詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(まえがき)

2014-06-09 10:51:26 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(まえがき)
                           
 『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫)を手にして、私が最初にしたことは「父の死」を探すことだった。私は谷川の作品では「父の死」がいちばん好きだ。日本の詩の最高傑作だと思っている。
 ところが、その「父の死」がない。
 なぜなんだろう。
 私は谷川俊太郎の詩が好きだが、私の「好き」という気持ちは、どこか間違っているんだろうか。
 『自選集』を読み通してみると、ほかにも私の好きな詩がない。
 なぜなんだ!
 まるで恋人に振られたかのような衝撃を受けてしまった。動揺してしまった。
 
 『自選集』の最後に山田馨の「解説」がある。そのなかに「この詩集を起点にして、谷川さんの広大な詩の海に乗り出していって欲しい。そして一人一人の方に、自分らしい、個性的で、贅沢な、一大アンソロジーを編んでいただきたいと願う。」と書かれている。よし、それでは、私は私なりに谷川の十篇を選んで、どんな具合に「好き」なのか、それを語ってみよう。谷川さんのほんとうの姿はこうなんですよ(こう見えるんですよ)と伝えたい。そうすることで「父の死」を選ばなかった谷川を、「父の死」振り向かせてみよう。まるでふられた恋人の敵討ち(?)みたいな感じだが、そんなふうに思った。私が「父の死」を書いたわけでもないし、私が「父の死」という作品でもないのだが……。
 そして書くなら十篇。膨大な作品の中から十篇だけ選ぶ方が百篇選ぶよりも贅沢だ。誰も書かなかった谷川俊太郎を書くぞ、と決意した。「鑑賞」でも「批評」でもなく、「体験」として書いてみようと思った。
 恋愛が「体験」なら、詩との出会いもまた「体験」だからだ。
 だが、篇を選ぼうとして、困ってしまった。あれも好き、これも好き、と目移りしてしまう。何編か抜き出してリストをつくってみるが、リストに入りきれなかった作品が気になる。ほんとうにこれだけで谷川が語れるのか。あちこちで読んだ谷川作品への評価がちらちら動いたりする。あの作品が入っていないのはおかしい--と言われるだろう。何と言われようと関係ないはずなのに、気になってしまう。谷川も「私の代表作は別にある」と言うかもしれない。「世間の批評」に邪魔されて、初めて読んだときの、読んだ瞬間の気持ちにもどれない。
 でも、書きたい。気取った(?)批評ではなく、「出会い」を書きたい。
 予行演習をしてみよう。
 「十篇」を覚前に『こころ』をテキストに、初めて詩を読んだ瞬間の気持ちを書く練習をしてみよう。詩との出会いは恋人との出会いに似ている。最初の印象がいちばん正しい。いや、すべての印象は最初にかえっていく。
 そうやって書いたのが『谷川俊太郎の「こころ」を読む』(思潮社、06月末発行予定)のブログの文章。悪口のようなこともかなり書いてあるので、隠しておくと陰口みたいになっていやだなあ、そう思いブログを冊子にして谷川におくった。すると谷川が「おもしろい」と言ってくれた。本にする手筈を整えてくれた。びっくりしてしまった。うれしかったが、ここでまた雑念のようなものがはいり込んでしまった。
 えっ、気に入ってくれている?
 ここで、変なことを言ったら、嫌われてしまうかなあ。もっと変なことを書きたいんだがなあ。
 昔なじみの池井昌樹には「おまえ、ここは谷川さんの気持ちを優先しろよ。嫌われるようなことはするなよ」と脅された。
 あ、こんなことを考えていたら、「私の好きな十篇」とは違ったものになってしまいそう。
 本が出るまでは、一休みということにしようかな。本が出てしまえば、すべてがリセットされる。『こころ』についての感想は、もう私のものではない。本は谷川の思いとも、私の思いとも無関係に動いていく。読者がかってに動かしていく。誰がなんと言おうと、私には何もいえない。

