詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

夏目美知子「二月の静物」

2014-06-06 09:33:14 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「二月の静物」(「乾河」70、2014年06月01日発行)

 夏目美知子「二月の静物」は、なんとなく、もたもた(?)した感じで詩がはじまる。詩を読んでいる感じがしない。

銀杏通りの銀杏が
枝をすっかり伐られてしまった
てっぺんも真横に切ってある
太い幹しか残っていない
薄日を浴び
道沿いに並んで立っている

 ていねいに書かれているのだが、どうもすっきりしない。ことばが多いのかもしれない。「てっぺんも真横に切ってある」のあと「太い幹しか残っていない」とつづくと、せっかく見えた「真横」が見えなくなってしまう。そのために、もたもたという感じがするのかなあ。「道沿いに並んで立っている」の「並んで」と「立っている」も重複のように感じられる。
 でも、これが突然、

カチリというのは私の胸の音
銀杏はそのまま
静かに前を見ている

 うーん。
 「カチリというのは私の胸の音」の「カチリ」がふいに聞こえた。枝を伐られた銀杏を見て、何かを感じる。違和感に襲われる。それが「カチリ」という音を立てる。この突然の音に、はっとする。
 ここから、詩は、飛躍する。
 1行の空白のあと、2連目へと進む。

夜の食事の支度に
ズッキーニを切る
人参も切る
まな板の上に
輪切りのズッキーニと人参が
倒れたドミノのように重なりながら
じっとしている
ものにも
眼差しはある

現状を黙って受け入れるもののことを
静物というのだ

 ほう、おもしろいなあ、と思う。
 急にことばにスピードが出てきた。1連目の終わりの方の3行「カチリ……」から、ことばが加速している。ズッキーニ、人参ということばが繰り返されているけれど、切られる前と切られたあとの区別がくっきり見える。1連目の銀杏の、伐られながらも伐られていないような感じとはまったく違う。1連目の銀杏は伐られてしまっていて、その姿を見ながら夏目は伐られていない銀杏を思い浮かべているからかもしれない。記憶の銀杏といまある銀杏を比較しているので、ことばがもたもたするのかなあ。それに対して、ズッキーニ、人参は切られる前、あとを比較していない。切られる前(まるごと)を捨てて、切られたものにぱっと転換しているからかなあ。
 で、その「切られたもの」のなかに「眼差し」を見た瞬間……。
 1連目の最後の行の「静かに前を見ている」が、ぱっと、つながる。瞬間的に、つながってしまう。
 そうか、伐られた銀杏は、前を見ていたのか。
 でも、前って、どこ?
 一点透視の遠近法の焦点、道が小さくなっていく方向? それとも、時間?
 こんなことは、「答え」をだしてもしようがない。わからないまま、そうか「前」を見ているのかと思うしかない。
 そして、「前を見ている」その視線を感じた瞬間、また飛躍して3連目。

現状を黙って受け入れるもののことを
静物というのだ

 これは、ふいにやってきた「哲学」(思想)なのだが、この突然がいいなあ。
 「意味」を考える時間的な余裕がない。
 2連目のことばのスピードが、そのままひきよせた「錯乱」である。
 「錯乱」と言ってしまうと、何だか夏目の努力(?)を否定してしまうようでもうしわけないが、この2行は「描写」じゃないからね。「描写」を突き破っているからね。文体が突然変わってしまっているから、「錯乱」と呼ぶしかない。
 で、「錯乱」なので、「意味」はわからない。「意味」はぶっ飛んでいる。
 それなのに、「あ、そうだったのか」と「わかる」。納得する。
 この「わかる」は、1連目の「カチリというのは私の胸の音」の「カチリ」に似ていて、説明のしようがない。
 こういうことばは、ただそのままの形で覚えておいて、ある瞬間、「あ、これだった」と思い出すものなのだ。そういう「不運/好運」を黙って受け入れていることばである。それを、私は「静物」ではなく、「詩」と呼びたいなあ。

 ことばというのは、書いている途中で突然変異をする。だから、最初がしっくりこなくても、変化が起きるまで追ってみないといけない。--というのは、私の自省。
 読み落としている詩がたくさんあるね、きっと。



私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(76)

2014-06-06 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(76)          

 「認識」は一筋縄ではつかみきれない。

私の若かった日々。官能の生活。
今 その意味がわかる。明確に。

はかない後悔は無用であった。

もっとも、当時は意味が見えなかった。

 官能におぼれた若い日々。後悔などしなかった。その意味が、いまはわかる。そのときはわからなかった(見えなかった)意味が。--でも、その「意味」とは? これだけでは、わからない。若かったときに、詩人が官能におぼれたということしかわからない。

わが若い日の放埒な生活だった、
詩作の衝動が生じたのも、
わが芸術の輪郭が描かれたのも、
後悔がその場限りだったのも、
「止めよう、生き方を変えよう」という決意が
せいぜい二週間のいのちだったのも、
そのためだった--。

 詩作(芸術)を生み出すために、カヴァフィスの「官能の日々(放埒な日々)」があった、詩人は開き直っているのか。そうかもしれないが、その開き直りのなかに、

「止めよう、生き方を変えよう」という決意が
せいぜい二週間のいのちだったのも、

 という「後悔」が書き込まれているところがおもしろい。「後悔」さえも、いや「後悔」があるからこそ、官能が複雑に揺れ動く。「後悔」がなく、官能におぼれているだけなら、その官能は人を引きつけないかもしれない。芸術にならないかもしれない。
 官能の絶対的な消尽は、人を拒絶する。官能はあくまでも個人的なものであり、他人には共有されない。肉体的でありすぎる。
 けれど「後悔」は肉体を離れた「意味」であり、他人によって共有される。
 それにしても、その「後悔」を「せいぜい二週間のいのち」と「肉体」につながる「いのち」ということばで動かしてみせる強さはどうだろう。「二週間とつづかなかった」では「意味」に終わってしまう。「いのち」ということばが、「後悔」を「意味(精神)」であると同時に「肉体」に変え、それが「官能」ということばを輝かせる。
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