倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』(思潮社、2014年02月25日発行)
倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』を読むと不思議な気持ちになる。巻頭の「おばばの美しい話」。
ここには嘘がある。「おばば」がキリンなら「おまえ」もキリン、日本語が話せるわけではない。こういう嘘を「寓話」と呼ぶことができるかもしれない。で、そのとき、私たちは何を読むのか。なぜ、「嘘」を追及せずに、そのことばに耳を傾けてしまうのか。その声を聞いてしまうのか。
語られることばが何かを象徴している。そこには「意味」がある。
そうなのかもしれないが。
私は、何か違うように感じてしまう。たとえば、この詩から、野生の動物の弱肉強食という「構造」を浮かび上がらせ、その「構造」と人間の社会生活を重ね合わせ、「生きる意味」を問う--というのは、どうも違うなあと思う。そういう「意味」はつけようと思えばつけられるのだろうけれど、嘘っぽい。
もっと違う場所(?--場所と言っていいかどうか、わからない)で何かが動いている。動いているものは、「寓意」にしてしまえない何かで動いている。そんな感じがする。
これでは抽象的で何も語ったことにならないので、逆な方向から書いてみる。
私はこの書き出しでは、
この2行に引きつけられた。
「耳朶を唇を吸いつけると」というのはとても変で、私は、耳朶「に」唇「を」吸いつけるとではないのか、助詞が入れ違っていないか、主語と補語の関係が乱れているのではないか、と思うのだが、そういう疑問は「吸いつく」「(唾を)のみこむ」「つぶやく」という「動詞」のつらなりのなかで消えてしまい、唇と口のまわりで動く、肉体が区切りなく(?)、連続して動いていく感じが、私の「肉体」のなかでも起きると感じる。私の「肉体」は、そういう唇、口の動きを覚えていて、その動きを無意識のうちに再現し、ここは奇妙にリアリティーがあるなあと感じる。動詞にリアリティーがあるから、「耳朶を唇に」か「耳朶に唇を」は気にならなくなる。--を通り越して、倉橋の書いている奇妙な日本語の方が「ほんとう」かもしれないと思ってしまう。
そして、それに追い打ちをかけるように、「ずるずると首がのびて」。
幽霊でもないかぎり首はのびたりはしない。でも、のびてもいいかなあ、とも思う。自分の首がのびたということを、私の「肉体」は覚えていないから、その首がのびるという動詞そのものにはリアリティーがないのだが(感じないのだが)、その前の「ずるずる」に納得してしまう。
「吸いつけ」「飲み込み」「つぶやく」という一連の動詞のなかでは、唇の周辺の「肉体」が「ずるずる」とひきずられ、区切りのないまま動く。ひとつひとつの動詞に「主語」と「目的語(補語)」を結びつけ、明確な文章にすることもできるだろうけれど、そういう面倒なことをしなくても、この一連の「ずるずる(区切りなさ)」ははっきり「わかる」。自分の「肉体」で再現できる。「肉体」は切断するともう肉体ではなくなる。で、そうやって「ずるずる」と切断されずに動くのが「肉体」の特徴なら、「ずるずると首がのびる」も、それでいいじゃないか、と思うのである。「ずるずる」を信じているので、「首がのびる」も信じてしまうのである。
変だねえ。変だよ、確かに。
で、その変な感じを抱えながら、私の考えは「飛躍」する。「意味」とはまったく関係ないことを思いはじめる。考えはじめる。
倉橋は「ずるずる」を書きたかったのだ、と。
キリンを登場させることで弱肉強食の野生の世界と、人間の競争社会を重ね合わせ、「意味」を語るというよりも、そういうふたつの世界が「ずるずる」と重なる。その「ずるずる感」そのものを書きたかったっじゃないかなあ、と思いはじめる。
ほんとうは重なるはずのないものが、重なる。「比喩」になる。「寓意」になる。その「比喩」と「寓意」を分析し、「意味」として語り直すことが、たとえば「批評」というものだとすると、倉橋の書いているのは逆のこと。「意味」なんて、考えていない。「意味」なんて、知らない。確かに、そのふたつは重なって見えるかもしれないけれど、それは「意味」を語ってしまうと、逆に分離してしまう。そうではなくて、「結合したまま」(分離できない何か)を書きたいのだ、と思ってしまう。
