詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(2 かなしみ)

2014-06-11 14:22:22 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(2 かなしみ)
                           2014年06月11日(水曜日)

かなしみ

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった



 私が谷川俊太郎という詩人を知ったのは、どの作品が最初だったか、はっきりしない。『二十億光年の孤独』ではないと思う。私が詩を書きはじめた一九七〇年代には谷川はすでに何冊も詩集を出している。そのうちの、どれか。あるいは「現代詩文庫」がまとまって読んだ最初かもしれない。
 当時の私には、難解で過激なことばの洪水が「現代詩」の主流のように見えた。何一つ理解できていなかったが、字面の鮮やかな熟語を過激に組み合わせ、いままで存在しなかったイメージを噴出させるものが「現代詩」であると思っていた。その先入観で見ると、谷川の詩は何か軽い、繊細な青年の美しさを生きているという印象があった。難解な熟語がなく、真似して書けそうな気もした。青春時代の私は谷川の詩が好きではなかった。
 当時の私の思いには、谷川俊太郎が谷川徹三の息子で、谷川徹三が息子の詩を三好達治にみせ、三好達治がその才能を評価し、谷川を詩人として売り込んだというエピソードの方が強く影響しているかもしれない。「親の七光か」という偏見や先入観をもっていた。『二十億年の孤独』を「偏見」なにし読めるようになったのは、ずいぶんあとになってからである。
 というのは、個人的な「前置き」で……。
 初期の谷川の作品では、私は「かなしみ」が大好きだ。特に2連目が好きだ。

 この詩の2連目をどう読むか。落し物をしたと届けに行くのか。落し物を受け取りに行くのか。二通りの読み方ができる。
 まず「落とし物をした」と届けに行ったと思って読んでみる。届けたら「余計に悲しくなってしまった」のは、落としたものが大事なものであると気づいたからである。「余計に」は「さらに」という意味になると思う。見つからないかもしれない。もう出て来ないのではないか。
 あるいは「僕」、何を落としたかわからないが、「何かとんでもない」ものを落とした(なくした)という「喪失感」そのものを届け出たのかもしれない。こんな「喪失感」をわかってくれるひとはいない。遺失物係だって、届け出を受け付けてくれるとはかぎらない。だから「余計に」悲しくなったのかもしれない。
 落とし物が出てきて、それを受け取りにいったという読み方ではどうか。
 落とし物が出てきたのだから「悲しい」はずはない。そういう読み方はできない--というかもしれないが、私はそうは思わない。
 落とし物が出てこないのはたしかに悲しいが、見つかったとしても、それがうれしいとは限らない。こんな言い方が適切かどうかわからないが、何かが充たされるとき、それが求めていたものであるにもかかわらず、逆に「裏切られた」という気持ちになるときがある。不幸が味わえない、不満を味わえない気持ちがどこかからあらわれる。人間はときには「悲しい」を思う存分味わいたいのに、それが味わえなくなった悲しみ。(特に青春時代は、自分を悲劇の主人公にしたい気持ちにあこがれる。悲しみにあこがれるものである。)
 理不尽な思いだが、そういう気持ちがある。
 「余計に」は落とし物をしたとき悲しみとは違った悲しみの、その「違った」を意味する。同じものではない。むしろ、あってはならない「感情」。それは「余計な感情」である。「余計な悲しみ」である。
 谷川は「余計に」と書いているであって「余計な」ではない。だから落とし物が見つかって悲しいという読み方は間違っている--という指摘を受けるかもしれない。
 それは承知している。そう言われることはわかっている。わかっているけれど、私は、そう読みたい。人間のなかにある矛盾したこころ、気持ちを、矛盾したまま放り出している詩として読みたい。
 そう読むとき、「余計に」の果たす役割が大きくなる。悲しくなるはずがないのに悲しくなる――そこに「余計」がある。「意味」の「過剰」がある。余計とは過剰のことなのである。その過剰は、少し多いではない。多すぎて矛盾にまでたどりついてしまう過剰だ。

 この矛盾と1連目は響きあう。矛盾にたどりつくことで見えてくる1連目の不思議さがある。
 落とし物が見つかるという悲しみ--それは、落とし物という自覚がないときの方が強いかもしれない。自分では大事なものとは思わない。だから落としたことに気がつかない。それなのに遺失物係から「落とし物ですよ。届け出がありました。受け取りにきてください」と連絡がはいる。えっ、僕は落とし物をしたのか?
 遺失物係から連絡が入って、やっと「何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい」と気づく。気づくといっても、そこには「らしい」という不確定な要素がまじる。ほんとうに落とし物をしたのだろうか。それはほんとうに僕の落とし物なのだろうか。
 受け取りにいって、その落とし物を目にしたとき、あ、それは僕のものだと気づく。
 それならまだいいが、その落とし物に僕の名前が書いてあるのに、僕のものであると自覚できない--そういう読み方もできる。落としたものは「もの」ではなく、何か精神的なもの、こころようなものかもしれない。

