詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(9 生まれたよ ぼく)

2014-06-18 11:14:26 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(9 生まれたよ ぼく)
                           
生まれたよ ぼく

生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえてないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか

だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが幸せになるのを

いつかぼくが
ここから出て行くときのために
いまからぼくは遺言する
山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい

そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい



 この詩は「生まれたよ ぼく」とはじまる。新生児は泣くことはできても、ことばはまだ話せないから、これはとても非現実的な、奇妙な詩である。
 そうかな?
 読んだ瞬間、変と感じた?
 感じない。そのまま赤ちゃんがしゃべっていると感じてしまった。そして、そこに書かれていることも、うんうん、と説得されてしまった。
 どうして?

 私は、ここに書かれている「ぼく」が谷川であると思わなかった。谷川が、谷川の考えを「ぼく」に代弁させている、つまりそこに谷川の「思想」が語られているという具合には感じなかった。いや、そこに語られている「思い」は谷川のものでもあるんだろうけれど、ちょっと違うことを考えた。
 別ないい方をすると、「説教」を聞いているという感じじゃない。

 「ぼく」は生まれた。
 では、産んだのは?
 そう考えるといいのかもしれない。
 それは、だれの子ども?
 そう考えるといいのかもしれない。

 私は、谷川が「ぼく」を産んだのだと思った。谷川は『女に』以降、女に生まれ変わっているから、こどもを産むことができるのだ。この「ぼく」は谷川の「肉体」から出てきた赤ん坊である。谷川であると同時に谷川ではない。谷川とは別個の「個性」をもった、完全に独立した「肉体」だ。
 新しい「肉体」の誕生には、卵子と精子が必要だ。
 谷川の「卵子(ことば)」は「だれか」の精子(精神の子種)を授精した。「ことば」は「子ども(ぼく)」になって生まれてきた。産んだのは谷川。その子ども(ぼく)のなかには、谷川の「精子」ではないものが結晶し、分裂し、育っている。しかもその精子は「ひとり」の精子ではなく。複数の精子だ。谷川は複数の「精子」を受け入れて、授精し、「子ども」を産むのである。
 一卵性双生児と二卵性双生児の違いは、一個の受精卵がわかれてふたつになったか、もともとふたつの卵子があってそのふたつが授精したかの違いだが、谷川の「卵子(ことば)」と「こども」の関係は、「一個の卵子」に「無数の精子」が授精した感じ。
 だから、その「ぼく」は何でも知っている。ひとりの人間がもっている「精神の情報」は限りがあるが、複数の人間のもっている情報には限りがない。「ぼく」が何でも知っているのは、複数の、無数の精神を授精して誕生しているからだ。
 授精して細胞が分裂して、九か月かかって育って、やっと「肉体」のなかから出てきた。「ぼく」はそういう生命の秘密を「ひとり」から聞いて知っている。目が開いていない、耳が聞こえていないということも、別の「ひとり」から聞いて知っている。「ここがすばらしい」ことも知っているのも、そう感じている「ひとり」が「ぼく」を授精させたからだ。「ひとり」「ひとり」の複数の情報(精神/精子)が、いちばん美しい形で「卵子(ことば)」と結びついて、「ぼく」になっている。
 「ぼく」は、そういうことを「前世」で知っているのじゃない。いまいっしょに、この世に生きている「ひとり」「ひとり」の声から知っている。この世の「声」が「ぼく」なんだよ。
 谷川は、この世で語られる「他人」のすべての「声」を受け入れて、「ぼく」を産んだ。
 「ぼく」のことばは谷川が語っているのではない。谷川が「ぼく」の代弁をしているのでもない。無数の「他人(ひとり/ひとり)」が谷川の「肉体」をかりて「ぼく」になり、自己主張しているのだ。
 
だから邪魔しないでください

 これは「ひとり」の「声」ではない。「ぼく」だけの「声」ではない。いま生きているみんなの「声」だ。みんなが「笑い、泣き、幸せになる」のを邪魔しないでくださいところのなかで言っている。なかなか声に出しては言えないけれど、みんな、そう叫んでいる。
 さらに、「ほく」は生まれたばかりだけれど、「他人(大人)」は人間が死んでいくことを知っている。だから「遺言」さえする。「遺言」はしなければならないものなのだ。生きてきて、その生きてきたことをだれかに伝え、引き継いでもらわないと生きたことにならないから。
 人に対してだけではない。人といっしょにいる山や海や空にも遺言せずにはいられない。

山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい

そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい

 これも、「ぼく」が語っているが、「ぼく」からの遺言ではない。「ぼく」のなかの「精子」のすべての、つまり「人々(ひとり/ひとり)」の「祈り」である。
 ある人が「山はいつまでも高くそびえていてほしい」というと、別の人が「海はいつまでも深くたたえていてほしい」といい、さらに別のだれかが「空はいつまでも青く澄んでいてほしい」という。それぞれの「好き」なことをいう。それぞれの「精神(精子)」のなかにあるものをいう。それぞれが互いを尊重し合って(邪魔しないで)、集まり、支えあうとき「世界」が完成する。山、海、空が一体になる。
 「ぼく」という生まれたばかりの子どもの願いを語るふりをして、谷川は、複数の人間の祈りを共存させている。共存によって世界が輝くのを知っているからだ。
 さらに別の人は「ここにやってきた日のことを/忘れずにいてほしい」と念を押す。

