詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(6 日本語のカタログ「588」)

2014-06-15 15:44:09 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(6 日本語のカタログ「588」)
                           

七沢第一更生ホーム 厚木市七沢五一六-一 〇四六二(四八)二一一一 理学療法、作業療法、職業訓練
新潟県身体障害者更生指導所 新潟市岸町三-二一 〇二五二(六六)四一〇八 縫製、印刷、自動車操作訓練
富山県立身体障害者厚生指導所 富山市石金六〇 〇七六四(二一)一一六一 編物手芸、洋裁、自動車操作訓練、タイプ、写植
石川県身体障害者更生指導所 石川郡野々市町末松酉三二一 〇七六二(四八)三二〇四 洋服、洋裁、和裁、縫製加工
福井県身体障害者更生指導所 福井市尖陽二-三二一 〇七七六(二四)五一三五 洋裁、メガネ枠、編物、写植印刷
長野県身体障害者リハビリテーションセンター 長野市大字下駒沢字横町六一八-一 〇二六二(四三)三九五三 時計、縫工芸、クリーニング、孔版、精密機械



 この詩には「リハビリテーション関係施設一覧より」という注釈がついている。しかし、その注釈がなくても事故か何かの後遺症などで身体に障害をもったひとが訓練を受ける施設が書かれていることがわかる。
 まず、それぞれの施設の「名称」が書かれる。次に住所(所在地)、さらに電話番号、そこで受けられる職業訓練の内容が書かれている。そう「わかる」のは、その書き方が、いわば「定型」だからである。いつか、どこかで似たものを見た(読んだ)記憶があり、それを思い出すから説明がなくても何が書いてあるかわかる。「定型」は記憶を誘い出す装置、記憶をよみがえらせいまを整理する装置である。
 施設名、住所、電話番号、訓練内容という順番に並んだ「定型」が、そこではこれこれの訓練ができ、それをマスターすれば自立できるという「定型の意味」を強固にする。
 「定型」が「意味」をつくり、そこから「リズム」が生まれるので、私たちは「リズムに乗って」、つまり「軽々」とした感じで、そこに書いてあることを把握することができる。楽々と「わかる」。「定型」は「わかる」を助けてくれる。
 「定型」は項目の羅列の順序だけではない。施設の名前にも「定型」がある。「地名」があって、そのあと「身体障害者」「更生(厚生)」「指導所」とつづいていく。(一部に「身体障害者」ということばがないけれど。)その順序にかわりはない。
 「住所」も同じ。「県」からはじまり、「市」「町」へとつづく。「住所」はそういう表記が「習慣」だからそうなっているのだが、これも「定型」である。ほとんど「定型」とは意識しない「定型」。
 で、「定型」があるために、私たちは、それをさっと読むことができる。省略しながら読むこともできる。実際にその地域に住んでいる人以外は、その地域の項を読みとばす。電話を欠ける必要のない人は電話番号を読みとばす。「定型」は実用にとても便利だ。
 また別のこともおきる。住所にもどって言うと、「県」とか「市」とかを聞き漏らしたり、読みとばしたりしても、それを補って認識してしまう。
 そして、その「補い」は住所の県や市だけではない。
 「訓練」の内容を見ていくと、その「補い」がはっきりする。
 「自動車操作訓練」ということばが何度か出てくるが、そのほかの名詞にも「技術取得訓練」というようなことばを私は無意識に補って読んでしまう。それも瞬時に、ほとんど「無時間」の内に。たとえば、「縫製技術取得訓練」「写植技術取得訓練」という具合。そして、無意識にその「定型」を繰り返すことで、ここに書かれている「指導所」はもっぱら手を使えるひとのための訓練であるということもわかる。手で縫製をする、手で写植作業をする……。
 この「一覧」は、いわば、そういう「補いの定型」を活用してつくられている。ことばには「言わなくてもいいことば」がある。言わなくても、わかることばがある。というより、私がいま書いているように、それをこまごまと書いてしまうと「うるさい」と感じることばがある。
 「定型」は必要とすることばと必要ではないことばを区別するところで成り立っていると言い換えることができる。
 「定型」には「同じ繰り返し」によって生まれるものと、「同じ省略」によって生まれるものがある。「省略」は書かれていないのでわかりにくいが、「定型」なのである。
 谷川の詩を読むと、この「省略の定型」というものが、とても自然につかわれているような気がする。

