谷川俊太郎の十篇(1 鉄腕アトム)
2014年06月10日(火曜日)
鉄腕アトム
空を超えて ラララ 星の彼方
ゆくぞ アトム ジェットの限り
心やさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム 十万馬力だ 鉄腕アトム
耳をすませ ラララ 目をみはれ
そうだ アトム 油断をするな
心正しい ラララ 科学の子
七つの威力さ 鉄腕アトム 七つの威力さ 鉄腕アトム
街角に ラララ 海のそこに
今日も アトム 人間まもって
心はずむ ラララ 科学の子
みんなの友だち 鉄腕アトム みんなの友だち 鉄腕アトム
*
谷川俊太郎の詩に出会ったのは、これが最初だ。と言っても、谷川の詩とは意識していない。谷川がどういう詩人かも知らずに、ただ、そのことばと出会った。
「ラララ」が楽しい。ここがいちばん好き。
なぜ、そこが好きなのか、子どものときのことを思い出せない。で、どうしてもいまの感想をまじえて書くことになるのだが……。
と、「ラララ」を省略しても意味はかわらない。そうなら、「ラララ」はなくてもいいのに、そのなくていいものがなぜ好きなんだろうか。
たぶん。
「意味」ということばを手がかかりに子ども時代をふりかえると、子どものとき「空を超えて」の「意味」はわかっていなかった。「星の彼方」の「意味」もわかっていなかった。ただ何となく、いま自分のいる地球(地上)よりももっと遠く、見えている空よりももっと遠くという感じだけが漠然と「わかった」。
「空を超えて」と「星の彼方」が同じ意味であり、それが「宇宙」をあらわし、またそれが「どこまでも」という「比喩」であると言いなおすことができるようになるのは、ずーっとあとのことだ。
子どものときは、「空を超えて」と歌ったあと、わけもなく「ラララ」と一呼吸置いて「空の彼方」とことばが動いていくときの、その呼吸がうれしかった。
「意味」ではない、ただの音。しかも明るい「ラララ」という音が楽しかった。
「空を超えて」には意味はある。子どものときは明確に意味を考えないけれど、考えなくても意味があることはわかる。けれど「ラララ」には意味がない。ただ声を出すことのよろこびがある。
あ、そうか、私は意味よりも音、声が好きなのか。私は「ことば」が好きなのではなく、声が好きなんだなあ。音が好きなんだなあ。何と読んでいいかわからないむずかしい本が私は苦手だが、あれはむずかしいことば(漢字)のなかから音が聞こえてこないからだ。日本語として聞こえてこないから、なじめないんだ、きっと。
むずかしいことばに比べると「ラララ」はいいなあ。
「ラララ」という音は、私の肉体のなかに「楽しい」何か、「明るい」何か、「軽い」何かを思い出させる。
ひとは楽しいとき、うれしいとき、こころが軽いとき「ラララ」と口ずさむ。「リリリ」でも「ルルル」でも「レレレ」でも「ロロロ」でもない。「ラララ」と声にしてしまうのは「本能」なのか、それとも楽しそうな顔をした人が「ラララ」と声をはずませるのを聞いたことがあって、それを覚えているために楽しいと感じるのか。つまり、楽しいとき人は「ラララ」ということを、無意識のうちに学び、覚えてしまうのか。
どちらかわからないが、覚えたことが「本能」になってしまうということもあるだろう。
そのとき「覚える」のは「ラララ」はいう声(音)だけでもない。「ラララ」と一緒にある楽しい表情、目の輝き、ほっぺたや唇の色、手足のはじけ方--説明しようとするとことばがどれだけあっても足りないものを、一瞬の内に「全体」として覚えてしまう。「ラララ」と口にしながら、子どもだった私は、その「全体」を自分の肉体で再現していたのだと思う。そして、うれしさを思う存分味わったのだ。
そして、いま思うのだが--つまり、これから書くことは子どものときは絶対にことばにすることができなかったことなのだが、--その「ラララ」は「空を超えて」と「星の彼方」のあいだにだけあるのではない。書かれてはいないけれど「ラララ」はアトム全体をつつんでいる。周り中に溢れている。アトムのいる世界が「ラララ」なのだ。
テレビにかじりついてアトムを見ている。そのとき私はアトムではなく「ラララ」を見ていたのだ。「ラララ」という音楽を聴いていたのだ。
「ラララ」という音に関連して、こんなことも考えた。(私は文章を書くとき、結論を想定せずに書きはじめるので、必ず脱線してしまうのだが……。)「二十億光年の孤独」の独特の火星人の描写に不思議なところがある。
「ネリリ」「キルル」「ハララ」の意味はわからない。けれど、それが「動詞」であると「わかる」。それは「している」という動詞に引き継がれるから、そう感じるのかもしれないが、私には、動詞の「活用」そのものに感じられる。母音の変化が、日本語の動詞の活用の変化を連想させるのだ。