つまり「ずるずる」こそがこの詩のなかで倉橋の書きたかったこと。
で。
そういう「意味」以外の何かこそが書きたかったこと--という証拠(?)は、たとえば「じゃよ」「じゃった」「んだから」というような「口調」にもあらわれている。
「口調」というのは「寓意」の「意味」を明確にするとき、ことばから除外されてしまう。けれど、その除外されたものこそが「文体」。ことばの「からだ(肉体)」である。「じゃよ」「じゃった」「んだから」を取り除いてしまえば、そこには「生きている肉体」はなくなってしまう。「肉体」は動けなくなってしまう。
「意味」は「思想」ではない。
「意味」でないものこそ「思想」である。「意味」ではないものが、「いのち」が動くことを支えている。「意味」は「肉体」を切り刻んでしまう凶器である。
などと書いてしまうと、それこそ、それがまた「意味」になって動きだしてしまうというややこしいことが起きるのだが……。まあ、そういう矛盾を抱えながらしか、ことばは動かないものなんだろうなあ、
と、脱線したが、強引に詩に戻ろう。
「意味」の否定を、次の部分から、強引に引き出してみよう。
この「おかげ」は誤用だね。「おかげ」というのは誰かの「助け」によって、というのが「意味」なのだけれど、倉橋(おばば?)は、それをねじまげてつかっている。「そのせいで」というかわりに「おかげで」と書いている。
でも、この「誤用」は、一般に流布もしている。「流通言語」にもなっている。「おかげで、おれは大恥をかいた」とかね。「正しい意味」ではない何かが「ずるずる」と越境して、ことばをねじまげている。
その「ずるずる」の力--そいういうものが、倉橋の詩にあるなあ。その「ずるずる」の力を、私は、この詩から読んでいるのだなあと思う。
(あした、また、このつづきを書くかもしれない。)
倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』を読むと不思議な気持ちになる。巻頭の「おばばの美しい話」。
恐ろしいのは風下(かざしも)じゃよと
キリンになった経験をもつおばばは
耳朶を唇に吸いつけると唾をのみこみながらつぶやいた
ずるずると首がのびて
山裾まで一目瞭然じゃったが
夜ともなると見えないから始末にわるい
風下からは忍び寄る怖い奴の足音も匂いもせん
んだから賢こい肉食獣になればなるほど
そこからばかり襲うてくる
ひとったまりもない
いのちを開けっ放しにしてたのも当然じゃ
おまえの父御(ててご)もそうじゃったぞ
風下から飛んできた爪の一裂きにやられて脊髄がのうなった
おかげでおまえは父(てて)なし児じゃ
ここには嘘がある。「おばば」がキリンなら「おまえ」もキリン、日本語が話せるわけではない。こういう嘘を「寓話」と呼ぶことができるかもしれない。で、そのとき、私たちは何を読むのか。なぜ、「嘘」を追及せずに、そのことばに耳を傾けてしまうのか。その声を聞いてしまうのか。
語られることばが何かを象徴している。そこには「意味」がある。
そうなのかもしれないが。
私は、何か違うように感じてしまう。たとえば、この詩から、野生の動物の弱肉強食という「構造」を浮かび上がらせ、その「構造」と人間の社会生活を重ね合わせ、「生きる意味」を問う--というのは、どうも違うなあと思う。そういう「意味」はつけようと思えばつけられるのだろうけれど、嘘っぽい。
もっと違う場所(?--場所と言っていいかどうか、わからない)で何かが動いている。動いているものは、「寓意」にしてしまえない何かで動いている。そんな感じがする。
これでは抽象的で何も語ったことにならないので、逆な方向から書いてみる。
私はこの書き出しでは、
耳朶を唇に吸いつけると唾をのみこみながらつぶやいた
ずるずると首がのびて
この2行に引きつけられた。
「耳朶を唇を吸いつけると」というのはとても変で、私は、耳朶「に」唇「を」吸いつけるとではないのか、助詞が入れ違っていないか、主語と補語の関係が乱れているのではないか、と思うのだが、そういう疑問は「吸いつく」「(唾を)のみこむ」「つぶやく」という「動詞」のつらなりのなかで消えてしまい、唇と口のまわりで動く、肉体が区切りなく(?)、連続して動いていく感じが、私の「肉体」のなかでも起きると感じる。私の「肉体」は、そういう唇、口の動きを覚えていて、その動きを無意識のうちに再現し、ここは奇妙にリアリティーがあるなあと感じる。動詞にリアリティーがあるから、「耳朶を唇に」か「耳朶に唇を」は気にならなくなる。--を通り越して、倉橋の書いている奇妙な日本語の方が「ほんとう」かもしれないと思ってしまう。
