詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「驟雨」「麦雨」

2014-06-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「驟雨」「麦雨」(「CROSS ROAD」3、2014年05月31日発行)

 北川朱実「驟雨」「麦雨」せ独立した作品なのだが、つづけて読むとおもしろい。
 「驟雨」には「幼児」が出てくる。

突然降り出した雨に
目を輝かせて飛び出した幼児は

ずぶ濡れたまま
うれしい届け物を受け止めるかのように
両腕を広げて

自転から ゆっくり
とり残されていく

両手で
すくってもすくっても
ひとつの形にならないもの

 3連目の「自転」は地球の自転のことか。地球の動き、この世の動きから離れて、自分の世界に没頭する。何かをすくいとろうとして。何かの形を求めて。
 でも、すくいとれないね。

私は知っている
天からこぼれるものは
ふいに大事なことを思い出して
中空で立ち止まることを

 うーん、大事なものか……。そうなんだろうけれど、そしてここに詩のポイントがあるんだろうけれど、こういう「思わせぶり」な書き方は、私は、身構えてしまうなあ。
 ということは、おいておいて。
 この「自転」から取り残された幼児を読んだあとで、「驟雨」の「父」を読むと……。

五月雨
半夏雨
麦雨

父は
口の中を雨でいっぱいにして
機嫌よく笑い

そのたびに
私たちは
一日の端でクイになった

父が行方をくらます前は
きまって雨になった

 雨が降ると父はどこかへ出かけてしまうらしい。(それで、緊張して「私たち=母と北川か」は「クイ」のように動けなくなる。雨に夢中になって、それを両手で受け止めようとしている「幼児」が、ふいに思い出される。それを見ている北川も思い出される。
 「驟雨」では「私は知っている」と書かれていたが、「麦雨」では「私は知っている」は書かれていないが、「知りすぎている(わかりすぎている)」ために、「知っている」とは書けないのだ。

幕が上がる前のブザーみたい
大声で語る夢は

激しく降ったかと思うと止み
止んだかと思うと降り出す雨に似て

 「雨に似て」どうしたんだろう。「述語」がない。「述語」は北川の「肉体」のなかでのみ動いている。あまりにリアルに動くので、それを書きあらわすことばがない。動いていることが読者にわかればいい--という判断である。
 この「述語」の省略に、北川の詩がある。
 この中断は、

ふいに大事なことを思い出して
中空で立ち止まることを

 と「驟雨」で書かれていた「中空で立ち止まる」に似ている。
 で、「立ち止まる」ことで、その一瞬、北川は「父」になる。「父」と一体になる。「父」がわかる。
 そこに、「自転から ゆっくりと/とり残されていく」という感覚も重なる。
 世界の動きから離脱して、「いま/ここ」ではないものに、だれもが触れる瞬間がある。
 そういう「父」を思い出すと、それは「驟雨」の「幼児」に似ている。
 そして、そういうことを「発見」し、ことばにすることで、北川は「幼児」と「父」を自分に引き寄せる。

 散文家の北川は対象にぐいぐいと迫っていくが、詩を書くときは対象の脇に立って、「知っている」(わかっている)と相手を受け止める--そんな感じがする。


ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
北川 朱実
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(9)

2014-06-30 09:39:52 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(9)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「この道は」は短い詩なので全行引用する。

あめのこと
あめこんこんとよんでいた
とおいむかしのにおいがする
みちばたにくさばなゆれて
あめこんこんかすかにゆれて
わたしはわたしのなくなるような
わたしがわたしでなくなるような
かすかなかすかなおもいのなかを
あめこんこん
あめこんこん
いつかだれかのあるいたみちを

 同じことばが繰り返されている。ただし、逆に最後の行は「いつかだれかのあるいたみちを」はことばが足りない。「歩いている」が省略されているのだろうか。たぶん、そうだろう。(二行目が「よんでいた」だから、最終行も「歩いていた」と過去形かもしれないが。)
 そして、この同じことば、同じようなことばの繰り返しのなかに、微妙な違いもある。

