谷川俊太郎の十篇(2 かなしみ)
2014年06月11日(水曜日)
かなしみ
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
*
私が谷川俊太郎という詩人を知ったのは、どの作品が最初だったか、はっきりしない。『二十億光年の孤独』ではないと思う。私が詩を書きはじめた一九七〇年代には谷川はすでに何冊も詩集を出している。そのうちの、どれか。あるいは「現代詩文庫」がまとまって読んだ最初かもしれない。
当時の私には、難解で過激なことばの洪水が「現代詩」の主流のように見えた。何一つ理解できていなかったが、字面の鮮やかな熟語を過激に組み合わせ、いままで存在しなかったイメージを噴出させるものが「現代詩」であると思っていた。その先入観で見ると、谷川の詩は何か軽い、繊細な青年の美しさを生きているという印象があった。難解な熟語がなく、真似して書けそうな気もした。青春時代の私は谷川の詩が好きではなかった。
当時の私の思いには、谷川俊太郎が谷川徹三の息子で、谷川徹三が息子の詩を三好達治にみせ、三好達治がその才能を評価し、谷川を詩人として売り込んだというエピソードの方が強く影響しているかもしれない。「親の七光か」という偏見や先入観をもっていた。『二十億年の孤独』を「偏見」なにし読めるようになったのは、ずいぶんあとになってからである。
というのは、個人的な「前置き」で……。
初期の谷川の作品では、私は「かなしみ」が大好きだ。特に2連目が好きだ。
この詩の2連目をどう読むか。落し物をしたと届けに行くのか。落し物を受け取りに行くのか。二通りの読み方ができる。
まず「落とし物をした」と届けに行ったと思って読んでみる。届けたら「余計に悲しくなってしまった」のは、落としたものが大事なものであると気づいたからである。「余計に」は「さらに」という意味になると思う。見つからないかもしれない。もう出て来ないのではないか。
あるいは「僕」、何を落としたかわからないが、「何かとんでもない」ものを落とした(なくした)という「喪失感」そのものを届け出たのかもしれない。こんな「喪失感」をわかってくれるひとはいない。遺失物係だって、届け出を受け付けてくれるとはかぎらない。だから「余計に」悲しくなったのかもしれない。
落とし物が出てきて、それを受け取りにいったという読み方ではどうか。
落とし物が出てきたのだから「悲しい」はずはない。そういう読み方はできない--というかもしれないが、私はそうは思わない。
落とし物が出てこないのはたしかに悲しいが、見つかったとしても、それがうれしいとは限らない。こんな言い方が適切かどうかわからないが、何かが充たされるとき、それが求めていたものであるにもかかわらず、逆に「裏切られた」という気持ちになるときがある。不幸が味わえない、不満を味わえない気持ちがどこかからあらわれる。人間はときには「悲しい」を思う存分味わいたいのに、それが味わえなくなった悲しみ。(特に青春時代は、自分を悲劇の主人公にしたい気持ちにあこがれる。悲しみにあこがれるものである。)
理不尽な思いだが、そういう気持ちがある。
「余計に」は落とし物をしたとき悲しみとは違った悲しみの、その「違った」を意味する。同じものではない。むしろ、あってはならない「感情」。それは「余計な感情」である。「余計な悲しみ」である。
谷川は「余計に」と書いているであって「余計な」ではない。だから落とし物が見つかって悲しいという読み方は間違っている--という指摘を受けるかもしれない。
それは承知している。そう言われることはわかっている。わかっているけれど、私は、そう読みたい。人間のなかにある矛盾したこころ、気持ちを、矛盾したまま放り出している詩として読みたい。
そう読むとき、「余計に」の果たす役割が大きくなる。悲しくなるはずがないのに悲しくなる――そこに「余計」がある。「意味」の「過剰」がある。余計とは過剰のことなのである。その過剰は、少し多いではない。多すぎて矛盾にまでたどりついてしまう過剰だ。
この矛盾と1連目は響きあう。矛盾にたどりつくことで見えてくる1連目の不思議さがある。
落とし物が見つかるという悲しみ--それは、落とし物という自覚がないときの方が強いかもしれない。自分では大事なものとは思わない。だから落としたことに気がつかない。それなのに遺失物係から「落とし物ですよ。届け出がありました。受け取りにきてください」と連絡がはいる。えっ、僕は落とし物をしたのか?