「ラララ」という音を聞くとき、その音の周辺に、明るい笑顔やはじける手足が動くのと同じように「リリ」「ルル」「ララ」という音のまわりに「五段活用」のようなものを見てしまう。日本語だからこそ「ネリリ」「キルル」「ハララ」のなかに「意味」があるんだろうなあ、と感じる。
この「活用」を谷川が「ら行」をつかって再現しているのは、とても楽しい。「ら行」の繰り返しが、この動詞によってあらわされている行為を楽しく、明るく、そして軽くしているように思う。
架空のことばなのだから、ネググし、キダダし、ハビビしているでも、「何かしている」という意味は変わらない。でも「意味」ではない何かが変わる。
それはなんだろう。
「音」が変わることで、「音楽」が変わるように思える。谷川は、この「音楽」の感覚が鋭いのだと思う。(私は音痴だから、「音楽」ということばをつかうと、なんとなく見当違いのことを書いているかもしれないなあと思うのだが……。)
「鉄腕アトム」にもどろう。
「鉄腕アトム」の詩には実際に音楽がついていて、歌われるのだが、そういう「楽曲」としての音楽ではなく、別の音楽がある。
どう言い直せばいいのか、私は、まだはっきりとはわからないのだが、「文体の音楽」とでも呼べそうなものがある。
どんな文章にもそれぞれの音楽がある。「音韻」とは別の何か「音楽」としか呼べない何かがある。自立して動いていく音の運動がある。
別の言い方をしてみる。
もしこの詩から「ラララ」を省くとどうなるだろうか。「意味」は変わらない。アトムの活躍に変化はない。けれど、何か物足りなくなる。もちろんその物足りなさは私が「ラララ」があることを知っているから――ということもできるのだけれど、この詩に曲をつけた作曲家は「ラララ」がある詩しか知らない。詩の「ラララ」に誘われて曲をつけている。「ラララ」がなかったら、この曲は違っていただろう。だから「ラララ」がこの曲を作ったともいえる。
だから、私は、この詩には最初から「音楽」がある、というのである。
2014年06月10日(火曜日)
鉄腕アトム
空を超えて ラララ 星の彼方
ゆくぞ アトム ジェットの限り
心やさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム 十万馬力だ 鉄腕アトム
耳をすませ ラララ 目をみはれ
そうだ アトム 油断をするな
心正しい ラララ 科学の子
七つの威力さ 鉄腕アトム 七つの威力さ 鉄腕アトム
街角に ラララ 海のそこに
今日も アトム 人間まもって
心はずむ ラララ 科学の子
みんなの友だち 鉄腕アトム みんなの友だち 鉄腕アトム
*
谷川俊太郎の詩に出会ったのは、これが最初だ。と言っても、谷川の詩とは意識していない。谷川がどういう詩人かも知らずに、ただ、そのことばと出会った。
「ラララ」が楽しい。ここがいちばん好き。
なぜ、そこが好きなのか、子どものときのことを思い出せない。で、どうしてもいまの感想をまじえて書くことになるのだが……。
空を超えて 星の彼方
と、「ラララ」を省略しても意味はかわらない。そうなら、「ラララ」はなくてもいいのに、そのなくていいものがなぜ好きなんだろうか。
たぶん。
「意味」ということばを手がかかりに子ども時代をふりかえると、子どものとき「空を超えて」の「意味」はわかっていなかった。「星の彼方」の「意味」もわかっていなかった。ただ何となく、いま自分のいる地球(地上)よりももっと遠く、見えている空よりももっと遠くという感じだけが漠然と「わかった」。
「空を超えて」と「星の彼方」が同じ意味であり、それが「宇宙」をあらわし、またそれが「どこまでも」という「比喩」であると言いなおすことができるようになるのは、ずーっとあとのことだ。
子どものときは、「空を超えて」と歌ったあと、わけもなく「ラララ」と一呼吸置いて「空の彼方」とことばが動いていくときの、その呼吸がうれしかった。
「意味」ではない、ただの音。しかも明るい「ラララ」という音が楽しかった。
「空を超えて」には意味はある。子どものときは明確に意味を考えないけれど、考えなくても意味があることはわかる。けれど「ラララ」には意味がない。ただ声を出すことのよろこびがある。
あ、そうか、私は意味よりも音、声が好きなのか。私は「ことば」が好きなのではなく、声が好きなんだなあ。音が好きなんだなあ。何と読んでいいかわからないむずかしい本が私は苦手だが、あれはむずかしいことば(漢字)のなかから音が聞こえてこないからだ。日本語として聞こえてこないから、なじめないんだ、きっと。
