詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(74)

2014-06-04 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(74)          

 「忘れるな、身体よ……」も男色の詩である。「身体」が出てくるが、この詩の「身体」は少し変わっている。

身体よ、忘れるな。受けた数多の愛だけでなく、
横たわった多くの寝台だけでなく、
きみを見つめた眼の中に、
きみに語って震えた声の中に、
いかにも露わだった憧れのきらめきも--。

 「身体」に対して、「身体」があじわったものではなく、相手の、きみに対する「憧れ」、その「憧れのきらめき」を忘れるな、と言っている。「官能のよろこび」を忘れるなと言っているのではなく、官能とは別なものを忘れるな、と言っている。
 「憧れのきらめき」、あるいは「憧れ」が「露わであること」--そのことを忘れずにおぼえているとしたら何だろう。それをおぼえているとしたら「身体」というよりも「こころ」ではないのだろう。
 「身体」と「こころ」が、この詩のなかでは一体になっている。区別がないものとして書かれている。
 そもそも、この詩のなかの「出会い」には「煙草屋の窓」のような「肉体の接触」はない。

充たされなかったのはほんの偶然のせいだったが、
決定的な過去となった今では、
肌を合わせたようにも思えてくるではないか。

 実際に肉体的な接触がなくても、そのとき二人はセックスをしているのだ。きみ(カヴァフィス?)を見つめた男。その眼のなかに欲望のように露呈する憧れ--ここで憧れということばが出てくるのは、その欲望が「美」に対しての欲望だからである。カヴァフィスと相手の男は、肉体とセックスするのではなく、美とセックスする。美に近づくために眼は輝き、声は震える。
 何かの偶然(障害)のために実際にセックスはしなかった。しかし、その瞬間、こころはセックスをしていた。
 カヴァフィスは、だから繰り返さずにはいられない。

忘れるな、ああ、きみを見つめていた眼の中の、あの憧れのきらめき。
きみのためのあの声の中の、あの憧れの震え。忘れるな、身体よ。

 繰り返される「あの」は、「あの瞬間」である。「あの瞬間」触れあったのはこころだが、それは「身体」にしみついている。そのしみついたものを忘れるな、と言う。

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