遺失物係から連絡が入って、やっと「何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい」と気づく。気づくといっても、そこには「らしい」という不確定な要素がまじる。ほんとうに落とし物をしたのだろうか。それはほんとうに僕の落とし物なのだろうか。
受け取りにいって、その落とし物を目にしたとき、あ、それは僕のものだと気づく。
それならまだいいが、その落とし物に僕の名前が書いてあるのに、僕のものであると自覚できない--そういう読み方もできる。落としたものは「もの」ではなく、何か精神的なもの、こころようなものかもしれない。
読みつづければ読みつづけるほど、「意味」が確定できない。「意味」は特定できないのに、何か透明な不安のようなものを感じる。「透明な」というのは、「意味」が特定できないからこそ感じるのかもしれない。「存在する」ことは「わかる」のに、それをあらわすことばがない。
そして、意味が確定できないと思ってもう一度読み返すと、一行目の「あたり」という表現も不思議な感じがする。絶妙な感じがする。「あたり」か。ぼんやりと指定されているが、明確な一点ではない。「特定」されていない。「不確定」は一行目からはじまっている。
いくつかの読み方から、どの「意味(ストーリー)」を採用するか。自分の「解釈」とするか。はっきりしない。私は「落とし物が見つかって受け取りにいって、余計に悲しくなった」と読むのが好きだが、その読み方にしても、日々、違う。同じ感想が書けない。何か余分なことを書き加えたり、書いたことばを削ったりする。
この揺れ動きが、たぶん「詩」というものだと思う。
同じことばなのに、ある日突然、違った「場」で、どこからともなくよみがえり、いまある現実と結びつき、そのいまを違ったものに変えてしまう力--あ、あれは、こういうことだったのかと私を納得させてしまう力をもったことば。それが、詩。
「かなしみ」は短い詩だが、そういう力が随所に輝いている。全体を統一している。この不安定な、そして透明な揺れ動きに比べると「二十億光年の孤独」は妙に落ち着きはらっている。有名な、
は、「意味」の力がみなぎっている。「定義」になりすぎている。
最後の二行、
これは洒脱すぎる。洒脱すぎて「洒脱」という意味になって、揺るぎなく存在している。
この詩よりも、やっぱり「かなしみ」の方がいいなあ。
2014年06月11日(水曜日)
かなしみ
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
*
私が谷川俊太郎という詩人を知ったのは、どの作品が最初だったか、はっきりしない。『二十億光年の孤独』ではないと思う。私が詩を書きはじめた一九七〇年代には谷川はすでに何冊も詩集を出している。そのうちの、どれか。あるいは「現代詩文庫」がまとまって読んだ最初かもしれない。
当時の私には、難解で過激なことばの洪水が「現代詩」の主流のように見えた。何一つ理解できていなかったが、字面の鮮やかな熟語を過激に組み合わせ、いままで存在しなかったイメージを噴出させるものが「現代詩」であると思っていた。その先入観で見ると、谷川の詩は何か軽い、繊細な青年の美しさを生きているという印象があった。難解な熟語がなく、真似して書けそうな気もした。青春時代の私は谷川の詩が好きではなかった。
当時の私の思いには、谷川俊太郎が谷川徹三の息子で、谷川徹三が息子の詩を三好達治にみせ、三好達治がその才能を評価し、谷川を詩人として売り込んだというエピソードの方が強く影響しているかもしれない。「親の七光か」という偏見や先入観をもっていた。『二十億年の孤独』を「偏見」なにし読めるようになったのは、ずいぶんあとになってからである。
というのは、個人的な「前置き」で……。
初期の谷川の作品では、私は「かなしみ」が大好きだ。特に2連目が好きだ。
この詩の2連目をどう読むか。落し物をしたと届けに行くのか。落し物を受け取りに行くのか。二通りの読み方ができる。
まず「落とし物をした」と届けに行ったと思って読んでみる。届けたら「余計に悲しくなってしまった」のは、落としたものが大事なものであると気づいたからである。「余計に」は「さらに」という意味になると思う。見つからないかもしれない。もう出て来ないのではないか。
あるいは「僕」、何を落としたかわからないが、「何かとんでもない」ものを落とした(なくした)という「喪失感」そのものを届け出たのかもしれない。こんな「喪失感」をわかってくれるひとはいない。遺失物係だって、届け出を受け付けてくれるとはかぎらない。だから「余計に」悲しくなったのかもしれない。
落とし物が出てきて、それを受け取りにいったという読み方ではどうか。
落とし物が出てきたのだから「悲しい」はずはない。そういう読み方はできない--というかもしれないが、私はそうは思わない。
