詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ポン・ジュノ監督「スノーピアサー」(★★)

2014-02-13 10:38:49 | 映画

監督ポン・ジュノ 出演 クリス・エバンス、ソン・ガンホ、ティルダ・スウィントン、ジョン・ハート、エド・ハリス


 原作はフランスの漫画、ということらしいが。小説ならおもしろいかなあ、と思いながら見た。描かれる世界があまりにも嘘っぽい。氷河期の地球を列車で駆け回る。列車のなかは戦闘が上流社会、最後が最下層の社会、列車の内部では野菜栽培もしていれば魚も養殖している。これを影像で見せられると、ほんものの感じがしない。ことばに翻訳し直すと、「悪夢」がまざまざと見えてくる。そうか、悪夢はことばでみるものなのか……は自分で自分の感想に感心したりする。(ね、この瞬間、映画を見てないでしょ? 私は。そういう映画だ。)だから、ラストのクライマックス(?)のクリス・エバンスとエド・ハリスの「劇的な対話」なんて、ほんとうにことばだけ。エド・ハリスが語っていることを影像にしないと映画にならないじゃないか--列車を走らせるのに忙しくて、最後は力尽きたのかもしれないけれどね。
 見どころは。
 銃撃戦のさなか、破れた窓から雪が一辺、列車内に舞い込む。それをていねいに、雪の結晶の六角形が見えるように映している。そこに乗り込んでいるひとが皆その雪の形をしっかり肉眼にやきつけた、ということがわかる、いやあ、ロマンチックで、美しい影像だなあ。--と感心させておいて、そのあとだいぶ経ってから「雪の結晶を見ただろう。あは溶ける雪だ。外では温暖化(?)が始まっている」とソン・ガンホが言う。いやあ、いいなあ、このシーンは小説では無理。雪の結晶の美しさをことばで書いてしまうと、悪夢と相いれない。影像だから、あれっ、なんでいまここに、この影像? 変じゃない? という違和感を残して、存在しうる。
 それに追い打ちをかけるように、ソン・ガンホが言う。一年に一回通る鉄橋(列車は世界をまわっている)の上から墜落した飛行機が見える。「あの飛行機は、去年は尾翼しか見えなかった。今年は主翼が見えた。雪が溶けはじめている。暖かくなっている」。あ、うまいなあ。ことばでフィードバック。雪の結晶もそうだけれど、ことばはいつでもフィードバックできる。そして、「過去」を「いま」に呼び戻し、さらに「未来」へと投げつける。--これを、影像だけでやろうとすると、とてもむずかしい。
 もう一つは、その鉄橋のシーンなのだが、列車が線路の上をおおっている氷の塊を砕きながら突き進むシーン。脱線してもいいのだけれど、脱線しない。そのいいかげんな「設定」をはらはら、どきどきをいいことに、強引に押し切ってしまう。うわーっ、どうなるの? 脱線したら皆しんでしまうぞ、と観客がはらはらしているときは、そのはらはらは実現しなくていい。はらはらだけでいい。はらはらが「現実」なのであって、脱線はその現実を支えるための「薬味」だからね。こういうデタラメ(非現実的)な影像というのは、私は大好きだなあ。映画なんて嘘なんだから、どんどん嘘をつけばいい。
 これと関連して、その鉄橋の上を通過するとき、敵・見方の区別を越えてカウントダウンをするのもいいなあ。年に一回、その橋をわたる。氷河期で「暦」は意味を持たないのだけれど、この、ある一点を通ることが「 1年」の区切りというも、ね、こんなふうに馬鹿馬鹿しい影像として展開すると、とたんに「現実」になる。いやあ、うまなあ。

 と、感心しながらも、私は★2個を変えない。ラストの北極熊の出てくるファンタジーはファンタジーでいいのだけれど、さっき書いたエド・ハリスのことば(種明かし)、これがとってもつまらない。小説なら、もともと全部がことばなのだから、それなりに説得力を持つだろうけれどねえ。映画ではねえ。
                       (2014年02月12日、天神東宝2)
 

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小山田浩子「穴」

2014-02-13 09:25:52 | その他(音楽、小説etc)
小山田浩子「穴」(「文藝春秋」2014年03月号)

