大西美千代「重ならない」、早矢仕典子「距離」(「橄欖」98、2014年02月10日発行)
大西美千代「重ならない」に自然に引き込まれた。
1連目と2連目のあいだの切断と接続の仕方、飛躍の仕方が自然なのだと思う。何事かを考える。ことばを動かす。そのことばが、ある一瞬、少しだけかわる。「だけのことで(順接)」「ことであるけれど(逆接)」のなかで「こと」が共有される。「こと」をはさんで「あなた方」と「わたくし(たち)」がわかれる。その境目を1行空きという「空白」でつかみとっている。強引にことばで埋めていかない。そこに不思議な静けさと美しさがある。
強引ではないけれど、「もしかすると」ということばを踏み台にして、
という具合に、しっかりとことばにしている。ただし「かもしれなくて」と付け加えることで、ことばにすると同時に一歩引く。それが静けさを強くする。
なぜ、こんなに静かなのかなあ、と考えはじめると、
ということばに気づく。「背負っているだけのこと」「ことでははあるのだけれど」「思い違いのこと」。
大西は、「もの」ではなく、「こと」を見ている。
いや、「現実とは思い違いのこと」の前には「どのようにも変容してしまうもの」と「もの」が出てくるという指摘があると思うけれど、その「もの」を大西はすぐに「思い違いのこと」と「こと」に言いなおしている。ほんとうは「現実というものは見ようによって/どのようにも変容してしまうこと」と言いたいのかもしれない。「現実」は「もの」ではなく「こと」。
こういうことを書きはじめると、ちょっとめんどうになるのだが、ひとはなんとなく「もの」と「こと」をつかいわけながら、あいまいにことばを動かしている。あいまいなものがあるから、ことばは動いていけるのかもしれない。だから、めんどうなことを厳密に分析するのではなくて、私は、ぼんやりと、あ、このあたりに大西のことばの核心のようなものがあるんだろうなあ、と思いながら読み進む。
ぼんやりしたもの、あいまいなものを、強引に「明晰」にしてしまわないところが自然に感じられていいんだろうなあ、と思う。
で、ぼんやりと考えるともなく窓の外を見ていて、この詩は、その先で突然飛躍するところがある。「現実(いま)」から離れるところがある。
あ、ここが美しい。切断と接続の断面/接点が美しい。
「蜂の子」を抜き出したのはだれか。私は「あなた」と読む。その姿を見た瞬間に、「あなた」とひとりの人間になった。ほかのだれか(あなた方、複数)ではなく、「あなた」という個人になった。
これは、しかし、だれの変化であろう。
「あなた」の変化なのか。そうではなくて、あくまで「わたし」の変化である。「あなた」は同じこと(蜂の子をとる)を繰り返している。「わたし」は、しかし、蜂の子をとるという動き(肉体)を「あなた」だけと結びつけてとらえた。そのことを見て、おぼえた。「わたし」の変化が「あなた」を「あなた方」から切り離したのである。
それは、あくまで「わたし」の変化であって、つまりその瞬間がはっきり「肉体」に残っているのは「わたし」の方であって、「あなた」の方にはそういう瞬間はない。いつもと同じように蜂の子をとったという連続した日常があるだけである。言い換えると、その瞬間を「わたし」は「過去のある一日」と断定できるが、「あなた」はその日を断定できない。「昔、蜂の子を取った日」は「わたし」にとっては特定の一日(過去の一点)であるけれど、「あなた」にとっては特定の一日ではない。「蜂の子を取る」という行為で「あなた」がその日を「特定」することはできない。
ここに「すれ違い」がある。
この「すれ違い」(ずれ)のようなもの、あるいは「こと」を指して、大西は
と言う。
「蜂の子を取る」という「あなた」はひとり。でも、その「こと」を「あなた」は知らない。その「こと」によって「ひとり」であることを知らない。なぜなら、蜂の子を取ることは「あなた」にとって「ほかのみんな」と同じ「こと」だから。彼ひとりが蜂の子をとるわけではないのだから。
そういうことを思うと、なんとなく、さびしくなるね。人間のすれ違いが見えてきて、「重なりたい」のに「重ならない」何かが見えてきた。
そういうさびしさを、大西は書いているのだと思う。さびしいということばをつかわずに。
で、その部分で、大西は「わたくし」と書いていた「主語(?)」を「わたし」と書き直している。その部分だけ、「わたくし」は「わたし」になっている。「あなた方」から「あなた」が選ばれて特別な人間になったとき、「わたくし」は「わたし」になっている。「わたし」が「あなた」と密着している。接続している。それは、しかし、いまではすこし違っている。「わたくし」と「あなた」のあいだには、「あなた」を見つけ出したとき「直接性」がなくなって、微妙な「すきま」(重ならない、という感じを呼び起こすもの)がある。「重ならない」という「こと」が「いま」をつくっている。