いもくって ぶ
くりくって ぼ

 この「おならうた」には、「ぶ」「ぼ」の音のあとに、「と、おならが出た」(と、おならが音を立てた)というようなことばが省略されている。省略してあっても、私たちは自然にそれを補って読んでいる。「肉体」がおならが出るときの「音」を覚えているので、いちいちおならが出た、そのときこんな音がしたと書かなくても「ぶ」「ぼ」でわかってしまう。谷川は、そういう「わかっていること」を省略し、「省略の定型」を自然に作り上げる。
 谷川は意識の運動の「定型」を熟知していて、それを利用している。これは谷川の詩を把握するとき、とても大切なことだ。「定型」をどう変更すれば、新しい音楽として美しく響くかを「本能」のように知っている。
 谷川は、この詩で、「定型」の自然な美しさ、うるさくない美しさに共鳴している。「省略の定型」に、無音の「音楽」を感じているようにも思える。「音」だけが「音楽」ではないのだ「省略の定型」を音楽として聞きとる耳、それを再現する声をもっている。

 この「定型」の音楽として、この詩を読むと、また別なことにも気がつく。
 たとえば、多くの住所は県、市、町とつづいていくのだが、長野のリハビリテーションセンターは

長野市大字下駒沢字横町六一八-一

 と「大字」「字」がまぎれこむ。そうか、長野の施設は街の中心地にあるのではなく、郊外の方にあるのだな、と私は想像してしまう。「住所表記の定型」が私のなかにあって、そのためにそう反応してしまう。「定型」を利用すると、「定型」のまわりにある「情報」が自然にことばを整理して、かってに情報を生み出してしまう。
 そのことから、少し目をこらすと……。
 「技術取得訓練」はたいていが似通っているのだけれど、福井と長野にはほかにはないことばがある。

メガネ枠(福井)、時計、精密機械(長野)

 それが、くっきりと目に飛び込んでくる。ことばがきらめいて見える。そして、意識を叩く。そういえば、福井はメガネ枠の生産量が全国一だったな、長野は空気が澄んでるので時計や精密機械の製造には最適の土地だったな、--と社会の授業で習ったなあというようなことが思い出される。
 「メガネ枠」や「時計(精密機械)」は、それまでの「技術」の「名詞」の「定型」を破っている。「定型」は「定型」をはみ出して行くものをくっきりと印象づける。この「定型の破壊」が、私には「音楽」のきらめきのように感じられる。
 「音楽」と思わず書いてしまうのは、それが「意味」を離脱しているからである。それ以外の「縫製」だの「洋裁」「写植」という、どこにでもある「職業」という「意味」を離れているからである。音楽とは「意味」を超えた音である。
 谷川は「省略の定型」(沈黙の音楽)を聞きとると同時に、小さな変化を最大限に響かせる声を知っている。「意味」ではなく、音楽として響かせる方法を知っている。大声を張り上げるのではなく、聞こえるでしょ?という具合に、読者の耳を澄まさせる方法を知っている。これは私(谷川)の声ではありません、あなたが聞きとった声ですと読者に呼び掛けるようにしてささやく声の出し方を知っている。

 この詩以外でも、谷川は『日本語のカタログ』で日本語の「定型」を収集している。たとえば「135」はシャワー付のガス風呂の「取扱説明書」だが、そこには「取扱説明書」の「定型」がある。「661」は「道のきき方」(道の教え方?)の「定型」がある。「定型」があると、その奥に「生活」のようなものが見えてくる。「肉体」が見えてくる。谷川は、こういう「生活の定型」というものを信じてことばを動かしている。
 「定型」を利用して、言わなくていいことを言わない。「意味」を少しだけずらして新しいことを言う。特別なことを言う。ただし、それは完全な無意味ではなく、福井のメガネ枠や長野の時計(精密機械)のように、どこかで生活としっかり結びついている。ことばの背景に暮らし、生活の場、働き生きている人々をつかみとっている。ことばを人(他人/いのち)と結びつけてみせる。そういえば、そうだったなあ、というものを引き出してくる。