 小山田浩子「穴」は第百五十回芥川賞受賞作品。私は眼が悪いので、最近はほとんど小説を読んでいない。芥川賞の発表のときに文藝春秋を買って読む程度である。だから、いまの小説の「文体」というものになじんでいないのだけれど……。
 読みはじめてすぐ、つらいなあ、と感じた。読みづらい。

 私は夫とこの街に引っ越してきた。五月末に夫に転勤の辞令が出、その異動先が同じ県内だがかなり県境に近い、田舎の営業所だったためだ。営業所のある市が夫の実家のある土地だったので、手頃な物件でも知らないかと夫が姑に電話をかけた。

 書き出しだが、最初の文は読めたが、あとは、うーん、つらい。ことばに「音楽」がない。「音楽」のかわりに、「説明」がある。「転勤」「辞令」「異動」は、同じことをいいえ変えているにすぎない。「県内」「県境に近い」「田舎」も、私は同じことを書いていると感じる。ことばが進んでゆかない。停滞している。しかもその停滞が、「名詞」の言い換えにすぎない。動いているのに、動いても動いても同じところにいるという不条理な停滞ではなく、動きはまったくないのに「名詞」を書き換えることで動いているように見せかけている。「営業所のある市」「夫の実家のある土地」も同じ。情報量が少ないのに情報量が多いふうに装っている。情報の少なさを「名詞」の書き換えでごまかしている。
 こんな比較は間違っているのかもしれないが、森鴎外や志賀直哉だったら半分のことばで書いてしまうだろう。小山田の文章は「散文」になっていない。「事実」をつかんで、「事実」を積み重ねて進むという散文精神が抜け落ちている。

 「じゃあうちの隣に住めば?」「隣?」「うちの借家があるじゃない。ついこの間空いたのよ」姑の声はよく通り、夫の脇にすわっている私にまでその声が聞こえた。

 「名詞」が重複しない場合でも、同じである。
 「ついこの間」は、ひどく説明的である。読んでいて、いらいらしてしまうくらい、もたついていて、とても母と息子のやりとりとは思えない。「ついこの間」なんて説明はしてもらわなくてもいい。ないほうが「ついこの間(突然)」という感じがわかる。書かなくていいことが、小山田の文章には多すぎる。「声はよく通り」「脇にすわっていた私にまで(略)聞こえた」も、書かなくてもわかることがわざわざ書かれている。省略したのは「その声が」ということばだが、ないほうがことばの運びが速くて、軽く読めるでしょ?
 まあ、速い文体を避けた。現実にはりつくような文体を作り上げた、と言えるのかもしれないけれど、私には、ただぎっしりとことばを埋めたみたという感じしかないなあ。
 ことばに飛躍がなく、飛躍のつくりだすリズムがなく、ことばが「音楽」として響かない。私は黙読しかしないが、このしつこい説明にげんなりした。声で聞いたりしたら、さらにげんなりするだろう。小山田は自分の書いたものを声にして読んでみたことがあるのだろうか、と疑問に思った。こんなにまだるっこしくては、舌がもつれてしまう。のどが疲れてしまう。

 私は卓上のメモに『一戸建て?』と書いて夫に見せた。夫はうなずき、手を伸ばしてそのメモに『にかいだて』と書いた。

 これは映画の一シーンにすればおもしろいだろうなあと思う。でも、小山田のことばではスピードが遅すぎて、影像がスローモーションになってしまう。「書いて夫に見せた」と書かなくても「書いた」で十分夫に見せたことはわかる。夫に見せたくて書いているのだから「見せた」と書かれると、「シーン」を見ている(現場に立ち会っている)というよりも、ただことばを聞かされていると感じてしまう。「事実」を明確にするためにことばを動かすというより、ことばを動かすために「現実」を利用しているという感じ。「小説」を読んでいるというより、小説になる前の「未整理のことば」を読んでいる感じといってもいい。「手を伸ばして……」の部分で言えば「そのメモに」がのろのろしすぎている。説明が多すぎて、つまずいてしまう。せっかく『にかいだて』とひらがなまでつかって「現実」を明確にしているのに、「そのメモに」などと書いてしまう神経がわからない。「そのメモ」以外の何に書くのだろう。手まで伸ばしているのに。