なんだか、はっきりしない、ぼんやりしたことばになってしまったが、そういうあいまいなことを、大西の詩を読みながら考えた。
*
大西の書いた「重ならない」を早矢仕典子は「距離」ということばで書いている。(ように、私には思える。)「距離」という作品。「海がみたい」と「わたし」が言い、「そのひと」は海へ連れて行ってくれる。でも、標識があるだけで、その海はなかなか目の前にあらわれない。
この描写が美しいなあ。「山々に蓄えられた一日分の光も もうすっかり底をついてしまった」が「わたし」と「そのひと」のあいだにある何かの象徴のようにも思えてくる。その結果、
ということになるのだが、そのなりゆきがとても自然だ。最後に、山がひらけ、空が見え、そのむこうに海があると「そのひと」は言うのだけれど、それは最初の「海」とはきっと違っている。「そのひと」には最初の海とそのときの海が「重なって」見えるかもしれないが、「わたし(早矢仕)」には「重ならない」。そこに「距離」がある。
大西と早矢仕は「違うこと」を書いているのだけれど、私は「重ねて」読んでしまうのだった。重ねて読みながら、ふたりは「重ならない距離」を見つめているんだなあ、と思うのだった。
詩集ではなく、同人誌で詩を読むと、こういう不思議な「読み方」を知らず知らずにしてしまうことがある。
大西美千代「重ならない」に自然に引き込まれた。
重ならない
あなた方の現実とわたくしと何の関係もなく
わたくしたちはひとりひとりの
現実を背負っているだけのことで
ことではあるけれど
現実というものは見ようによって
どのようにも変容してしまうもので
もしかすると
現実とは思い違いのことかもしれなくて
あなた方の過去にわたくしはいなくて
わたしくの過去にあなた方はいなくて
1連目と2連目のあいだの切断と接続の仕方、飛躍の仕方が自然なのだと思う。何事かを考える。ことばを動かす。そのことばが、ある一瞬、少しだけかわる。「だけのことで(順接)」「ことであるけれど(逆接)」のなかで「こと」が共有される。「こと」をはさんで「あなた方」と「わたくし(たち)」がわかれる。その境目を1行空きという「空白」でつかみとっている。強引にことばで埋めていかない。そこに不思議な静けさと美しさがある。
強引ではないけれど、「もしかすると」ということばを踏み台にして、
現実とは思い違いのこと
という具合に、しっかりとことばにしている。ただし「かもしれなくて」と付け加えることで、ことばにすると同時に一歩引く。それが静けさを強くする。
なぜ、こんなに静かなのかなあ、と考えはじめると、
こと
ということばに気づく。「背負っているだけのこと」「ことでははあるのだけれど」「思い違いのこと」。
大西は、「もの」ではなく、「こと」を見ている。
いや、「現実とは思い違いのこと」の前には「どのようにも変容してしまうもの」と「もの」が出てくるという指摘があると思うけれど、その「もの」を大西はすぐに「思い違いのこと」と「こと」に言いなおしている。ほんとうは「現実というものは見ようによって/どのようにも変容してしまうこと」と言いたいのかもしれない。「現実」は「もの」ではなく「こと」。
こういうことを書きはじめると、ちょっとめんどうになるのだが、ひとはなんとなく「もの」と「こと」をつかいわけながら、あいまいにことばを動かしている。あいまいなものがあるから、ことばは動いていけるのかもしれない。だから、めんどうなことを厳密に分析するのではなくて、私は、ぼんやりと、あ、このあたりに大西のことばの核心のようなものがあるんだろうなあ、と思いながら読み進む。
ぼんやりしたもの、あいまいなものを、強引に「明晰」にしてしまわないところが自然に感じられていいんだろうなあ、と思う。
で、ぼんやりと考えるともなく窓の外を見ていて、この詩は、その先で突然飛躍するところがある。「現実(いま)」から離れるところがある。
昔の話だが
蜂の巣を取ってきて
その穴のひとつを開けて
中から乳白色の蜂の子を抜き出したことがあった
あなた方から方が取れて
あなたになって
あなたの過去にわたしがいなくて
わたしの過去にあなたがいて
あ、ここが美しい。切断と接続の断面/接点が美しい。