わたしはわたしのなくなるような
わたしがわたしでなくなるような

 似ているが、とても違う。「わたしのなくなるような」では「わたし」が消えてしまう。「わたし」が存在しなくなる。「わたしでなくなるような」は「わたし」が「わたしでなくな」り、わたしではない「だれか」になる、ということかもしれない。「わたし」は「だれか」になって存在している。
 そして、この「わたしではないだれか」という人間が、最終行の「だれか」ということになる。「わたし」は「だれか」になって、「だれか」の歩いた道を、歩いている。そのとき「わたし」は、その世界からはじき出されて「だれか」が「ひとり」になっているのか。「わたし」は「だれか」に統合されて「ひとり」になっているのか。厳密に考えずに「ひとり」になっている、とだけ感じればいいのかもしれない。

わたしはわたしのなくなるような
わたしがわたしでなくなるような

 では、「わたし」は「無(0人)」になるか、「ふたり」になってしまうが、最終行では「ひとり」になっている。「だれか」と「一緒」なのだけれど、「一緒」であることによって「ひとり」になっている。
 で、その「ひとり」が「歩いている(歩いていた)」。
 これでいいのかな?
 いいのかもしれない。
 けれど、何かがひっかかる。

 「歩いている」は省略されている。ここにひっかかる。ほんとうに「歩いている」が省略されているのか。もしかしたら違うのではないだろうか。歩いていないのではないだろうか。
 じゃあ、どうしている?
 私は、「みち」になっている、と感じた。瞬間的に思った。
 「わたしのなくなる」(わたしはなくなる)、「わたしでなくなる」はほかの「だれか」になるということではないのかもしれない。「だれか」を通り越して、その「場」になる。その「場」には「みち」がある。そして、雨が降っている。「あめこんこん」と声がする。そこには草花が揺れている。

 いつかだれかのあるいた「みち」になるような、その道になって、「あめこんこん」という声を出しているひとを歩かせている。
 池井は「みち」と一体になっている。そこには「あめこんこん」というひとがいて、「わたし」はいない。「あめこんこん」という「声」そのものが「わたし」であって、人間の形を超えて、「そこ」という「場」と「時」の全体をつくっている。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(100)

2014-06-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(100)        

 「デマラトス」は複雑な詩である。デマラトスはギリシャ人だが、ペルシャ人に助言し、ギリシャ遠征に来ている。祖国征服の方策を練っている。祖国と戦っている。

日々デマラトスの胸騒ぎは止まぬ。
悩み果てなく、思いは尽きず、
ひと日ひと日が大石の重さ。
悩み果てなく、思いは尽きず、
かた時たりとも喜びのひまはない。
この感じを喜びとはとても言えまい。
(いや喜びではない。喜びと認められるか。
どうして喜びといえる? 最悪の苦悶なのに)
デマラトスはみきわめた。万に一つの間違いもなく
いまから始まる戦闘の勝利者はギリシャだ」

 祖国が勝つ--自分は負けるが、祖国は勝つ。その矛盾のなかで、デマラトスは「よろこび」を感じてしまう。祖国の方に、こころが動いてしまう。動きながら、それでいいのか、と苦悩する。ギリシャは自分を追放した、それなのにギリシャが勝つと思うと喜びがあふれてしまう。
 この心情をカヴァフィスは印象的に描いている。
 「悩み果てなく、思いは尽きず、」という行が繰り返される。ことばは「散文」(ギリシャ征服の方策を考えることば)にはならず、「歌」になってしまっている。「苦悩」も「歌」になっている。どんなことばも繰り返すと、そこにリズムが生まれ、そのリズムに乗ってことばが歌になる。歌がさらに感情を煽り、感情を酔わせ、理性を遠ざける。

(いや喜びではない。喜びと認められるか。
どうして喜びといえる?

 この「こころの声」の「喜び」ということばの繰り返し。喜びでは「ない」「認められるか(認められない)」「言えるか(言えない)」という「意味」の繰り返し。「意味」さえも繰り返され、歌(音楽)にしてしまう、こころの躍動。ここには理性が否定されるときの快感があるとさえ言える。
 この矛盾が、「最悪の苦悶なのに」ということばを「最上の喜びなのに」という「本音」をこころの奥底に弾けさせる。
 そういう「反語」をとおって、「万に一つの間違いもなく」という確信が生まれる。もう、「喜び」は抑えられない。
 この詩の感想の初めに、私はこの詩は「複雑」と書いたが、「複雑」に見えるものこそ単純かもしれない。純粋な輝きに満ちているかもしれない。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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