落とし物が出てこないのはたしかに悲しいが、見つかったとしても、それがうれしいとは限らない。こんな言い方が適切かどうかわからないが、何かが充たされるとき、それが求めていたものであるにもかかわらず、逆に「裏切られた」という気持ちになるときがある。不幸が味わえない、不満を味わえない気持ちがどこかからあらわれる。人間はときには「悲しい」を思う存分味わいたいのに、それが味わえなくなった悲しみ。(特に青春時代は、自分を悲劇の主人公にしたい気持ちにあこがれる。悲しみにあこがれるものである。)
理不尽な思いだが、そういう気持ちがある。
「余計に」は落とし物をしたとき悲しみとは違った悲しみの、その「違った」を意味する。同じものではない。むしろ、あってはならない「感情」。それは「余計な感情」である。「余計な悲しみ」である。
谷川は「余計に」と書いているであって「余計な」ではない。だから落とし物が見つかって悲しいという読み方は間違っている--という指摘を受けるかもしれない。
それは承知している。そう言われることはわかっている。わかっているけれど、私は、そう読みたい。人間のなかにある矛盾したこころ、気持ちを、矛盾したまま放り出している詩として読みたい。
そう読むとき、「余計に」の果たす役割が大きくなる。悲しくなるはずがないのに悲しくなる――そこに「余計」がある。「意味」の「過剰」がある。余計とは過剰のことなのである。その過剰は、少し多いではない。多すぎて矛盾にまでたどりついてしまう過剰だ。
この矛盾と1連目は響きあう。矛盾にたどりつくことで見えてくる1連目の不思議さがある。
落とし物が見つかるという悲しみ--それは、落とし物という自覚がないときの方が強いかもしれない。自分では大事なものとは思わない。だから落としたことに気がつかない。それなのに遺失物係から「落とし物ですよ。届け出がありました。受け取りにきてください」と連絡がはいる。えっ、僕は落とし物をしたのか?
遺失物係から連絡が入って、やっと「何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい」と気づく。気づくといっても、そこには「らしい」という不確定な要素がまじる。ほんとうに落とし物をしたのだろうか。それはほんとうに僕の落とし物なのだろうか。
受け取りにいって、その落とし物を目にしたとき、あ、それは僕のものだと気づく。
それならまだいいが、その落とし物に僕の名前が書いてあるのに、僕のものであると自覚できない--そういう読み方もできる。落としたものは「もの」ではなく、何か精神的なもの、こころようなものかもしれない。
読みつづければ読みつづけるほど、「意味」が確定できない。「意味」は特定できないのに、何か透明な不安のようなものを感じる。「透明な」というのは、「意味」が特定できないからこそ感じるのかもしれない。「存在する」ことは「わかる」のに、それをあらわすことばがない。
そして、意味が確定できないと思ってもう一度読み返すと、一行目の「あたり」という表現も不思議な感じがする。絶妙な感じがする。「あたり」か。ぼんやりと指定されているが、明確な一点ではない。「特定」されていない。「不確定」は一行目からはじまっている。
いくつかの読み方から、どの「意味(ストーリー)」を採用するか。自分の「解釈」とするか。はっきりしない。私は「落とし物が見つかって受け取りにいって、余計に悲しくなった」と読むのが好きだが、その読み方にしても、日々、違う。同じ感想が書けない。何か余分なことを書き加えたり、書いたことばを削ったりする。
この揺れ動きが、たぶん「詩」というものだと思う。
同じことばなのに、ある日突然、違った「場」で、どこからともなくよみがえり、いまある現実と結びつき、そのいまを違ったものに変えてしまう力--あ、あれは、こういうことだったのかと私を納得させてしまう力をもったことば。それが、詩。
「かなしみ」は短い詩だが、そういう力が随所に輝いている。全体を統一している。この不安定な、そして透明な揺れ動きに比べると「二十億光年の孤独」は妙に落ち着きはらっている。有名な、
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
は、「意味」の力がみなぎっている。「定義」になりすぎている。
最後の二行、
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
これは洒脱すぎる。洒脱すぎて「洒脱」という意味になって、揺るぎなく存在している。
この詩よりも、やっぱり「かなしみ」の方がいいなあ。
二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9) | |
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