく靴音。清潔な楕円の皿。地下室からエレベーター
はゆるぬるとのぼる。立ち止まると若い髪がはっきりと
みえる。

 病室に電報が届く。外国で、誰か知り合いが死んだ。でも、齋藤は病院に入院しているので葬儀にもいけない。ぼんやりと、その死んだ誰かのことを思っている。病院の廊下には看護婦が楕円形の皿(シャレー?)を持って歩いている。暗いのだけれど、立ち止まるとその看護婦が若いことがわかる--と想像している。
 そんな「全体」を私はかってに捏造する。(誤読する。)
 そして、

ベッドの脚に似た嫌気が襲う。

 ここがいいなあ、と思う。--というのは、逆だね。この文が美しいなあと思い、そのとき感じたことにあわせて「全体」を捏造したのである。「ベッドの脚に似た嫌気」というのは、とても奇妙なことばで「流通言語」にはない表現である。で、その奇妙なところに私はひかれた。私の「肉体」が齋藤につかまれたような、奇妙な「触覚」のようなものを感じた。
 「嫌気」というのは「名詞」だけれど、その「名詞」がすばやくほどけて「動詞」になる。「嫌な気分」が「動く」。「嫌」が動く。「嫌」は「嫌う」という「動詞」になって動く。ベッドに寝たままの状態。ああ、嫌だなあ、がベッドを嫌う気持ちになって動く。ベッドというのは、「脚」があるからベッドである。脚がなかったら布団だ。脚を見て、それがベッドだと思う。そしてその脚はあるだけであって、歩くことはできない。それが入院している齋藤、ベッドで横になっている齋藤の象徴である。--というようなことが未整理のまま、押し寄せてくる。
 整理して書けば、状況がわかりやすくなるのかもしれないけれど。そういう整理するということ、「流通言語化」するという「暇」を与えずに、何か未整理な「感覚」が感覚のまま、そこに「ある」。その感じに、私の「肉体」はのみこまれていく。齋藤のことばが未整理(未分化?)なので、その未整理(未分化)の状態に、私の「肉体」のなかの未整理、未分化が混じりあう--区別できないものになる。
 私は齋藤になってしまうのである。齋藤の「肉体」になってしまう。もちろん、この「なってしまう」は「誤読」である。私は私だし、齋藤は齋藤だ。そして、齋藤はいつでも「谷内の書いていることは間違っている」ということができる。しかし、齋藤が「間違い」だと批判したとしても、私の思っていることは変わらないのだ。そう思ったということは変わらないのだ。むしろ、「間違い」であるからこそ、そこに「何か」がある。「間違い」をさそう何か、「間違い」を生み出す何。
 それが、詩。

 そして、こうした詩の底に「動詞」の独特のつかい方がある。齋藤のことばは「動詞」によって詩になっている。
 齋藤のことばは文章として短いだけではなく、「動詞」そのものも短い。たとえば書き出しの「電報が異国から来る。」の「来る」。「流通言語」では「届く」かもしれない。「届く」に比べると「来る」が短い。そして、早い。「届く」の場合、誰かが「届ける」のだが、「来る」の場合、その誰かを省いて電報そのものが「来る」。人が省略される「速さ」がある。
 「ベッドの脚に似た嫌気が襲う。」の場合は、「襲う」という「動詞」があるのだが、さっと私が書いたように「嫌気」のなかにも「動詞」がある。「気持ち(気分)」が「襲う」のではなく、「嫌う」という「動詞」がそのまま「襲う」。動詞×動詞、という形で、動きが加速する。動詞が短くて、速い。
 「ぼくは瞳を天井にふりむける。」というのは、一転、動詞が遅くなる。「天井を見る。」の方が速くて、しかも、わかりやすいかもしれない。けれど、ここで「瞳をふりむける」と遠回りになることで、主語が「瞳」以外にも広がっていく。文法上はたしかに「瞳」が「ふりむける」ときの「主語(主題?)」なのだが--実際の肉体の動きは違うね。瞳だけが動くのではない。体全体がベッドの上で向きを変える。体全体を天井に「ふりむける」。気持ちが「肉体」全体にひろがっていく。「肉体」全体が、訃報を受け取ったときの衝撃を受け止める。
 訃報を読んだのは目かもしれないが、そのとき衝撃は「肉体」全体にひろがっていく。そして、それが「ふりむける」ということばで「肉体」の全体にひろがるからこそ、齋藤の「肉体」だけではなく、病院「全体」へもひろがっていく。「嫌気」につながるもの、「病院」を特徴づけるものが意識されはじめる。齋藤をベッドの上に閉じ込めるのは病気だけではない。病院そのものが齋藤をベッドの上に閉じ込める。
 廊下をあるく看護婦の足音。(電報を運んできた郵便配達人の足音かもしれない。)エレベーターの音……。
 短く速い「動詞」から、長くゆったりした「動詞」への変化が詩そのものの「構造」にもなる。そういうことも感じさせてくれる。

 「第二の月」の書き出しも大好きだ。

湾はぐっと曲がる。ひとが居ないのだ。みぞれは落ちる
あいだに一つ一つひかりを盗む。

 湾は自分では曲がらない。「曲がる」という自動詞は奇妙である。「流通言語」にはならない。けれど「曲がる」と自動詞にすることで、ことばが速くなる。この自動詞の延長に、「盗む」が来る。みぞれは何かを盗むということは現実にはできない。「盗む」は比喩なのだが、この「動詞の比喩」は、実は「曲がる」から始まっている。
 ここにはいわば「自動詞の和音」がある。
 「文体は音楽である」という思いは、齋藤のことばを読むと、いっそう強くなる。

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西脇順三郎の一行(86)

2014-02-11 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(86)

「壌歌」(Ⅱ)

タマデンの線路が曲つてのびている                 (98ページ)

 「曲る」は西脇の好む描写だが、曲がってそのあとはどうなるのか。あまりその先のことは書かないが、ここでは「のびている」と動詞がつづいている。「曲がる」そのものは、直線の拒絶であり、拒絶は切断であると考えると、「のびる」は何だろう。「接続」とは違うなあ。
 ふと私は西脇の好きな「永遠」ということばを思い浮かべる。はてしなくまっすぐでも永遠だろうけれど、西脇の永遠は、曲がることで果てしない先にあるではなく、その「曲がる」という運動そのもののなかにあるように思えてくる。まっすぐよりも曲がる方が「運動」に変化があって、そこに「味」がある。「味」を含めて「永遠」なのだ。


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