 私は卓上のメモに『一戸建て?』と書いた。夫はうなずき、手を伸ばして『にかいだて』と書いた。

 省くと速くなるでしょ? 「書いた」という動詞が「見せるために」(声に出して聞く替わりに)を含んでいることは、状況から「わかる」でしょ? 「肉体」で「わかる」ことを小山田はことばで説明するから、その説明を読んでいる間、「肉体」の動きがスローモーションになる。「肉体」のなかで融合しているものを、わざわざ「頭」で分離して、文字を読まされている感じがしてしまう。

 こんな文章が芥川賞でいいのかなあ。

 好意的に読めば。
 このくだくだしい文体、現実に触れるというよりも、現実の表面を何度も何度もなぞることで、ことばと現実の間に何も入れないようにしておいて(何も紛れ込ませないようにしておいて)、「黒い獣」「穴」という非現実(説明を省略した何か)を印象づける--ということかもしれない。
 こりゃあ、知能犯だね。確信犯--ととらえれば、まあ、そうなのかもしれないが、でも、選考委員はこれくらいの「確信犯」に「まいりました。おみごと」と言ったわけ? 選考委員の理想の文体(?)は、こういう「頭でっかち」のしつこさ?
 なんだかげんなりするなあ。
 あ、私の感想は、ぜんぜん好意的に読めば、になっていないね。好意的になろうにも、書くとすぐにいやになってしまう。
 でも、一か所くらいは、おもしろいと書いておこう。
 葬式の「一本花」の部分、参列した老人のことば、

「お花がね、こういう時は一本。いっぽんにするのよ。それがこのへんの決まりなのよ」「よそじゃ知らんが」「あらよそじゃ違うの?」「よそのことなんか知らんが」「とにかくいっぽんばなよ」

 だけはおもしろかった。ここには「よそじゃ知らんが」「よそのことなんか知らんが」と、ほぼ同じことばが繰り返されている。しかし、ことばは同じなのに「感情」がまったく違っている。「感情」が違うことで、ことばに「音楽」をつくりだしている。この瞬間に、ことばでは説明できない「肉体」がみえる。あ、「わかる」と「肉体」が納得する。こういう言い方を、ひとはするものである。そして、そういう言い方をするときの「人間」の顔や形がぱっと浮かんでくる。そういうことを言う「おばあさん」を「肉体」が思い出してしまう。
 小説とは、たぶん、同じことばなのに「意味が違う」と感じさせることばの運動のことなのだ。「意味が違う」のに、説明抜きで「わかる」と感じさせてくれることばなのだ。ここに書かれている「会話」のように。
 この、ことばにならない「わかる」が響きあって、小説の「音楽」をつくる。それを聞くのが「小説」の楽しみというものだ。



 田中慎也が芥川賞をとった時、私はその文体を古くさいと批判したが、あれは間違いだったなあと思う。古くさいは古くさいが、音楽がある。

小山田 浩子
新潮社
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西脇順三郎の一行(88)

2014-02-13 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(88)

「壌歌 Ⅱ」

土手の上をのら猫がのそのそ                   ( 100ページ)

 この1行は、前の1行を引用しないとおもしろさがつたわらない。直前の行は「ドラクロア!」である。その「ドラクロア」という音から「土手」が導き出されている。このあと詩には「トラ」が出てくるが、もちろんこれも「ドラクロア」から来ている。
 そう考えると、ほんとうは「ドラクロア!」という1行こそ、西脇が書きたかったのかもしれない。「ドラクロア」という音のなかにある何かが西脇を突き動かしている。
 それでも私はこの1行を選ぶ。
 「土手」いがいの部分、「のら猫のそのそ」というのは単純な「音」の繰り返し、「音」の遊びだが、ドラクロアという芸術から、「のら猫」「のそのそ」という俗へ動いていく動きのすばやさがおもしろい。
 なによりも、西脇のことばは、俗のことばが強い。たたいても、こわれない。しっかり「肉体」になっている。
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