そして、それに追い打ちをかけるように、「ずるずると首がのびて」。
幽霊でもないかぎり首はのびたりはしない。でも、のびてもいいかなあ、とも思う。自分の首がのびたということを、私の「肉体」は覚えていないから、その首がのびるという動詞そのものにはリアリティーがないのだが(感じないのだが)、その前の「ずるずる」に納得してしまう。
「吸いつけ」「飲み込み」「つぶやく」という一連の動詞のなかでは、唇の周辺の「肉体」が「ずるずる」とひきずられ、区切りのないまま動く。ひとつひとつの動詞に「主語」と「目的語(補語)」を結びつけ、明確な文章にすることもできるだろうけれど、そういう面倒なことをしなくても、この一連の「ずるずる(区切りなさ)」ははっきり「わかる」。自分の「肉体」で再現できる。「肉体」は切断するともう肉体ではなくなる。で、そうやって「ずるずる」と切断されずに動くのが「肉体」の特徴なら、「ずるずると首がのびる」も、それでいいじゃないか、と思うのである。「ずるずる」を信じているので、「首がのびる」も信じてしまうのである。
変だねえ。変だよ、確かに。
で、その変な感じを抱えながら、私の考えは「飛躍」する。「意味」とはまったく関係ないことを思いはじめる。考えはじめる。
倉橋は「ずるずる」を書きたかったのだ、と。
キリンを登場させることで弱肉強食の野生の世界と、人間の競争社会を重ね合わせ、「意味」を語るというよりも、そういうふたつの世界が「ずるずる」と重なる。その「ずるずる感」そのものを書きたかったっじゃないかなあ、と思いはじめる。
ほんとうは重なるはずのないものが、重なる。「比喩」になる。「寓意」になる。その「比喩」と「寓意」を分析し、「意味」として語り直すことが、たとえば「批評」というものだとすると、倉橋の書いているのは逆のこと。「意味」なんて、考えていない。「意味」なんて、知らない。確かに、そのふたつは重なって見えるかもしれないけれど、それは「意味」を語ってしまうと、逆に分離してしまう。そうではなくて、「結合したまま」(分離できない何か)を書きたいのだ、と思ってしまう。
つまり「ずるずる」こそがこの詩のなかで倉橋の書きたかったこと。
で。
そういう「意味」以外の何かこそが書きたかったこと--という証拠(?)は、たとえば「じゃよ」「じゃった」「んだから」というような「口調」にもあらわれている。
「口調」というのは「寓意」の「意味」を明確にするとき、ことばから除外されてしまう。けれど、その除外されたものこそが「文体」。ことばの「からだ(肉体)」である。「じゃよ」「じゃった」「んだから」を取り除いてしまえば、そこには「生きている肉体」はなくなってしまう。「肉体」は動けなくなってしまう。
「意味」は「思想」ではない。
「意味」でないものこそ「思想」である。「意味」ではないものが、「いのち」が動くことを支えている。「意味」は「肉体」を切り刻んでしまう凶器である。
などと書いてしまうと、それこそ、それがまた「意味」になって動きだしてしまうというややこしいことが起きるのだが……。まあ、そういう矛盾を抱えながらしか、ことばは動かないものなんだろうなあ、
と、脱線したが、強引に詩に戻ろう。
「意味」の否定を、次の部分から、強引に引き出してみよう。
おかげでおまえは父なし児じゃ
この「おかげ」は誤用だね。「おかげ」というのは誰かの「助け」によって、というのが「意味」なのだけれど、倉橋(おばば?)は、それをねじまげてつかっている。「そのせいで」というかわりに「おかげで」と書いている。
でも、この「誤用」は、一般に流布もしている。「流通言語」にもなっている。「おかげで、おれは大恥をかいた」とかね。「正しい意味」ではない何かが「ずるずる」と越境して、ことばをねじまげている。
その「ずるずる」の力--そいういうものが、倉橋の詩にあるなあ。その「ずるずる」の力を、私は、この詩から読んでいるのだなあと思う。
(あした、また、このつづきを書くかもしれない。)
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