 この詩に感動してしまうのは、赤ん坊の「ぼく」が「人間の祈り、願い」を代弁しているからではない。純粋無垢なこどもが、純粋なままに崇高なことを言うからではない。
 その「主張」のなかに、複数の人がいて、その複数のなかの「ひとり」は、実は「私(読者)」だからである。谷川の書いたことばをとおして、「私(読者)」は「ぼく」になる。「ぼく」の語る純真無垢なことばを読むと、「私(読者)」は「ぼく」と同じ純真無垢になる。ことばをとおして「ぼく」に生まれ変わる。だから、そこに書かれていることばを自分の声で読んでみる。肉体にしてみる。読むと、声に出すと、「同じことば」がちゃんと自分の中から出てくる。やっぱり、これは自分の「声」だと、そのとき確信できる。谷川が産んでくれた「ぼく」は「私(読者)」だったのだ、と気づく。「私」のために「ぼく」を産んでくれたのだと思う。
 ここに書かれているのは赤ん坊の「祈り」でもなければ谷川の祈りでもない。「私そのものの」の祈りである。だれもが、「これこそ私の祈りだ」と言える。谷川は、それくらい多くの人の「精神(精子)」を授精している。そして出産したのだ。

 谷川は「他人」を書く。だが、それは谷川にとっては「他人」だが、読者にとっては「他人」ではない。読者から見ると、それは「私」だ。この赤ちゃんは「私」なのだ。
 谷川が書いていることは、「私」のいのりそのものだ。「私」の言いたかったこと、私がいつも思っていたことは、こういうこと。谷川がことばにしてくれたから、はっきりわかっただけで、それは谷川の考えではない。「私」の考えだ。私がことばにしようとしてできなかったこと、「肉体」では覚えているのに、ことばがはっきりしなかったこと--「私の未生のことば」なのだ。わがままな読者である私は谷川の詩を読むと、谷川を脇へのしのけて、そう叫んでしまう。「これこそ私だ」と。

 詩でも小説でもそうだが、感動的なことばというのは、いつでも「私の未生のことば」(私が言いたくて言えなかったことば)である。体験して「わかっている」ことばである。わかっているけれど「言う方法を知らない」ことばである。
 「わかっていることば」「わかることば」だけにしか、人間は反応できない。「ほんとう」の気持ちを見つけ出せない。
 谷川のことばをとおして、私たちはひとりひとり、自分の「ほんとう」を自分のものにする。そのときから、そのことばは「谷川のことば」ではない。「私のことば」。
 だから、私は、私の勝手に読む。勝手に、それ以後を動かしていく。



 私のこの文章は、比喩として精神=精子と結びつけているので、なんだか女性を排除してしまった感じだが、私は女性ではないので、女性の「卵子」をつかった比喩は考えにくかった。むりに考えれば何か言えると思うが、むりに「意味」をつくるとうそっぽくなる。感じたことと違ってくるので、それは書かなかった。
 女性が「生まれたよ ぼく」をどんなふうに自分の「肉体」に引きつけて読むかは、女性にまかせたい。


子どもたちの遺言
谷川 俊太郎,田淵 章三
佼成出版社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(88)

2014-06-18 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(88)          2014年06月18日(水曜日)

 「イメノス」はイメノスの「書簡の抜粋」という形をとっている。「ユダヤの民について(紀元五〇年)」と同じように、他人のことば(声)をそっくり引用している。この引用がほんとうの引用なのか、カヴァフィスの創作なのかはわからないが、引用部分はいつものカヴァフィスとは違う文体である。

「……いやがうえにもいつくしまれるべきは
官能の快楽、それも病的、腐敗的に得られるものです。
これを感じる身体は得難いものです。
この病的、腐敗的な快楽は
健康などのあずかり知らない強烈なエロスです……」

 三、四行目の「これを」「この」という指示詞の使用。前にでてきたことばをしっかりと受け止めながら「論理」をつづけていくというのはカヴァフィスの文体ではない。カヴァフィスは、そういうことはわかりきっているものとして省略する。
 「され」「この」ということばの省略が「こと」を独立させる。一回限りの「こと」として浮かび上がらせる。カヴァフィスは、そうやって感情(意識)にそまらない叙事的に正確をことばに与えるのが特徴だ。「これ」「この」という指示詞の多用は、カヴァフィス自身の声ではないと印象づけるためのものである。
 ここに書かれている官能、エロスの称賛はカヴァフィスと共通するが(共通するから、カヴァフィスは自分の「主観」を補強するために、イメノスのことばを引用したのだろう。同じことを考える人間がいる、といいたいのだろう)、リズムやことばとことばの粘着力が違う。
 イメノスは、「これ」「この」という指示詞で、論理に「粘着力」をもたせる。カヴァフィスは、そういうことをしない。「もの/こと」があれば、それは「ある」ということだけで、完結しているからである。
 
 カヴァフィスがイメネスの文を引用(あるいは創作)したのはなぜだろう。「身体は得難いものです」ということばが気に入ったのだろう。その身体は2連目で「血」ということばで引き継がれる。

ミハイル三世た頽落の世に
崩れぶりでジュラクサイに悪名高き
貴族の血を引く青年イメネスの
書簡の抜粋。

 快楽をえることができるかどうかは身体で決まる。身体は「血」で決まる。だからこそ、どこの国の人間であるかも常に問われる。
 カヴァフィスは、どこまでもギリシャに沈潜していく。
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