北川朱実「驟雨」「麦雨」(「CROSS ROAD」3、2014年05月31日発行)
北川朱実「驟雨」「麦雨」せ独立した作品なのだが、つづけて読むとおもしろい。
「驟雨」には「幼児」が出てくる。
3連目の「自転」は地球の自転のことか。地球の動き、この世の動きから離れて、自分の世界に没頭する。何かをすくいとろうとして。何かの形を求めて。
でも、すくいとれないね。
うーん、大事なものか……。そうなんだろうけれど、そしてここに詩のポイントがあるんだろうけれど、こういう「思わせぶり」な書き方は、私は、身構えてしまうなあ。
ということは、おいておいて。
この「自転」から取り残された幼児を読んだあとで、「驟雨」の「父」を読むと……。
雨が降ると父はどこかへ出かけてしまうらしい。(それで、緊張して「私たち=母と北川か」は「クイ」のように動けなくなる。雨に夢中になって、それを両手で受け止めようとしている「幼児」が、ふいに思い出される。それを見ている北川も思い出される。
「驟雨」では「私は知っている」と書かれていたが、「麦雨」では「私は知っている」は書かれていないが、「知りすぎている(わかりすぎている)」ために、「知っている」とは書けないのだ。
「雨に似て」どうしたんだろう。「述語」がない。「述語」は北川の「肉体」のなかでのみ動いている。あまりにリアルに動くので、それを書きあらわすことばがない。動いていることが読者にわかればいい--という判断である。
この「述語」の省略に、北川の詩がある。
この中断は、
と「驟雨」で書かれていた「中空で立ち止まる」に似ている。
で、「立ち止まる」ことで、その一瞬、北川は「父」になる。「父」と一体になる。「父」がわかる。
そこに、「自転から ゆっくりと/とり残されていく」という感覚も重なる。
世界の動きから離脱して、「いま/ここ」ではないものに、だれもが触れる瞬間がある。
そういう「父」を思い出すと、それは「驟雨」の「幼児」に似ている。
そして、そういうことを「発見」し、ことばにすることで、北川は「幼児」と「父」を自分に引き寄せる。
散文家の北川は対象にぐいぐいと迫っていくが、詩を書くときは対象の脇に立って、「知っている」(わかっている)と相手を受け止める--そんな感じがする。
北川朱実「驟雨」「麦雨」せ独立した作品なのだが、つづけて読むとおもしろい。
「驟雨」には「幼児」が出てくる。
突然降り出した雨に
目を輝かせて飛び出した幼児は
ずぶ濡れたまま
うれしい届け物を受け止めるかのように
両腕を広げて
自転から ゆっくり
とり残されていく
両手で
すくってもすくっても
ひとつの形にならないもの
3連目の「自転」は地球の自転のことか。地球の動き、この世の動きから離れて、自分の世界に没頭する。何かをすくいとろうとして。何かの形を求めて。
でも、すくいとれないね。
私は知っている
天からこぼれるものは
ふいに大事なことを思い出して
中空で立ち止まることを
うーん、大事なものか……。そうなんだろうけれど、そしてここに詩のポイントがあるんだろうけれど、こういう「思わせぶり」な書き方は、私は、身構えてしまうなあ。
ということは、おいておいて。
この「自転」から取り残された幼児を読んだあとで、「驟雨」の「父」を読むと……。
五月雨
半夏雨
麦雨
父は
口の中を雨でいっぱいにして
機嫌よく笑い
そのたびに
私たちは
一日の端でクイになった
父が行方をくらます前は
きまって雨になった
雨が降ると父はどこかへ出かけてしまうらしい。(それで、緊張して「私たち=母と北川か」は「クイ」のように動けなくなる。雨に夢中になって、それを両手で受け止めようとしている「幼児」が、ふいに思い出される。それを見ている北川も思い出される。
「驟雨」では「私は知っている」と書かれていたが、「麦雨」では「私は知っている」は書かれていないが、「知りすぎている(わかりすぎている)」ために、「知っている」とは書けないのだ。
幕が上がる前のブザーみたい
大声で語る夢は
激しく降ったかと思うと止み
止んだかと思うと降り出す雨に似て
「雨に似て」どうしたんだろう。「述語」がない。「述語」は北川の「肉体」のなかでのみ動いている。あまりにリアルに動くので、それを書きあらわすことばがない。動いていることが読者にわかればいい--という判断である。
この「述語」の省略に、北川の詩がある。
この中断は、
ふいに大事なことを思い出して
中空で立ち止まることを
と「驟雨」で書かれていた「中空で立ち止まる」に似ている。
で、「立ち止まる」ことで、その一瞬、北川は「父」になる。「父」と一体になる。「父」がわかる。
そこに、「自転から ゆっくりと/とり残されていく」という感覚も重なる。
世界の動きから離脱して、「いま/ここ」ではないものに、だれもが触れる瞬間がある。
そういう「父」を思い出すと、それは「驟雨」の「幼児」に似ている。
そして、そういうことを「発見」し、ことばにすることで、北川は「幼児」と「父」を自分に引き寄せる。
散文家の北川は対象にぐいぐいと迫っていくが、詩を書くときは対象の脇に立って、「知っている」(わかっている)と相手を受け止める--そんな感じがする。
ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ | |
北川 朱実 | |
思潮社 |