詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(71) 

2014-06-01 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(71)          2014年06月01日(日曜日)

 「一九〇三年の日々」は恋人との出会いと別れを書いている。そう思って読んでも、何か不思議な感じがする。

二度と会わなかった--あんなに早くすべてが去るとは……
詩神の眼、蒼白の
顔……暮れなずむ通りでのこと……。

 夕暮れの通りで出会ったのだろう。その眼が印象的で、カヴァフィスは詩ごころをかきたてられた。何篇も詩を書いたかもしれない。しかし、何かがあって別れてしまった。それから二度と会わなかった。そう、想像できるのだが、不思議なのは、充実した日々が「あんなに早く」去ってしまった書いてあるだけで、その日々がどんなふうに充実していたかカヴァフィスが書いてないことだ。「あんなに早く」の「あんなに」も、ことばとしてそう書いてあるが、カヴァフィスの思いがそれ以上つたわってこない。悲しみや苦悩が、よくわからない。

ふたたびは会わなかった--。
わがものとなったのは全くの偶然だった。
あっさりあきらめはしたが、
痛いばかりの憧れは残った。
詩神の眼、蒼白の顔、
その唇。ふたたびは見なかったのだよ。

 カヴァフィスの「男色」のどの詩でもそうだが、相手の男の様子がはっきりしない。美男子であることは想像できるが、どれくらい美男子なのか見当がつかない。どこに特徴があるのか、さっぱりわからない。「個性」を描写する必要はないということなのだろうけれど、それではどこにカヴァフィスは恋をしたのか。どこに欲望したのか。そういうことは、あまりにも主観的なことがらだから書く必要はないということなのかもしれない。
 では、何が書きたいのか。
 恋が偶然だった。だから別れも偶然だったのか。しかし、ここに書いてある「あっさりあきらめはしたが、/痛いばかりの憧れは残った。」は、あまりにあっさりしていないだろうか。
 と、書いてしまって、ふと私は考え込む。ほんとうにあっさりと書いているのか。
 「痛いばかりの憧れ」。この言い回しの不思議さ。「痛い」と「憧れ」の結びつき。あ、これが「恋人」の残してくれたものなのだ。それは最初から「痛い」わけではなかった。最初は快感だった。けれど、別れてまって、最初の一瞬の(一目惚れの)、美しさが「痛み」のようにこころに突き刺さっている。
 思い出すのは、その美しさだけ。特別な「修飾語」が不要な、絶対的な美しさ。それを感じた出会いの瞬間。「日々」ではなく、その瞬間だけがいつまでもなつかしい。
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