むずかしいことばに比べると「ラララ」はいいなあ。
「ラララ」という音は、私の肉体のなかに「楽しい」何か、「明るい」何か、「軽い」何かを思い出させる。
ひとは楽しいとき、うれしいとき、こころが軽いとき「ラララ」と口ずさむ。「リリリ」でも「ルルル」でも「レレレ」でも「ロロロ」でもない。「ラララ」と声にしてしまうのは「本能」なのか、それとも楽しそうな顔をした人が「ラララ」と声をはずませるのを聞いたことがあって、それを覚えているために楽しいと感じるのか。つまり、楽しいとき人は「ラララ」ということを、無意識のうちに学び、覚えてしまうのか。
どちらかわからないが、覚えたことが「本能」になってしまうということもあるだろう。
そのとき「覚える」のは「ラララ」はいう声(音)だけでもない。「ラララ」と一緒にある楽しい表情、目の輝き、ほっぺたや唇の色、手足のはじけ方--説明しようとするとことばがどれだけあっても足りないものを、一瞬の内に「全体」として覚えてしまう。「ラララ」と口にしながら、子どもだった私は、その「全体」を自分の肉体で再現していたのだと思う。そして、うれしさを思う存分味わったのだ。
そして、いま思うのだが--つまり、これから書くことは子どものときは絶対にことばにすることができなかったことなのだが、--その「ラララ」は「空を超えて」と「星の彼方」のあいだにだけあるのではない。書かれてはいないけれど「ラララ」はアトム全体をつつんでいる。周り中に溢れている。アトムのいる世界が「ラララ」なのだ。
テレビにかじりついてアトムを見ている。そのとき私はアトムではなく「ラララ」を見ていたのだ。「ラララ」という音楽を聴いていたのだ。
「ラララ」という音に関連して、こんなことも考えた。(私は文章を書くとき、結論を想定せずに書きはじめるので、必ず脱線してしまうのだが……。)「二十億光年の孤独」の独特の火星人の描写に不思議なところがある。
火星人は小さな球の上で
何をしているか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
「ネリリ」「キルル」「ハララ」の意味はわからない。けれど、それが「動詞」であると「わかる」。それは「している」という動詞に引き継がれるから、そう感じるのかもしれないが、私には、動詞の「活用」そのものに感じられる。母音の変化が、日本語の動詞の活用の変化を連想させるのだ。
「ラララ」という音を聞くとき、その音の周辺に、明るい笑顔やはじける手足が動くのと同じように「リリ」「ルル」「ララ」という音のまわりに「五段活用」のようなものを見てしまう。日本語だからこそ「ネリリ」「キルル」「ハララ」のなかに「意味」があるんだろうなあ、と感じる。
この「活用」を谷川が「ら行」をつかって再現しているのは、とても楽しい。「ら行」の繰り返しが、この動詞によってあらわされている行為を楽しく、明るく、そして軽くしているように思う。
架空のことばなのだから、ネググし、キダダし、ハビビしているでも、「何かしている」という意味は変わらない。でも「意味」ではない何かが変わる。
それはなんだろう。
「音」が変わることで、「音楽」が変わるように思える。谷川は、この「音楽」の感覚が鋭いのだと思う。(私は音痴だから、「音楽」ということばをつかうと、なんとなく見当違いのことを書いているかもしれないなあと思うのだが……。)
「鉄腕アトム」にもどろう。
「鉄腕アトム」の詩には実際に音楽がついていて、歌われるのだが、そういう「楽曲」としての音楽ではなく、別の音楽がある。
どう言い直せばいいのか、私は、まだはっきりとはわからないのだが、「文体の音楽」とでも呼べそうなものがある。
どんな文章にもそれぞれの音楽がある。「音韻」とは別の何か「音楽」としか呼べない何かがある。自立して動いていく音の運動がある。
別の言い方をしてみる。
もしこの詩から「ラララ」を省くとどうなるだろうか。「意味」は変わらない。アトムの活躍に変化はない。けれど、何か物足りなくなる。もちろんその物足りなさは私が「ラララ」があることを知っているから――ということもできるのだけれど、この詩に曲をつけた作曲家は「ラララ」がある詩しか知らない。詩の「ラララ」に誘われて曲をつけている。「ラララ」がなかったら、この曲は違っていただろう。だから「ラララ」がこの曲を作ったともいえる。
だから、私は、この詩には最初から「音楽」がある、というのである。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫) | |
谷川 俊太郎 | |
岩波書店 |