倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』(3)(思潮社、2014年02月25日発行)
この詩集の帯に、こう書いてある。
わかったような、わからないような……。いちばんわかりやすいことばは、最後の「仮構詩集」。これまでの感想で私は「寓話」とか「寓意」というようなことばをつかってきたが、その言い換えだろうなあ。現実ではなく、嘘。虚構。
倉橋の書いていることが「現実」そのままではないということは、たとえば「這い這い」を読むとよくわかる。
赤ちゃんの家出などありえない。だから、この詩は嘘を書いているということがすぐにわかる。すぐに嘘とわかるのに、その嘘を読みつづけてしまうのはなぜだろう。
詩集とわかっているから?
まあ、そうなんだろうけれど、文学は現実ではないとわかっているから、それが嘘だって読んでしまうというのは、いちばん簡単な説明なのだろうけれど。
私は少し違うことを感じる。
「行方をくらませる」「噂がある(噂する)」「集まる」「想定する」というような動詞が「わかる」からである。赤ちゃんが家出するということはわからないけれど、誰かの行方がわからなくなったとき、ひとがあれこれ噂し、またあれこれ想像する(想定する)ということが「わかる」。そこで動いている「動詞」のあり方がわかるからである。書かれている「動詞」にあわせて、読者の(私の)、「動詞」の記憶がゆさぶられる。「動詞」のなかに吸い込まれて、自分が参加している気持ちになる。
で、
ほら、読者が疑問に思うことがすぐにことばになって、そこにある。ことばが読者を引き込む。
このときの「それにしても」がいいなあ。
これが倉橋の思想(肉体)である、というと、私の感想は一気に強引なものになるのだけれど、思想はいつでも、こういう何気ないことばのなかにある。いつもつかうことば、いつでもつかえることばのなかにある。
「それにしても」というのは一方に「事実(知らされていること)」がある。それに対して、何か違うことをいうときにつかう。「それにしても」は「それに対して」と似ている。「対して」というような「論理的(?)」な響きがないというのが特徴。「論理的」という感じがしないから、「頭」で考える前に、ずるっと引き込まれていく。最初に取り上げた詩の「ずるずる」と似たところがある。
変な感じを抱きながら、ふたつの世界を行ったり来たりする。越境する--と書くと、「寓話」(寓意)、それから、この帯に書いてあった「異刻」と何か通い合うね。
で、「越境」するのだけれど、越境にはルールがある。そこに、あらわれてくるルールがおもしろい。
越境するとは、自分を捨てて「他人」に「なる」ことである。「他人になる」とは「他人」の「動詞」を「生きる」ことである。それが越境のルール。この詩を読みはじめたとき、そこに書かれている「動詞」に自分を重ねたように、赤ちゃんといっしょにある「動詞」に自分を重ねてみる。それがルール。
「赤ちゃん」になるとお腹がぺこぺこになったら食べ物につられる。そうだね。図体の大きいものはこわい。小さなものは大きなものをこわがる。そうだね。
そうかな?
逆かもしれない。小さいということを自覚したら大きいものに頼るかもしれない。赤ん坊がおかあさんをこわがらないのはおかあさんが大きいからじゃない?
というようなことは、倉橋は書かずに、ぐいぐいぐいと「動詞」を一方的に操作する。「仮構」とは「動詞」を操作することである。「赤ちゃんの家出」というふうがわりなこと(ありえないこと)も、「動詞」さえ現実的に動かせば「ありうる」にかわる。そう知っていて、倉橋は「動詞」を動かす。
「動詞」のなかで、私たちは「現実」をつかんでいるのである。どんな変なことでも、そこに書かれている「動詞」を私たちが再現できるとき、それは「現実」にかわる。--というのは、私の「ことば」について考えていること。
あ、少し脱線したかな?
この「動詞」のあり方を倉橋の書いていることばで言いなおすと……。次の部分に、その「言い直し」のことばが出てくる。
「赤ちゃんの身になって」。「誰かの身になる」とは「動詞」を共有すること。「身」とは「肉体」。「肉体(身)」は「動詞」の主語である。「肉体」があって、はじめて「動詞」が可能になる。
で、ここから私は一気に飛躍して、「感覚の意見」を主張する。
ひとはだれでも「動詞」をとおして「他人の身になる」。他人になってしまう。そういう錯覚(誤読)を引き起こすのが「文学」である。詩である。そこでは、
というような、思ってはいけないことも、思いとしてわき起こってくる。これがおもしろいのだ。想像してはいけないこと、それをことばのなかで肉体が先取りして体験してしまう。もっともっと体験したい。実際には体験できないからこそ、他人の「動詞」のなかで「他人」になってしまいたい。
でも、
暴走してはいけないんだって。「じれるな」だって。
意地悪だなあ。
意地悪な、ことばの閉じ方だなあ。
別な言い方をすると、うまいなあ。
「他人の動詞」をさっさと移動しながら、つまずかない。文体が乱れない。
この詩集の帯に、こう書いてある。
暗鬱な夢はいつでも還ってくる--。深い闇に立ち尽くす苛烈な現実凝視。生の固有値と時代の亀裂を異刻のうちに剥き出しにする、渾身の仮構詩集。
わかったような、わからないような……。いちばんわかりやすいことばは、最後の「仮構詩集」。これまでの感想で私は「寓話」とか「寓意」というようなことばをつかってきたが、その言い換えだろうなあ。現実ではなく、嘘。虚構。
倉橋の書いていることが「現実」そのままではないということは、たとえば「這い這い」を読むとよくわかる。
朝早く行方をくらませたひとりの赤ちゃんがこの地域にまぎれこんだかも知れないと噂があって
夜半ぼくらは集会所にあつまった
誘拐、略取、置き捨て……、ありとあらゆるケースを想定したが
事件に巻き込まれた形跡がないことから
家出人にしたとお巡りさんが説明した
赤ちゃんの家出などありえない。だから、この詩は嘘を書いているということがすぐにわかる。すぐに嘘とわかるのに、その嘘を読みつづけてしまうのはなぜだろう。
詩集とわかっているから?
