詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤本徹「ミチルの夏」

2014-06-03 11:06:58 | 詩(雑誌・同人誌)
藤本徹「ミチルの夏」(「現代詩手帖」2014年06月号)

 藤本徹「ミチルの夏」は「現代詩手帖」の「新人作品」。中本道代が選んでいる。

屋上で子どもたちが走りまわってる
いつもの朝
あたしはお布団のなかでぐーっと伸びをして
ひかりの匂いをめいっぱい吸って
さえずる鳥の音楽に耳を傾けて
ああ生きているって素晴らしい
なーんて
嘘です

 と、嘘からはじまる。ことばはほんとうのことを語ることもできれば嘘も語ることができる。ほんとうと嘘の区別は、ことばを読むだけではわからない。「嘘です」と書いてあっても、その「嘘」が嘘だとしたら?
 何がほんとうで何が嘘かわからない。けれども、私はことばを読み、そこに「ほんとう」があると思って読む。そのとき頼りになるのは、私自身の「ほんとう」の体験である。他人のことばに私の体験してきたことを重ねて、私の体験してきたことを思い出せれば、それは「ほんとう」なのだ。
 書き出しの藤本のことば、「布団のなかでぐーっと伸びをして/ひかりの匂いをめいっぱい吸って/さえずる鳥の音楽に耳を傾けて/ああ生きているって素晴らしい」と思ったこともある。これは「ほんとうだ」とその瞬間に思う。また、次の瞬間に「なーんて/嘘です」と否定してみたこともある。だから、これも「ほんとう」。
 前の「ほんとう」と後の「ほんとう」は対立している。矛盾している。そしてそれは矛盾することによって、別の「ほんとう」にもなる。気持ちは次々にかわる。矛盾は、気持ちの「変化するというほんとう」をつかみとっている。
 「前のほんとう」と「後のほんとう」のあいだには、「時間」があるのだが、その時間はどうも区別できない。--区別してもしようがない。あることを思った瞬間にあらわれてくる時間と別なことを思った瞬間にあらわれてくる時間の「あいだ」は、あっても、ないに等しい。「前のほんとう」は1年前のことか、1秒前のことか--と書くと、変な感じだが……。「前のほんとう」を「ほんとう」と感じた私の「前」は1年前のことか、1秒前のことか、「後のほんとう(嘘です)」を「ほんとう」と感じた私の「後」は1年前のことか、それとも5年前のことか。藤本の書いている「ほんとう」の「前/後」と私の体験した「ほんとう」の「前/後」は同じ順序で起きているか。これは、実は、わからない。「前/後」の、言い換えると「時間」の「ほんとう」はわからない。「時間のほんとう」がわからないまま、そこに書かれていること、「前/後」の変化を瞬時のうちに受け入れてしまう「気持ち」のなかに「ほんとう」があると感じてしまう。
 もちろん、この「ほんとう」を「嘘です」と否定することもできるのだけれど。

 こういうことは、「わからない」。「答え」がきっとないことがらなのだと思う。そして、わからないからこそ、私は詩の続きを読む。次の矛盾が出てくるのを待つ。次の矛盾のなかに、自分の体験してきたことをどれだけ投げ込み、同時にどれだけ思い出せるか--それを楽しむようにして読み進める。

去年母が亡くなりました
夏でした
まっしろなひかりが溢れていました
蜃気楼みたい
そんな気がしました
あたしと母は反りが合いませんでした
四つ離れた弟は
溺愛されていた弟は
号泣していました
あたしももちろん泣きました
けれど、汗ばんでいく腋がやだな
とか
ときどき変な鳴き方をする蝉がいるな
とか
そんなことばっかり
なにがほんとうなのか
わかりませんでした

