詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「作業所・労働☆二年目★短歌」

2014-02-05 10:54:46 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「作業所・労働☆二年目★短歌」(「白黒目」45、2014年01月発行)

 短歌ブーム、などと言われているが、私にはちょっとぴんと来ない。携帯電話(スマートフォン?)などで書いて投稿するらしい。そのブームになっている短歌とは別なところで豊原清明は書いている。
 この短歌が、うーん、不思議だ。

友のごと働きながら飯を喰う病の林檎伸びたら佳いね

 「病の林檎」が何のことかわからない。わからないのだけれど、働いて飯を食って、林檎の木を思っている--その林檎が、なぜか見える感じがする。どこかに一本だけあって、その林檎の木をついつい思い出してしまう感じかなあ。

働いてゆっくり寝よかと思うとき昼間貰った余りのフライ

 これも「フライ」が見えるなあ。「昼間貰った」というのも「余りの」というのも、ほんとうなのだと「わかる」。ことばを動かして「つくる」短歌ではなく、「もの」が向こうからやってきて「ことば」になってしまう。書かれているのは「ことば」なのだけれど、そこにあるのは「ことば」ではなく、「もの」。ほんもの、という「もの」。
 で、ほん「もの」が見えると、その「もの」を見ている「人間」も見えてくる。いや、感じる、「わかる」と言えばいいのかなあ。
 「余りもののフライ」を貰うときの、「余りもの」と感じるときの、「肉体」のなかにあることばにならないことば、のようなものが、「肉体」のなかで動く。私が思っても、言わなかったことばが、ふっと他人(豊原)の肉体から出てきて、あ、そうかこんなふうにしてことばになるのか、と納得する感じ。

弁当を小と言ったら小だった 並を眺めて粒粒食べる

 「小」の弁当の、こびりついている米の一粒一粒をつまんでいる感じ。並はあれだけご飯が入っているか、と思わず、肉体のどこかで思ってしまう感じ。不思議な不思議な手触りがある。「肉体」に触れている感じがする。裸に触れている感じがする。
 距離感--というものが、ない。

 あ、そうか。距離感か、と私は自分の書いたことばを考え直す。

 豊原清明のことばは、対象と距離感がない。対象にじかに触れている。触れることで「一体」になっている。「ひとつ」になっている。
 「弁当」の短歌では、「弁当の小」が「豊原」そのものである。豊原から切り離してしまうと、それはもう「弁当の小」ではない。また、その「弁当の小」は「弁当の並」と「ひとつ」になることで、初めて「小」になる。--これは、とても変な言い方で、論理的に考えるなら(「流通言語」で考えるなら)、「弁当の小」は単独では「小」ではない。それは「並(の大きさ)」と比較して初めて「小」になる、ということなのだが……。豊原には、この何かと比較して何かが何かになる、たとえば弁当の大きさが「小」になったり「並」になったり「大」になったりするということがない。非論理的な(非・流通言語的な)言い方しかできないが、弁当の「小」(並)は比較ではなく、豊原の「肉体」とひとつになって「小」になるのだ。「比較(対照)」の感覚が豊原にはない。「小」は「絶対(値)」なのだ。替わりに「直接」の感覚が動く。豊原が対象に「直接」触れる。そして、その「対象」と「ひとつ」になって、そこに「世界」が出現する。「絶対」が噴出してくる。
 こう書きながら、私はふと池井昌樹を思い出したのだが、池井は「必然」が噴出する。「必然」と「絶対」とどう違うかというと……。「感覚の意見」として書くしかないのだが、「必然」は広がってゆく、「絶対」は逆に凝縮する、という感じ。「凝縮」のなかに宇宙がある。
 と考えると。
 豊原の「世界」は「俳句」だねえ。「世界」と「一体」になる。「もの」と「ひとつ」になることで、そこに「世界」が出現する。--その、俳句。
 豊原の「肉体」の基本が「俳句」なのだ。短歌を書いていても、「肉体(思想)」の基本が「俳句」なのだ。

 その俳句。(--これを、一行詩にしたものもあるけれど……。)

金星や冷たい地面父子ありぬ

冬鹿や旅人鬱鬱葉を磨く

 「肉眼」で見ている、その「肉」が伝わってくる。私の「文字」で汚れてしまった目では見えない世界を、豊原は見るのではなく「つかむ」。「つかむ」ことが「わかる」ことなのだ。「つかむ」というのは「見る」に比べると、とても危険だ。危ないことだ。「見る」は距離がある。でも「つかむ」は距離がない。つかんだものが安全とは限らない。いつ反逆されるかわからない。その「わからない」を乗り越えて、豊原は「つかむ」。そのけときの「度胸」というか「人間性」のようなものが、ぬーっ、と、あるいは、ぐぐぐっ、とあらわれる。「人間」があらわれる。
 実際、句の描いている世界を見ているのかなあ、豊原を見ているのかなあ、わからなくなる。豊原が、そこに「いる」。その豊原が「見える」。見えるを通り越して、「触る」感じて、そこに「いる」。

友達は いるけど いない みたい 唯の海老フライ

 うーむ。
 豊原は、いるけど、いない、みたいな、ただの短歌(俳句、詩)じゃなくて、もちろん「ただのことば」なのだけれど、「ただ」とは言えないんだなあ。「肉体」なんだなあ。「肉体」だからこそ、きっと「流通思想」から見れば「ただのことば」になるんだろうけれど(エビフライがただのエビフライになるみたいに)、その「ただ」が「ありふれた」ではなく「永遠(普遍)」にもなる。「永遠(普遍)」は触れられないと奥にある(距離感のある)ものではなく、手で触れるもの、その「直接性」のなかにこそある、ということなのかなあ。

夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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西脇順三郎の一行(80)

2014-02-05 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(80)

「《秋の歌》」

乞食が一度腰かけたぬくみを

 この一行のなかでは「肉体」が不思議な形で動く。「乞食が一度腰かけた」というのは目で見た姿である。あるいは乞食が「腰かける」という動作(運動/動き)である。それは詩を書いている人からは「離れた感覚」である。
 ところが「ぬくみ」はそうではない。誰かが腰をおろしたその場所に残る「ぬくみ」は触れてみないとわからない。そして、このことは「触れる」ということの不思議な哲学を明るみにする。「触れる」ことは「他者」を理解することなのである。自分の「肉体」そのもに取り込み、そこにあったことがらを「わかる」ことなのだ。
 目で見て「わかる」から、手で触れて「わかる」へかわる。視力と触覚が融合して、新しい何かを瞬間的に噴出させる。西脇の肉体の中には、こういう「自然の野蛮」が動いている。知性のことばと同時に肉体の野蛮が動き、ぶつかる--この衝突の音楽が西脇の「文体」を動かしている。
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