詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーティン・スコセッシ監督「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(★★)

2014-02-10 11:43:10 | 映画
マーティン・スコセッシ監督「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(★★)

監督マーティン・スコセッシ 出演 レオナルド・ディカプリオ、ジョナ・ヒル、マーゴット・ロビー、マシュー・マコノヒー

 レオナルド・ディカプリオは役者としては透明すぎるのかもしれない。透明感を利用して他人を騙す、というのはたしかにぴったりである。だから「キャッチ・ミー、イフ・ユー・キャン」はおもしろかった。しかし、その結果が重苦しいものになると、重さを支えきれない。重さと透明感は相反する。で、その重さを演技で出そうとすると、とたんにワンパターンになる。「苦虫をかみつぶした」という「流通演技」になってしまう。見ていて、新しい感じかしない。
 「華麗なるギャッツビー」も今回の作品も駄作。ディカプリオが駄作にしてしまっている。ロバート・レッドフォードのように嘘っぽいとか、「ヒッチャー」のルトガー・ハウアーのような色男で人懐っこいのだけれど、その人懐っこさがこわい、という感じがないと、どうもおもしろくない。
 おもしろいのは、マシュー・マコノヒーの出てくるシーンと、最初の「だまし」のシーンかなあ。
 マシュー・マコノヒーには変な不透明感があって、それが不透明をそのまま押し出してくる。ランチタイムなのにマティーニーをのみ、レストランなのに胸をたたきながら奇声を発する。その勢いにのみこまれてディカプリオが真似をする。透明だから、不透明ににはすぐに染まってしまう。このあたりの感じが、ちょっとぞくぞくする。映画はどうなるのかなあ、と期待させる。
 で、そのあと。証券会社がつぶれ、小さな株屋の就職口を見つけ、そこでくず株を電話で売り込む。その最初の商売のシーン。ディカプリオが演じているのだけれど、その売り込みの演技は、いわばマシュー・マコノヒーのスタイル。(実際にマシュー・マコノヒーが演じて見せるわけではないけれど、ようするにはったり。)これは、まあ、感心する。映画ではまわりの株屋が感心して呆然と見守っているけれど、「こんなでたらめを、よくもまあ……」というのが、なかなかおもしろい。これを延々とやりつづけられるといいのだろうけれど、一回かぎり。同じことの繰り返しは一見退屈と思うけれど、延々とつづくとそこに、微妙なずれが生じて、それが日常の手ごわさのようなものになるんだけれど、この映画は、そういう「ていねい」なことはしない。「ていねい」を省略して、「はで」へと暴走してしまう。こうなってくるとディカプリオの透明感、軽さがどうもおもしろくない。暴走を引っぱっていく「重量」があれば違ってくるんだろうけれど、暴走の上っ面にのっている感じで、暴走そのものが軽い。実話--であるはずなのに、真実味がない。
 唯一の真実味があるとすれば--うーん。ディカプリオがマシュー・マコノヒーの真似をして社員を鼓舞するところかなあ。胸をどんどんたたき、奇声を発する。それを社員全員でやって「ひとつ」になる。これだったら、マシュー・マコノヒーが主役をやってしまえばよかったのだ。マシュー・マコノヒーが前面に出て映画を引っぱっていけば、きっと違った映画になる。
 役どころを間違えているね。
                        (2014年02月09日、天神東宝3)
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橋本篤『より添って』

2014-02-10 10:26:08 | 詩集
橋本篤『より添って』(編集工房ノア、2014年02月04日2刷発行)

 橋本篤『より添って』には「認知症の人々と共に」というサブタイトルがついている。詩はそのサブタイトル通りの内容。ことばの冒険はない。そのかわりに認知症のさまざまな姿がわかる。「事実」をつたえるために、いわゆる詩人のことばを排除している。「詩的」といわれることばを排除している。論理も「詩的」であることを避けている。この作品の、どこに詩があるだろうか。
 「ふみさんの徘徊」はホームの廊下を歩きまわる百歳を描いている。周りの人は「徘徊だ」という。