 『日本語のカタログ』に集められた複数の「定型」を、複数の「音楽」と呼ぶこともできる。音によってつくりだされた「音楽(たとえばメロディー、和音)」ではなく、「音を動かす運動形式」、運動としての「音楽」と呼ぶことができるかもしれない。
 運動としての音楽、運動形式としての音楽--というのは奇妙な言い方だが、「リハビリ施設一覧」ののようなことばの羅列のなかにも、その羅列を一定方向に整えながら動かす力がある。それを私は「音楽」と呼びたい。動かし方は「意味」ではない何かである。動かすことよって「意味」が生まれるのだから、この動かし方は「意味」よりももっと根源的な、説明のしにくい何かである。(だから私の説明はわかりにくくならざるを得ない--というのは、自己弁護。)
 この複数の「定型」、複数の「音楽(文を成立させる運動形式=文体)」は、また、複数の「他人」と呼ぶこともできる。「文体(としての音楽)」には、それぞれそれをつかう人(好む人)の変更不可能な何かが関係している。
 極端な例をひとつ。
 日本の住所の表記は、県-市-町と広い所から狭いところへと縮小するように動くが、欧米では町-市-県と動く。これは、ものの「見方」の差がそのまま定着したものだ。個性が文体になったものである。私(日本人)と欧米人は、最初から「他人(違った人間)」であるとわかっているので、住所の表記の「定型」が違っていても、気にならない。違っていて当然だと受け止めてしまう。「定型」は「他人(他者)」を識別するのに役立つし、「他人」を受け入れるのにも役立つ。

 谷川の詩には、たいてい「意味」があり、その「意味」はわかりやすい。「意味」が「定型」だからである。「認識の定型(共有された認識)」が「意味」だからである。谷川は、その世間に流通している「意味(流通意味)」をどんどん取り入れてことばを動かす。ただし、そこに、たとえば「メガネ枠」「時計」「精密機械」というような、少しだけ違ったもの(固有の何か)を突き合わせ、「定型」を破ってみせる。完全に破壊するのではなく、その破れ目から人の暮らし、生きている人間がくっきりと見えるようにする。そうすると、その「メガネ枠」「時計」「精密機械」もそれなりに「定型」であるはずなのに、何か不思議な光に見えてくる。新しい音の響きが聞こえてくる。思わず、そこに引き寄せられてしまう。そこに、新しい意味--といっても、すでに存在しているのに気がつかなかった意味、見落としていた意味を見つけ、はっとする。見落としていた思想に頭を殴られた感じだ。
 「定型」が破られ、「定型」が完成するといった感じ、思想が根底からつくりなおされるといった感じの、瞬間的な驚き。

 谷川の詩には、感性の、いのちの「定型」がある。--唐突すぎる「結論」だが、そうメモしておこう。

日本語のカタログ
谷川 俊太郎
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(85)

2014-06-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(85)          

 「午後の日射し」は女性が主人公。カヴァフィスには珍しい作品だ。そのなかに、おもしろい行がある。

戸口の傍に寝椅子ね。
その前にトルコ絨毯。
傍らに棚。そこに黄色の花瓶二つ。
右手に、いや逆ね、鏡付の衣裳だんす。

 「あの家の横を」という作品にもものの羅列が出てきたが、それは「店、横丁、石、/壁、バルコン、窓。」と名詞だけで形容詞を持たなかった。この余分なもの(形容詞)を排除し、本質だけを描出するするというのがカヴァフィスの視力なのだが、「午後の日射し」に登場する女は逆。「トルコ」の絨毯、「黄色」の花瓶、「鏡付」の「衣裳」だんす。女は、ものに附属するものを見ている。「寝椅子」の「寝」さえも修飾語に見える。
 こんなにもののとらえ方が違っては、カヴァフィスと女は相いれないだろう。一緒にいても互いが理解できないだろう。
 とはいうものの、カヴァフィスには、その「声」が聞こえた。こんなふうにものの表面を見て、ものの表面に「意味」を見出す人間がいるということを知った。この詩ではたまたまそれが「女」として登場するが、カヴァフィスの出会った男のなかにも、表面にこだわり、それをいとおしむ人間がいただろう。

ああいう古いものって、まだどこかをさまよっているでしょうね、きっと。

窓の傍らの寝台。
午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね。

 表面の変化。ものの表面を動いていく変化。それが動いていくものだからこそ、「どこかをさまよっている」と想像することができる。「古いもの」とは「もの」自体ではなく、それを修飾する性質である。女にとって本質とは変化しないものではなく、移ろうものなのだ。
 だから、別れるしかない。

……あの日の午後四時に別れたわ、
「一週間」って--それから……
その週が永遠になったのだわ。

 しかし、この三行は、女のことばではないかもしれない。あの日の「変化」は「変化」で終わってしまった。普遍になってしまった。終わってしまうと、その瞬間は「もの」そのものの本質のように「永遠」になる。この三行はカヴァフィスの告白だろう。
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