 母が死んで悲しいのだけれど、その悲しみのなかに全身がはまりこむわけではない。渡弟と自分と母との関係を思ってみたり、わきの汗が気になったり、蝉の声が気になったりする。気持ちは「ひとつ」にはなれない。
 のだけれど。
 この気持ちが「ひとつ」になれずに、次々に変化する瞬間の、瞬間の「ひとつ」「ひとつ」が「ほんとう」として迫ってくる。--そう思う瞬間がある、私もそんなふうに「悲しみ」とは別なことを考えたことがある、と思い出す。
 「ほんとう」は「統一」できるものではなく、何かその瞬間を突き破って、自分から溢れていくものかもしれない。溢れていくといっても、実は、そんなものは溢れず、ただ自分の「肉体」がぱかっと割れるように開かれる。「わきの汗、いやだな」の「いや」が正直に動く。その「正直」が「ほんとう」ということかもしれない。
 「母と反りが合いませんでした」と言ってしまう正直、弟が溺愛されていたと感じていたと書いてしまう正直。その正直が、悲しみを「ほんとう」にする。弟ほどには号泣できないな、という不思議な悲しみをリアルに感じさせる。他人の感情に触れて(それがほんとうの感情か嘘の感情か、それはわからないのだけれど)、他人の感情と共通するもの、違うものを瞬間的に感じて、また自分の気持ちが動いてしまう--そういう変化のなかに、「ほんとう」としか呼べないものがある。

 長い詩なので一部だけを引用し、感想を書いた。
 「ほんとう」と「嘘(気持ちのずれ)」が交錯しながら、「ほんとう」が少しずつ「正直」になっていくときの変化を、ていねいにことばにしたとてもいい詩である。全行は「現代詩手帖」で読んでください。



現代詩手帖 2014年 06月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(73) 

2014-06-03 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(73)          2014年06月03日(火曜日)

 「カイサリオン」はふたつの「声」で書かれている。前半は「私(カヴァフィス)」が主語。プトレマイオス家についての文書を読んだ。「湯水のような賛辞にお世辞。/誰についても同じ字句。」が並んでいる。それに退屈したときの「声」が書かれている。
 そしてそのあと、本をしまおうとしたとき「カイサリオンの小記事」が目に止まる。

きみの魅惑は不確定性にある。
歴史からわかるのは
ごく僅かな事実だけだから、
私のこころできみを自由に造形できた。
きみを美貌で敏感な人にした。
きみの顔に心打つ夢が美を与えた。
それが私の技だ。

 さて、これをどう読むべきか。「小記事」の内容を要約(転写)しているのか。それとも、その記事を読んだ後のカヴァフィスのこころを書いているのか。「私のこころできみを自由に造形できた。」は、「ごく僅かな事実」をもとに、カヴァフィスが「きみ(カリサリオン)」を自由に造形しなおした、と読むのがいちばん理に適っていると思うが、この二連目に書かれている「私」がカリサリオンであると思って読むのもおもしろいかもしれない。
 カリサリオンは王であると同時に詩人だったと想定する方がもおもしろいと思う。彼は誰かを自分の理想の男にした。

私の想像は完璧になって、
昨夜晩く、灯火が消えた時
--わざと消えるにまかせたのさ--、
きみは私の部屋に来た。私の前に立った。

 「その夜」ではなく「昨夜」が、そんな想像を駆り立てる。もしカヴァフィスがカリサリオンを理想の男として描いているのなら、本を読み終わったあとに「きみ」はやってくるのだから「昨夜」は存在しない。本のなかのカリサリオンには「昨夜」はあるけれど……。
 そのカリサリオンは「きみ」と何をしたか。それは、もう書く必要がない。「きみ」を完璧な男に仕立て上げたあと、恋は完璧に実現されるだけである。
 しかし。
 「私の想像は完璧になって、」を別な見方でとらえることもできる。カヴァフィスの想像は完璧になった。だから、その完璧な想像は、「昨晩」さえも作り上げるのだと。
 カヴァフィスとカリサリオンは、そういう微妙な「想像の交錯」のなかで融合する。そういう融合(区別のなさ)を引き起こすのが詩というものかもしれない。



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