河邉由紀恵「くらげ」、秋山基夫「山頭火の闇に倣って」(「どぅるかまら」16、2014年06月10日発行)
河邉由紀恵「くらげ」はの納屋でまどろんでいる女を描いている。「はあはあ」という声が書かれているのでセックスしているのかもしれない。セックスのあとかもしれない。その納屋のくらい闇の遠くにゆれる海が広がっている、と詩には書いてあるが、それはほんとうの海なのか、まぼろしなのか、よくわからないが……。
漢字がどんどん減ってゆき、かわりに「ぬうるいなるい」というねっとりと引き延ばされた音のなかを動くひらがなが揺れる。イメージになるというよりも、「音」そのものになっていく。「うでやはらやあしやおんなのうちまたのおくの」というのは漢字まじりで書けば妙に味気ないかもしれない。「流通言語」のセックスの世界になってしまうかもしれない。けれど、ひらがなで音がなだれていくと、そこに「やはら(やわら)かい」なにかがまじり、触覚の世界になって「ぬうるいなるい」に溶け込んで行く。
「おんなはもうわたしからはなれている」というのは、セックスの快感(余韻)のなかで、「おんな」は「わたし」とは別なものになって、別なものになりながら、それでも「触覚」(皮膚感覚/触れあう感覚)で接続しているのか。体温のように、息のように、からみついているのか。揺れているのか。
「くらげ」というのは「ふわふわ」な感じと同時に、透明/半透明な印象もあるが、そのつかみどころのない感じが、「ぬうるいなるい」と通じる。私は「くらげ」にさわったことはないが、「るうるいなるい」感触だろうなあ、と思ってしまう。
*
秋山基夫「山頭火の闇に倣って」はいくつかのパーツから成り立っているが、「念彼観音力」という作品が、私にはおもしろかった。
三沢浩二の詩というのは、三沢浩二が釣りをしているところを描いた「自画像」のようなものだろうか。三沢が釣りをしているのだが、その姿が秋山には観音に見えるということか。麦わら帽子の金色の光は御光というところ。その三沢に向かって秋山は「おーい」と呼ぶが、詩のなかなので、知らん顔。
いいなあ。これは。
詩と現実が、秋山のことばのなかで交錯し、ひとつになる。
ことばを読むというのは、こういう「誤読」の瞬間がいちばん幸福だ。それこそ観音を見た気分だなあ。
「海老も……」の行は、よくわからないが(わからなくても私は気にしない)、三沢というのは、釣りをすることが好きなのであって、釣果のことは気にしないのだろう。三沢の投げた餌を「海老も鯛も」食べるだけではなく、ワカメも針にくらいついてくる。それはそれでいいのだと、釣りを超越しているのだろう。それが観音にも通じるのだろう。
「この世」は「因果」でできているかもしれないけれど、因果というものは「意味」と同じで、それをみつけだすから「因果」になるだけ。
三沢という人間を私は知らないけれど、この詩を読んでいると、秋山を通り越して、知らないはずの三沢が見えてくる。それが、とてもおもしろい。
河邉由紀恵「くらげ」はの納屋でまどろんでいる女を描いている。「はあはあ」という声が書かれているのでセックスしているのかもしれない。セックスのあとかもしれない。その納屋のくらい闇の遠くにゆれる海が広がっている、と詩には書いてあるが、それはほんとうの海なのか、まぼろしなのか、よくわからないが……。
おんなのほそいながい
髪とかみのあいだを
とよとよとよと
海のみずがぬけてゆく
るうるいなるい
海のみずにゆれるおんなの髪は
たっぷりみずをふくんで
うみの藻のようにゆれてながれる
おんなのかたやうじなやちぶさ
うでやはらやあしやおんなのうちまたのおくの
しづもりのあいだをぬうるいなるい
海のみずがひかしてゆき
おんなはもうわたしからはなれている
ぬうるいなるいみずのなかで
どうしようもなくとおく
しずかにゆれるくらげのように
漢字がどんどん減ってゆき、かわりに「ぬうるいなるい」というねっとりと引き延ばされた音のなかを動くひらがなが揺れる。イメージになるというよりも、「音」そのものになっていく。「うでやはらやあしやおんなのうちまたのおくの」というのは漢字まじりで書けば妙に味気ないかもしれない。「流通言語」のセックスの世界になってしまうかもしれない。けれど、ひらがなで音がなだれていくと、そこに「やはら(やわら)かい」なにかがまじり、触覚の世界になって「ぬうるいなるい」に溶け込んで行く。
「おんなはもうわたしからはなれている」というのは、セックスの快感(余韻)のなかで、「おんな」は「わたし」とは別なものになって、別なものになりながら、それでも「触覚」(皮膚感覚/触れあう感覚)で接続しているのか。体温のように、息のように、からみついているのか。揺れているのか。
「くらげ」というのは「ふわふわ」な感じと同時に、透明/半透明な印象もあるが、そのつかみどころのない感じが、「ぬうるいなるい」と通じる。私は「くらげ」にさわったことはないが、「るうるいなるい」感触だろうなあ、と思ってしまう。
*
秋山基夫「山頭火の闇に倣って」はいくつかのパーツから成り立っているが、「念彼観音力」という作品が、私にはおもしろかった。
三沢浩二の詩に呼びかけると窓の向うに詩の情景が現れる
突堤の尖端で三沢が釣り竿を大きく振って針を投げている
夏の太陽がふりそそぎかれの麦藁帽子が金色に光っている
ふんわりと観音がお姿を見せ波の上に立って瞑想している
おーいと呼ぶと観音は邪魔な声など聞こえないふりをする
海老も鯛も平目もワカメも亀も順に食べていく因果なのだ
三沢浩二の詩というのは、三沢浩二が釣りをしているところを描いた「自画像」のようなものだろうか。三沢が釣りをしているのだが、その姿が秋山には観音に見えるということか。麦わら帽子の金色の光は御光というところ。その三沢に向かって秋山は「おーい」と呼ぶが、詩のなかなので、知らん顔。
いいなあ。これは。
詩と現実が、秋山のことばのなかで交錯し、ひとつになる。
ことばを読むというのは、こういう「誤読」の瞬間がいちばん幸福だ。それこそ観音を見た気分だなあ。
「海老も……」の行は、よくわからないが(わからなくても私は気にしない)、三沢というのは、釣りをすることが好きなのであって、釣果のことは気にしないのだろう。三沢の投げた餌を「海老も鯛も」食べるだけではなく、ワカメも針にくらいついてくる。それはそれでいいのだと、釣りを超越しているのだろう。それが観音にも通じるのだろう。
「この世」は「因果」でできているかもしれないけれど、因果というものは「意味」と同じで、それをみつけだすから「因果」になるだけ。
三沢という人間を私は知らないけれど、この詩を読んでいると、秋山を通り越して、知らないはずの三沢が見えてくる。それが、とてもおもしろい。
秋山基夫詩集 (現代詩文庫) | |
秋山 基夫 | |
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