「蜂の子」を抜き出したのはだれか。私は「あなた」と読む。その姿を見た瞬間に、「あなた」とひとりの人間になった。ほかのだれか(あなた方、複数)ではなく、「あなた」という個人になった。
これは、しかし、だれの変化であろう。
「あなた」の変化なのか。そうではなくて、あくまで「わたし」の変化である。「あなた」は同じこと(蜂の子をとる)を繰り返している。「わたし」は、しかし、蜂の子をとるという動き(肉体)を「あなた」だけと結びつけてとらえた。そのことを見て、おぼえた。「わたし」の変化が「あなた」を「あなた方」から切り離したのである。
それは、あくまで「わたし」の変化であって、つまりその瞬間がはっきり「肉体」に残っているのは「わたし」の方であって、「あなた」の方にはそういう瞬間はない。いつもと同じように蜂の子をとったという連続した日常があるだけである。言い換えると、その瞬間を「わたし」は「過去のある一日」と断定できるが、「あなた」はその日を断定できない。「昔、蜂の子を取った日」は「わたし」にとっては特定の一日(過去の一点)であるけれど、「あなた」にとっては特定の一日ではない。「蜂の子を取る」という行為で「あなた」がその日を「特定」することはできない。
ここに「すれ違い」がある。
この「すれ違い」(ずれ)のようなもの、あるいは「こと」を指して、大西は
だから 重ならない
と言う。
「蜂の子を取る」という「あなた」はひとり。でも、その「こと」を「あなた」は知らない。その「こと」によって「ひとり」であることを知らない。なぜなら、蜂の子を取ることは「あなた」にとって「ほかのみんな」と同じ「こと」だから。彼ひとりが蜂の子をとるわけではないのだから。
そういうことを思うと、なんとなく、さびしくなるね。人間のすれ違いが見えてきて、「重なりたい」のに「重ならない」何かが見えてきた。
そういうさびしさを、大西は書いているのだと思う。さびしいということばをつかわずに。
で、その部分で、大西は「わたくし」と書いていた「主語(?)」を「わたし」と書き直している。その部分だけ、「わたくし」は「わたし」になっている。「あなた方」から「あなた」が選ばれて特別な人間になったとき、「わたくし」は「わたし」になっている。「わたし」が「あなた」と密着している。接続している。それは、しかし、いまではすこし違っている。「わたくし」と「あなた」のあいだには、「あなた」を見つけ出したとき「直接性」がなくなって、微妙な「すきま」(重ならない、という感じを呼び起こすもの)がある。「重ならない」という「こと」が「いま」をつくっている。
なんだか、はっきりしない、ぼんやりしたことばになってしまったが、そういうあいまいなことを、大西の詩を読みながら考えた。
*
大西の書いた「重ならない」を早矢仕典子は「距離」ということばで書いている。(ように、私には思える。)「距離」という作品。「海がみたい」と「わたし」が言い、「そのひと」は海へ連れて行ってくれる。でも、標識があるだけで、その海はなかなか目の前にあらわれない。
目にする地名こそ「西が浦」とか「瀬の庄」などと海のにおいを纏っているのだけれど 一向に 海岸までの距離は縮まっていかない 薄くうすく夕闇が浸透したくるので どうやら海までの距離もぐずぐずと解けていってしまうようだった 山々に蓄えられた一日分の光も もうすっかり底をついてしまったようで いよいよ細く不確かな道ばかりがつづき
この描写が美しいなあ。「山々に蓄えられた一日分の光も もうすっかり底をついてしまった」が「わたし」と「そのひと」のあいだにある何かの象徴のようにも思えてくる。その結果、
そもそもなにをもとめているのだったかさえわからなくなり--
ということになるのだが、そのなりゆきがとても自然だ。最後に、山がひらけ、空が見え、そのむこうに海があると「そのひと」は言うのだけれど、それは最初の「海」とはきっと違っている。「そのひと」には最初の海とそのときの海が「重なって」見えるかもしれないが、「わたし(早矢仕)」には「重ならない」。そこに「距離」がある。
大西と早矢仕は「違うこと」を書いているのだけれど、私は「重ねて」読んでしまうのだった。重ねて読みながら、ふたりは「重ならない距離」を見つめているんだなあ、と思うのだった。
詩集ではなく、同人誌で詩を読むと、こういう不思議な「読み方」を知らず知らずにしてしまうことがある。
詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書) | |
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