 あ、これだね。
 
 詩もまた作者とは関係がない。読んだ人間がかってに動かしていく。私の書きたいことは、簡単に言ってしまえば、こういうことなんだ。
 谷川は「父の死」を書いた。私はその詩が好き。谷川の気持ちと私の気持ちは関係がない。私は谷川が「父の死」をどんな気持ちで書いたか、ということは気にしない。そこに書かれていることばが好き。そこに書かれていることばを自分勝手に解釈し、感想を言うだけだ。
 私の感想が、谷川の気持ちと重ならなくたって関係ない。
 読んだ瞬間から、詩は作者のものではなく、読者のものである。どんなふうに読もうと、それは読者のかって。「父の死」にかぎらず、そのほかの谷川の詩も、それは読んだ瞬間から「私のもの」。谷川の「真意(心情)」も世の中の「批評」も関係ない。
 だいたい、作者の思い(思想?)どおりに読まないと「正しくない」、作者の思いを「正しく」読み取るのが「文学鑑賞」だとするなら、「文学」に駄作はなくなる。どんな作品にも作者の「正しい思い」はある。「正しい思い」を「正しく読む」とき、すべての作品は「正しい」ものになってしまう。
 そうではなくて、どんなふうに間違っても、それでもなおかつ「おもしろい」のが文学というものだろう。こんな間違え方をしても、なお、ことばはそのまま楽しく動いている。まだこんな間違え方もできるぞ、と遊ぶのが文学だろう。

 さて。
 踏ん切りがついた。(出版の予告も出たし……。)
 「谷川俊太郎の十篇」。私は「間違い」だらけの感想を書く。初めて読んだときの、わけのわからない興奮を、矛盾したまま書いていきたい。
 
 (作品の感想はあすから随時連載します。)

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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米田憲三「冬の銀河」

2014-06-09 09:30:11 | 詩(雑誌・同人誌)
米田憲三「冬の銀河」(「原型富山」163 、2014年04月10日発行)

 米田憲三「冬の銀河」は、

星ひとつ流れしというわが追えど天涯淡々として鎮まる銀河

 という歌ではじまる連作。ちょっとわかりにくい。「星ひとつ流れしという」の「という」が弱々しくて「天涯」とか「銀河」という強い響きに正確に向き合っている感じがしない。
 おかしいなあ。
 何か気になるなあ。
 そう思いながら読み進むと、妹の長男(米田の甥)が職場で倒れ、そのまま帰らぬ人になった経緯が歌になってつづく。
 「星ひとつ流れし」というのは、その長男である。
 米田、妹、甥という登場人物の関係が「という」ということばのなかにも反映しているのかもしれない。肉親だけれど、一等親ではないので、完全に米田の肉体と向き合わない。米田には米田の肉体があり、そのことが甥よりも銀河そのものを身近にしているのかもしれない。
 連作中、妹、甥が出て来ない作品の方が緊迫感があるのは、米田の肉体と自然が直接向き合っているせいだろう。

通夜の場をぬけて帰るに狂い降る吹雪に巻かれ途失う

灯りなき夢幻の雪野を迷わせて卍巴に襲いかかる雪

 この2首は、雪そのものを感じさせる。それは米田の肉体を阻んでいるのだが、米田を阻むことで、米田そのものとなる。雪が米田の悲しみを襲っているというよりも、悲しみが雪になって米田を襲っている。この雪と向き合うことで、米田は悲しみをはっきりと向き合う--という感じだ。
 言いなおすと。
 「通夜の……」の「帰るに」「吹雪に」の「に」の繰り返しの中に、不思議な音の力がある。同じ音が別なものをひとつにする。「帰る」の主語は米田で、歌の意味はそこでいったん切れるのだが、意味を切らずに(?)、そのまま米田が「狂い/降る」という動詞を経て、吹雪「に」なってしまう。吹雪になって狂うしかない悲しみ、吹雪になって狂うことができればすくわれるのにといった感じの悲しみが見えてくる。「に」の音が同じであるために、意味が錯綜する。そして、その錯綜がそのまま米田「に」(この「に」は私が強引に付け加えたものだが)返ってきて、米田は「途(を)失う」。悲しみと「途失う」は、そのとき「同義」になる。
 そういう葛藤というか、混沌としたところをくぐりぬけたあと、米田は、甥と妹にもう一度出会う。
 吹雪に向き合ったあと、米田のこころは、ストーリー(甥が急病に倒れ、亡くなるという事実)から少しはみ出す。描写が「説明」ではなくなる。この変化が、私には、とてもおもしろく思えた。人間が動きだした、という感じがしたのである。