 読みつづければ読みつづけるほど、「意味」が確定できない。「意味」は特定できないのに、何か透明な不安のようなものを感じる。「透明な」というのは、「意味」が特定できないからこそ感じるのかもしれない。「存在する」ことは「わかる」のに、それをあらわすことばがない。
 そして、意味が確定できないと思ってもう一度読み返すと、一行目の「あたり」という表現も不思議な感じがする。絶妙な感じがする。「あたり」か。ぼんやりと指定されているが、明確な一点ではない。「特定」されていない。「不確定」は一行目からはじまっている。

 いくつかの読み方から、どの「意味(ストーリー)」を採用するか。自分の「解釈」とするか。はっきりしない。私は「落とし物が見つかって受け取りにいって、余計に悲しくなった」と読むのが好きだが、その読み方にしても、日々、違う。同じ感想が書けない。何か余分なことを書き加えたり、書いたことばを削ったりする。
 この揺れ動きが、たぶん「詩」というものだと思う。
 同じことばなのに、ある日突然、違った「場」で、どこからともなくよみがえり、いまある現実と結びつき、そのいまを違ったものに変えてしまう力--あ、あれは、こういうことだったのかと私を納得させてしまう力をもったことば。それが、詩。
 「かなしみ」は短い詩だが、そういう力が随所に輝いている。全体を統一している。この不安定な、そして透明な揺れ動きに比べると「二十億光年の孤独」は妙に落ち着きはらっている。有名な、

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

 は、「意味」の力がみなぎっている。「定義」になりすぎている。
 最後の二行、

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

 これは洒脱すぎる。洒脱すぎて「洒脱」という意味になって、揺るぎなく存在している。
 この詩よりも、やっぱり「かなしみ」の方がいいなあ。

二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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ウェス・アンダーソン監督「グランド・ブダペスト・ホテル」(★★★★★)

2014-06-11 12:37:52 | 映画
監督 ウェス・アンダーソン 出演 レイフ・ファインズ、F ・マーレイ・エイブラハム、マチュー・アマルリック、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー



 この映画にはシンメトリーが多用される。それは室内の影像、屋外の影像だけではなく、登場人物の「構造」もまたシンメトリーなのである。二人一組。その二人はホテルのコンシェルジェ(師匠)とベルボーイ(弟子)、ホテルのオーナーとオーナーを取材する作家が特徴的だが、一種の反シンメトリーを装いながら、鏡のように互いを整える。作家は整えられない、完全な観察者である--と思うかもしれないが、そうではない。作家の「ことば」がオーナーの「思い出」をたどることで、整えられ、ひとつの形(作品)になっていくという意味では、作家もまたモデルによって整えられるのである。
 なぜシンメトリーが多用されるかというと、影像の情報量が多いからである。多すぎるからである。こんなに多くの情報量を形式にあてはめないで映し出したら、観客は混乱してしまう。シンメトリーにすることで、「半分見ればいい」(あとの半分は同じもの)という感じになれる。この「半分」の効果は大きい。シンメトリーで半分になりながら、その半分は、さらに互いの「同じもの(鏡像になりうるもの)」だけを選んでいるからである。シンメトリーのなかで、あふれかえる情報がどんどん省略されていく。
 色彩も同じような感じだ。たくさんの色彩がある。けれど、そのなかから基調の色を選ぶと、それが全体を染め上げるので、細部を見なくてすむ。情報が多いにもかかわらず、見なくてもすむように全体を整理している。
 だから、登場人物がどんどん増えてきて、話がどんどん複雑になっていっても、ぜんぜん「複雑」にはならない。コンシェルジェが膨大な遺産の受取人になる、それをベルボーイが目撃し、やがてそのベルボーイがコンシェルジェの遺産を受け取るという形にストーリーが展開することがとてもよくわかる。さらに言えば、そのストーリー(遺産)を作家が受け取り、大成功する。ストーリーの反復は、いわば「時間」のシンメトリーである。意識のシンメトリーである。「整理」、単純化である。情報が増えれば増えるほど、「共通項」だけが、そのなかから浮かび上がる。その「整理」の方法がシンメトリー(二人一組)なのである。
 情報量が増えれば複雑になる--というのが一般的な考え方だが、ウェス・アンダーソンは、これを逆手にとっている。舞台となっているグランド・ブタペスト・ホテルもそうだが、膨大な遺産を残した女の住む城(?)の、たとえば次々に開かれていく扉は、単純にこの城は巨大だ、豪華だという認識に整理されていき、個別性は消える。
 だからこそ。
 監督は役者を次から次へと、豪華に出演させる。どの役者も映画の主人公を演じられる。けれど、映じさせない。脇役さえも演じさせない。一瞬でてきて、もうおしまい。それは、まるで縮小していくシンメトリーの目印のようでもある。登場人物が個性的でなければ、何もかもが消えてしまう。個性的であることによって、かろうじてシンメトリーを破っているのだ。
 そして、個性的な役者にシンメトリーを破らせながらも、なおかつ、その破れ目がどんどんシンプルなシンメトリーを生み出すように時間を動かしていく。これは、大変な力業だ。
 で。
 このシンメトリーには最後に大変な「仕掛け」がある。この映画のなかに「りんごを持った少年」の絵が出てくる。値段のつけられない傑作の一枚ということになっているのだが。--その絵のモデルがクレジットに出てくる。その役者は絵として登場するが、本人は出演しない。絵と映画にはでてこない役者がシンメトリーをつくっているのだ。
 そして、ここにこの映画の「哲学」がある。私たちが見ているもの(影像)はほんものではない。それは「モデル」を写し取ったもの。ほんとうは、ない。
 もし、ほんとう(ほんもの)があるとすれば、そのつくりだされた影像(絵)をから逆戻りしなければならない。影像(絵)を鏡にして、自分の生きている世界を、いま見たもののシンメトリーとして見る必要がある。
 できる?
 そう問いかけて、監督は高らかに笑っている。映画なんて遊び。映画なんて、おもちゃ箱さ、というわけだ。
                        (2014年06月08日、天神東宝5)



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(81)

2014-06-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(81)          

 「アイミリアノス・モナイ、アレクサンドリア人、紀元六二八年-六五五年」は、人と対面したときに武器ではなく「みなりと作法と話し方を/恰好の鎧にしよう」とした男のことを描いている。
 だが、そんなことが可能なのか。

奴等は私をいたぶりにかかるはずだ。
だが、そばに来る奴の誰一人として
私の傷のありかはわかるまい。私の弱い箇所は
詐術が私をすっぽりと覆っているから大丈夫だ」

アイミリアノス・モナイはそう言って胸を張った。
だが、あいつはほんとにそんな鎧をつくっていたか?
とにかく、長く身に着けていなかったのは確かだ。
二十七歳でシチリアで死んだのだから--。

 「紀元六二八年-六五五年」はどんな年なのか。何が起きたのかわからないと、この詩を理解したことにならないかもしれないのだが、そういう時代背景を抜きにしても、人は「みなり、作法、話法」だけで世の中を潜り抜けられないことを知っている。いつだって「詐術」だけでは生きていけないことを知っている。
 カヴァフィスは、なぜ、こういう詩を書いたのか。
 「話法」そのものが「主観」であるとカヴァフィスは感じていたのかもしれない。対人心理だけで生きていける--そう信じるのも「主観」である。カヴァフィスは「主観」ならばどんな「主観」であっても肯定しようとしているのかもしれない。
 その一方で、「だが、あいつはほんとにそんな鎧をつくっていたか?」という一般的な疑問も「主観」として登場させている。「みなり、作法、話法(詐術)」では生きていけないと考える「主観」もきちんと描いている。
 その対比によって、世間一般が「時代」をどのように見ていたかがわかる。そんなもので「長く」世の中をわたっていくことはできない。常に「時代(の支配者)」がかわりつづける。
 乱世なのだ。
 「話術(詐術)」が通じるのは、平和な世界である。
 「とにかく、長く身に着けていなかったのは確かだ。」という行には、時代を見誤ったものへの冷たい視線がある。「長く」ということばに皮肉の冷酷な響きがある。
 人は誰でも、他人のふりを見てわが身をなおす。自分の動き方をきめる。「モナイになってはいけない」と乱世の人は思っただろう。
 そんなことより「紀元六二八年-六五五年」とわざわざ生きた年代を書いていること、時代に個性(時代の主観)を見て、モナイを強調している手法に目を向けるべきだったか。カヴァフィスはいつも個性と普遍を重ねている。
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