まあ、そうなんだろうけれど、文学は現実ではないとわかっているから、それが嘘だって読んでしまうというのは、いちばん簡単な説明なのだろうけれど。
私は少し違うことを感じる。
「行方をくらませる」「噂がある(噂する)」「集まる」「想定する」というような動詞が「わかる」からである。赤ちゃんが家出するということはわからないけれど、誰かの行方がわからなくなったとき、ひとがあれこれ噂し、またあれこれ想像する(想定する)ということが「わかる」。そこで動いている「動詞」のあり方がわかるからである。書かれている「動詞」にあわせて、読者の(私の)、「動詞」の記憶がゆさぶられる。「動詞」のなかに吸い込まれて、自分が参加している気持ちになる。
で、
それにしても
やっと這い這いをはじめたばかりの赤ちゃんが
どうして家出などしたのだろう
ほら、読者が疑問に思うことがすぐにことばになって、そこにある。ことばが読者を引き込む。
このときの「それにしても」がいいなあ。
これが倉橋の思想(肉体)である、というと、私の感想は一気に強引なものになるのだけれど、思想はいつでも、こういう何気ないことばのなかにある。いつもつかうことば、いつでもつかえることばのなかにある。
「それにしても」というのは一方に「事実(知らされていること)」がある。それに対して、何か違うことをいうときにつかう。「それにしても」は「それに対して」と似ている。「対して」というような「論理的(?)」な響きがないというのが特徴。「論理的」という感じがしないから、「頭」で考える前に、ずるっと引き込まれていく。最初に取り上げた詩の「ずるずる」と似たところがある。
変な感じを抱きながら、ふたつの世界を行ったり来たりする。越境する--と書くと、「寓話」(寓意)、それから、この帯に書いてあった「異刻」と何か通い合うね。
で、「越境」するのだけれど、越境にはルールがある。そこに、あらわれてくるルールがおもしろい。
どうせお腹もぺこぺこだろうから
おいしいものをあちこちに仕掛けて誘(おび)き出そう
などと意見が出て
なによりも赤ちゃんを怯えさせないためには
われわれも図体を小さくして目線を低くしなければの配慮から
全員四つん這いで行動することも決定した
越境するとは、自分を捨てて「他人」に「なる」ことである。「他人になる」とは「他人」の「動詞」を「生きる」ことである。それが越境のルール。この詩を読みはじめたとき、そこに書かれている「動詞」に自分を重ねたように、赤ちゃんといっしょにある「動詞」に自分を重ねてみる。それがルール。
「赤ちゃん」になるとお腹がぺこぺこになったら食べ物につられる。そうだね。図体の大きいものはこわい。小さなものは大きなものをこわがる。そうだね。
そうかな?
逆かもしれない。小さいということを自覚したら大きいものに頼るかもしれない。赤ん坊がおかあさんをこわがらないのはおかあさんが大きいからじゃない?
というようなことは、倉橋は書かずに、ぐいぐいぐいと「動詞」を一方的に操作する。「仮構」とは「動詞」を操作することである。「赤ちゃんの家出」というふうがわりなこと(ありえないこと)も、「動詞」さえ現実的に動かせば「ありうる」にかわる。そう知っていて、倉橋は「動詞」を動かす。
「動詞」のなかで、私たちは「現実」をつかんでいるのである。どんな変なことでも、そこに書かれている「動詞」を私たちが再現できるとき、それは「現実」にかわる。--というのは、私の「ことば」について考えていること。
あ、少し脱線したかな?
この「動詞」のあり方を倉橋の書いていることばで言いなおすと……。次の部分に、その「言い直し」のことばが出てくる。
一晩ぼくらのほうもほーいほーいと這いずりまわるのだ
それにしても赤ちゃんはひとりで外の空気を吸ううちに
外界にもすっかり馴染んでしまって
擬態(ミミクリー)の方法なども身につけてしまっているかもしれない
とすれば見えなくなることなんかわけない
などちょいと赤ちゃんの身になってみると
好奇心いっぱいのみんなとは裏腹に
この事件解決のめどなどまるでたたないようにも思えてくる
「赤ちゃんの身になって」。「誰かの身になる」とは「動詞」を共有すること。「身」とは「肉体」。「肉体(身)」は「動詞」の主語である。「肉体」があって、はじめて「動詞」が可能になる。
で、ここから私は一気に飛躍して、「感覚の意見」を主張する。
ひとはだれでも「動詞」をとおして「他人の身になる」。他人になってしまう。そういう錯覚(誤読)を引き起こすのが「文学」である。詩である。そこでは、
この事件解決のめどなどまるでたたないようにも思えてくる
というような、思ってはいけないことも、思いとしてわき起こってくる。これがおもしろいのだ。想像してはいけないこと、それをことばのなかで肉体が先取りして体験してしまう。もっともっと体験したい。実際には体験できないからこそ、他人の「動詞」のなかで「他人」になってしまいたい。
でも、
たまらなくなって
赤ちゃんはもうここには居ないかもと裏声で叫ぶと
じれるなとすかさず
耳朶でつぶやく者が居た
暴走してはいけないんだって。「じれるな」だって。
意地悪だなあ。
意地悪な、ことばの閉じ方だなあ。
別な言い方をすると、うまいなあ。
「他人の動詞」をさっさと移動しながら、つまずかない。文体が乱れない。
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