少年の君は夏陽に焼かれつつ屋上にトランペット吹きいし

長子逝かせ一気に老けし妹の髪白く姿も小さくなれる

 甥の思い出と、いまの妹の姿の描写だが、その描写の中に自然に米田自身の肉体がとけこんでいる。ストーリーを追うのではなく、ふたりを肉体ごとつつみこんでいる。
 そういう変化があって、最後の3首。これが美しい。

街を抜け一人ひとり降りてゆきてわれのみとなる寒き終バス

心ほそりて日々暮らしいむ汝のことまたも思えり如月の雪



誰が母神零しし乳か流れゆくそのはて知れず冬の銀河の

 特に「誰が……」では、米田は妹(母神)になって、長子への乳を零している。銀河(ミルキーウェイ)を客観的に描写しているのではなく、あれは息子を育てる母の乳だと、息子の母(妹)になって実感している。離れた場所から「母」を客観的に描写しているのではなく、「母」の主観として、歌が生まれてくる。

 連作だからこそ生まれた1首なのかもしれないが、連作を突き破って屹立する感じがするのは、この歌のなかで米田が完全に生まれ変わっているからだろう。
ロシナンテの耳―米田憲三歌集 (原型叢書)
米田 憲三
角川書店
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(79)

2014-06-09 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(79)          2014年06月09日(日曜日)

 「アリストブゥロス」も歴史が題材。アリストブゥロスは権力争いの過程で溺殺された。その死をヘロデ王は悲しむ、国民全てが嘆く。もちろん母も。その母の描写。

そのひとアレクサンドラは悲劇に嘆き、泣く。
だが人目がなくなる刹那に音調が変わる。
吠え、猛り、呪い、忘れるものかと誓う。
よくもコケにしたな。だましたな。
ついにやりおった。
アスモナエアス家を絶滅させた!
どうしおったか、あの王の漫画め。
陰謀、小細工、悪人め。
どうしくさったか?
よほどの筋書き、仕組んだか。

 第一太后が、その気品ある人間とは思われないことばを吐く。「地位」とは無関係に、母そのものに生まれ変わってことばを発する。ただことばを発するだけではなく、「音調が変わる」。ことばの「意味」は辞書にあるのではなく、いつでも「口調」にある。「肉体」を通ってくるときの「音」の違いのなかにある。
 この「音調」の違いを中井久夫は「俗語(口語)」を駆使してあからさまにしている。「よくもコケにしたな。」という気品をかなぐり捨てたことばのスピード、なまなましさが、そのまま読者の「肉体」に響いてくる。
 「よくもコケにしたな。」ということばを読むとき、読者は、そのことばの「意味」を考えない。意味を考える前に、そのことばが発せられたときの(そのことばを聞いたときの)、相手の顔を思い出す。「怒り」はことばでは説明できない。ことばでは説明できない「怒り」の煮えたぎる肉体、目の色、手足の動きが目に見える。
 「ついにやりおった。」「どうしくさったか?」も同じだ。そのことばに「意味」はない。そのことばは「意味」ではなく「肉体」をもっている。「肉体」が動いている。破裂する音そのままに、「肉体」が破裂している。「声」が破裂して、荒れている。
 そして人は、彼女の怒り、嘆きがどんなものであるか、その感情を自分のものとして理解することはないけれど、怒っているということだけははっきりと「わかる」。「肉体」が共感する。感情を描いているが、これはギリシャ悲劇のように、叙事詩だ。
 最後の方のことばも強烈である。

人民のところへ出て行って
ヘブライの民に叫びたい、

 第一太后は、そのとき「人民」の肉体を生きている。肉体の共感を求めている。この肉体は、ことばの「音調」からはじまっている。
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