本当にそうだろうか

彼女の大脳の中に
わずかながらも残されている
健常な神経細胞たち

紡がれるものは
タンポポの毛のような
ちいさな知性かもしれない

けれど そんな知性にとって
廊下はたのしい哲学の小道だ

 「タンポポの毛」という比喩が詩だろうか。「哲学の小道」という比喩が詩だろうか。そうかもしれない。「健常な神経細胞」ということばに私は橋本の「職業」読み取る。「知性」というものを自分の生き方としている姿勢も感じる。--でも、それは詩とは少し違う。
 私が詩を感じる瞬間は、「本当にそうだろうか」という一行だ。
 自分が見ている世界、そして見たことから判断していること、「本当にそうだろうか」と疑問に思う。疑問というのは、ソクラテスに始まる「散文」の精神なのだけれど、疑問からことばが動く--その動く瞬間に、私は詩を感じる。
 そこにある世界--それが本当かと疑問に感じたときから、ひとは何をたよりにことばを動かすのか。自分の知っていること、「肉体でおぼえていること」である。
 橋本は医師である。内分泌・消化器・精神医学の専門家である。だから「大脳」や「健常」「神経細胞」という、まず橋本に親しいことばが動く。橋本にとっていちばんわかりやすいことばなのだと思う。私はそのことばを「ことば」としてしか知らないが、橋本は「もの」として肉体で知っている。わかっている。
 まず、そういう自分に親しいものを通って、「ふみさん」という自分ではない「肉体」へ動いていく。そのときに「タンポポの毛」が出てくる。これは「神経細胞」の神経の網(?)、あるいは神経の触手(?)のようなものかもしれない。タンポポの毛はぼんやりみつめると丸いけれど、よく見ると、その丸さはこまかく枝わかれた線でつくられている。脳全体を走っている神経の姿を見ているのかもしれない。そこに橋本の「肉体」のおぼえていることが重なっているのを感じる。「哲学の小道」も、橋本が京都の「哲学の小道」を歩いているとき、あ、タンポポが咲いていたなあ、タンポポの綿毛を見たなあ、という本当の体験があってでてきたことばなのだろうと思う。
 「本当にそうなのだろうか」という疑問が、橋本を動かす。橋本の「肉体」を動かして、ことばを動かす。その橋本の「肉体」が「ふみさん」の「肉体」に重なる。橋本は「ふみさん」を見ながら、自分の「肉体」を見ている。別個の肉体、二つの肉体が、そのとき重なり合う。「大脳」も「神経細胞」も「タンポポ」も「哲学の道」も橋本には「わかる」。「わかる」ことを手がかりにして、他者と重なる--そういう運動が詩なのである。

どんなことがあっても
決して怒らない

たとえ後ろから叩かれたって
ウフッと笑うだけである

オヤツだって最後の最後まで
手を出さない

誰からも暖かい声を
かけられるふみさん

彼女のまわりにある日常は
生活の隅々にまで広がる無欲の海

 ことばで「ふみさん」を追いかけながら、橋本は「ふみさん」になろうとしている。「認知症」「徘徊」ということばで閉じ込められているけれど、本当は、そこには「可能性」がある。橋本は「事実」を追いかけながら、「事実」を追い越して「可能性」をつかみとる。
 ことばは、「流通言語」のを叩きこわし、ことばそのものの、まだ存在しない可能性を表現することだが、橋本のことばも「まだ存在しない可能性」へ向かって動いている。その動きの中に詩がある。その詩の出発点が「本当にそうなのだろうか」という疑問である。疑問があって、はじめて存在しない可能性をつかみ取ることができる。

 橋本は、また別の見方(思想)もつかみとっている。「超高齢と認知症で苦しんでいる人々」の施設を回診しながら思ったことを書いた「ベッドの上の勝者たち」。その後半部分。

最近私はハタと立ち止まる
この人たちは本当に弱者なのか
本当に気の毒な人々なのか

ここまで生きてきた彼ら
眼の前は
見渡す限り九十歳前後の人々ばかり
百歳を超す人もチラホラ見える

この歳にまでたどり着けず
無念な思いのなか
倒れて逝ってしまった多くの人々がいる

そう思って眺めてみると

眼の前の弱者は
突然光り輝く商社に見えてくるのだ

よく頑張ってこられましたね
たくさんのハードルを越えてこられたのですね
困難に打ち勝つコツを教えてくれませんか

 この詩では、橋本は「ハタと立ち止まる」、そして「本当なのか」と考える。「本当」を探す。そうするといままで見ていた風景とは違う「可能性」としての世界が見えてくる。その「可能性」は、その世界で生きてきた「肉体」が見る「可能性」である。
 橋本は「そう思って眺めてみると」と簡単に書いているが、この「そう思って」のなかには橋本の「肉体」がある。認知症、超高齢のひとの姿と接しつづけるという日常を知らない私が「そう思って眺める」のとは違うのである。
 自分自身の「肉体」が「おぼえていて、わかっていること」、それを動かし(つかって)、世界を組み立て直す--そのとき、そこに詩が生まれる。
 私がいつも読んでいる詩とは違うのだけれど、橋本の書いていることばには、そういう詩がある。そして、その詩のあり方は、私がいつも読んでいる詩とは違わないということを知った。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(85)

2014-02-10 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(85)

「壌歌」(Ⅱ)

人間の眼にはうつらない!                     (97ページ)

 きのう、脇道を歩いてしまった。で、「84」とはちょっとことばがつづかないのだが……。まあ、気にすまい。詩なのだから、どこから読んだっていい。
 「うつらない」は「見えない」と同じ意味だが、「うつらない」は「見えない」かと思うとき、少し「意識」に沈黙がある。こういう沈黙はなかなかおもしろいし、それを沈黙と感じるとき、
 あ、西脇の「行わたり」のことばも沈黙をつくりだす運動なのだとわかる。
 一瞬考える。
 その思考の一瞬の空白に、肉体の沈黙がはいり込んでくる感じ。思考が意味という「道筋」をつけると、それにしたがって肉体が飛躍すると言えばいいのか、逆にことばの肉体がつまずいて、それを思考の意味が支え後ろから押すといえばいいのか。
 よくわからないけれど、一瞬の「断絶」だね。
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